第八章 三十三、ずるい人
第八章 三十三、ずるい人
後で来ると言っておきながら、ルナバルトはなかなか来ない。
心を固めて、覚悟も決めたというのに。
もう半時間も、ベッドに座って待っている。
……こんな肌着で居たら、きっと喜ぶに違いない。
欲望で醜く歪んだ顔を眺めながら、私は……。
そういうシミュレーションを何度繰り返しただろう。
でも、いい加減待ちくたびれてしまった。
「ずっと緊張して……ばかみたい」
そういうことになるなら。
そう思って殺意を露わにしていたけれど……今度はなんだか、どうでもよくなってきた。
好きにすればいい。
この体も、自分ではないのだから。
オートドールという、エルトアが作った造り物なのだ。
「気に入っていたけど……汚されてしまうんだ」
それならもう、自分のものではない、何か借りものだとでも……。
でも、そう考えると、途端に悲しくなってしまった。
こんな目に遭う時が、来てしまうなんて。
どこかで、覚悟を決めていたはずなのに。
いつか家のために結婚をして、その相手と――。
これまでの返せないくらいの大恩を、こうして少しでも返すのだと。
「……貴族令嬢って、大変だったんだ」
そんなことを思っていると――。
コンコン、というノックの音とルナバルトが、そこに居た。
「すまない。覗き見るつもりはなかったんだが……開いていたものでね」
私のキャミソール姿を見て、照れたような顔をしている。
「どうせもう、私はあなたのものです。好きに見ればいいじゃないですか」
尖った言い方をしてやった。
そのくらいしかもう、攻撃手段がないから。
殺すなんて……現実的ではないと、ちゃんと理解している。
「アドレーお義父様にもきちんと約束をしてきた。ルネ嬢にもね。君の許可がなければ、指一本触れたりしないと。だからそんなに怯えないでくれ」
「誰が怯えているですって!」
ふざけたことを言う。
「君だ。負け戦に身を投じる、命を諦めた者のような顔つきじゃないか」
「…………言い得て妙ですね。その通りかもしれません」
怯えてはいないけど、諦めは合っている。
「君は、敵を懐に入れたと思っているんだろう? ――違う。俺は君の味方なんだ。それを信じてもらうために、一緒に寝たいと言った」
「寝たいから言ったの間違いではなくて? というか、いつまでそこに立っているおつもりですか」
背の高い彼を見上げて話すのも、疲れる。
「……隣に座っても?」
「いいですよ。そのつもりで……というか、隣に寝るために来たのでしょう?」
「許可があればね」
そう言って小首を傾げる仕草まで、色男なのが余計に腹立たしい。
「なら、私がずっとそこに立っていろと言ったら、そうするおつもりですか?」
「毎晩は辛いかな」
ああ言えばこう言う。
悔しいけれど、とことんいじめ抜いてやろうという気概でもない限り、私では彼に勝てないだろう。
「……もういいです。私、今から横になりますから。あなたも寝たらいいじゃないですか。指一本触れずに居るなら」
「なんと寛大なお心。感謝申し上げる」
調子に乗って、いちいち大げさに振舞っている。
「バカにしてますよね。どうでもいいですけど」
そう言うと彼は、私がまだ横になっていないのに近付いてきた。
「馬鹿になんてしていないさ。……可愛いと思っている」
「……近いわ」
すぐ側まで顔を寄せて、私の目を覗き込むから離れてほしかった。
「近いのも駄目か?」
「……うるさい」
鬱陶しいので、仕返しとしてベッドの真ん中に、大の字で寝転んでやった。
これで、私に触れずに横になるなんて無理になった。
指をくわえて、そこで突っ立っていればいい。
「これは、俺から触れるわけではないからいいのかな? これは手と足を、俺に差し出したのだろう?」
「は?」
ふざけるなと思っているうちに、彼はもうベッドに手をつき、乗ろうとしている。
