第八章 二十五、ほころびていた作戦の末
第八章 二十五、ほころびていた作戦の末
その日は、もう何もする気になれず帰った。
エラがすぐ出迎えてくれたけれど、雰囲気から察したのか、「おかえりなさい」と一言だけを告げると執務室に入って行った。
最近のエラは、時折大人びた様子を見せる。
横目でそれを見届けつつ、浴場で体をお湯に浸し、そして自室のベッドに倒れ込んだ。
いくつもある枕を無造作に抱きしめて、その中に顔を埋める。
「この気持ちは何なのよ!」
オルレイン隊長の、プライドを捨てた戦法にしてやられた。
突発的で予測しようもない、事故のようなものとはいえ……。
同情心を「引きずり出された」ような、気持ちの悪い感触が胸に残る。
あの心情が想像出来てしまうだけに、放っておけないという気持ちまで微かに生まれている。
彼の周りにどれだけ人が集まろうとも、他の人では癒し得ない心の致命傷を、私に塞いでくれと言われたに等しい。
「卑怯だ……」
けれど――。
だからといって、なびいてやるつもりはない。
でも、もう無下には出来ないような気がしてしまう。
物語として聞いていたのと、実際に本人から聞かされるのでは、その威力も重さも、桁違いだった。
……ずるいやり方だ。
「こんこん。おねえ様」
「……エラ」
ノックの代わりに、口で言うようになった。
忍び込むことが普通になって、そのやり方に私も慣れてしまった。
「お話、お聞きしてもいいですか?」
「…………うん」
一人では、とても抱えきれないと思った。
「……パパにも、聞いてもらいたい」
おとう様にも、少しは責任があるのではと思ったから。
あんなに頭の回る人だと知っていたら、もう少し慎重にした……かもしれない。
いずれにしても、しつこかっただろうけど。
「向かいますか? お呼びしますか?」
「う~ん……。降りる……」
一階の執務室に。おとう様のところに。
**
事の顛末を話した。
もう日が暮れようとしていて、窓からの光は赤く、そして徐々に暗くなっていく。
「まさかそのような手を使ってくるとは……あやつ、切羽詰まっておるのか、それとも……」
長テーブルを挟んで、三人掛けのソファが二つ。
一つに私とエラが座って、おとう様が向かいに座っている。
落ち着いて聞いているおとう様が……いつものように怒らず、じっと聞いていたのはこれを予想していたのではと思った。
「私を知ってしまったことで、刺激されたのでしょうか」
「かもしれん」
どういう流れを辿ろうとも、いつかは結局、こうなっていた。
そんな予想の仕方を、おとう様はしていたのかもしれない。
それが、思っているよりも早かった。
そんな雰囲気の、少し沈んだ面持ちだった。
「……はぁ。私はどうしたら……」
おとう様が行けと言ったら、どこだろうと嫁ぐのだと思っていたのに。
その覚悟は、今はどこにもない。
おとう様もいつものように、「斬り捨ててやる!」といった反応をしない。
ということは、言えば本当に斬るしかなくなる局面に、なってしまうのだろう。
それはつまり、私の覚悟を問われることになるのかもしれない。
「次からは、顔を合わせそうになったら逃げなさい」
その言葉を聞いて、それも嫌だなと思った。
アドレーが、敵を前に逃げるだなんて。
でも、他に良い案が浮かばない。
「……そうするしかありませんね」
相手は、(敵ではないものね)と、自答した。
「私が魅了して、おねえ様に近付かないようにするのはどうですか?」
エラが遠慮気味に言って、私の手をきゅっと、握ってくれた。
私を護ろうとしてくれている。
けれど――。
「近衛騎士団の副団長は、さすがにまずいな」
なんとなく、そんな気はしていた。
でなければいつかは、国王まで魅了することになるかもしれない。
「そうですか……」
残念そうなエラが、私のために考えてくれたその姿が、とても愛おしい。
「ありがと。エラ」
エラは小さく首を振り、俯いてしまった。
その健気な様子を見て、握ってくれていた手を、私からも握り返した。
……そのまましばらくの沈黙が流れて、ふと思った。
エラの方こそ、アドレーの名を正式に継ぐために、好きでもない相手と結婚する可能性が高い。
そして、子を残さなくてはいけないのだと。
私は……子どもを産めない体だから、せめて政略的に役に立たなくては。
国外にそういう相手がいなけば、国内での力を盤石なものにするために。
――それは、エラを護るための先んじた一手になる。
そこまで考えると、相手が人間の屑みたいな男でないだけ、マシかもしれないと思った。
人を人とも思わない残虐な犯罪者、ゲルドバ元侯爵のような。
(私は