「意外と許可は早かったな。ありがとう」
「ふざけないでよ! いいわけないでしょ!」
かといって、屁理屈で上に乗られたら怒りで我を失いそうだ。
すぐに横に寝返って、背を向けた。
「触らないでって言ってるの。乗るのもダメに決まってるでしょ?」
ちらと振り向いて言うと、どうにも嬉しそうな顔をして隣に来ようとしている。
ギシリ――と、二人分の体重を嫌がるようにベッドが軋んだ。
恋仲でもないのに、夫婦になるというのはこんな気持ちなのか。
意外と冷静な頭で、そんなことを思った。
彼が紳士さを維持しているのと、見た目は悪くないので吐き気などはない。
耐えようと思えば、案外耐えられるのだろうか。
「ルネ。こちらを向いて話をしないか」
「背を向けたままでも話は出来ます」
「それでは君の美しい顔が見えない」
「美しい髪は見えるでしょう?」
「なら、そちらに移動しようかな? 一度君に、覆いかぶさる形になるのだが……触れないから良いだろう?」
「は?」
なんとよからぬことを……こうも色々と思い付くものだ。
「どうする。俺はどちらでもかまわんが」
「脅迫ですか。とても素敵な夫ですこと」
「ハハハ。君とこうしているのは楽しいな」
「最悪……。はぁ。分かりましたそちらを向きます」
このままずるずると、何かされてしまうのだけは阻止したい。
「……ようやく俺を見てくれたな。ルネ」
肩肘をついて横向きで寝そべる姿は、なんとも様になっている。
夫であるという、その雰囲気を醸し出しているのだ。
悔しいけれど、この人は頼りになるのではと思ってしまった。
実際、地位も家柄も持つ、立派な人なのだけど。
「見たのではなくて、見させられたのです」
「そのついでに、俺の腕を枕にしてくれないか」
「……何がそのついでなのです」
「向き直ったついでだろう?」
この男は、どんどんエスカレートしていくつもりだ。
「調子に乗ったことを後悔させてあげます。頭を乗せられて、重いからやめてくれと言っても知らんぷりをしてあげますから」
「死んでもやめてくれとは言わないだろうな」
……これから、その腕が重さで潰れなければいいけれど。
そう思ってほくそ笑みながら、差し出された腕に頭を乗せた。
「腕が硬くて、寝心地が悪いわ」
そのせいか、上手く頭の重みをかけられない。
「肘のくぼみに収まるだろう? そこなら比較的柔らかいはずだ」
なるほど、腕枕とはそういう風にするのか。
案外、寝心地も……。
「悪くないわ」
「ふっ。そうだろう?」
もう一度、本当の頭の重みをかけ直してやろうと思ったというのに……。
彼の瞳が、おそらくは亡き前夫人を思い出しているのだろう、優し過ぎる眼差しをしているのを、見てしまったせいで――。
「……ずるいわよ。そんな風に見るなんて」
関係のない私が、泣きそうになってしまった。
どれほど強く愛していたのか、どれだけの悲しみを携えて生きてきたのか、それが見えてしまった。
「愛しているのは、君にも変わらない。ルネ……俺は本当に、君の味方なんだ」
本当にずるい。
その瞳でそう言われては、うなずくしかできない。
「……わかったわよ。わかったから」
――それでは、抱きしめられないのはもどかしくて、残酷なほどに悲痛な想いをさせてしまうのだと、わかってしまうじゃない。
「伝わったなら嬉しい。君に頼ってもらえるように、これからも努力を惜しまないから――」
「特別よ。抱きしめるのは、許可……する」
「――っ。ルネ……無理をしなくても」
「無理なんかじゃ……ないから。いいって言ってるんだから。二度も言わせないで」
「……ありがとう」
その瞳をもう一度見ると、やっぱり……優し過ぎる眼差しで、私を見ていた。
前夫人ではなく、私を。
そして……力強いのに、包み込むような抱擁。
いやらしさなんて皆無な、愛が込められている。
「……ずるい」
私は、心を奪うそれを、ずるいと言った。




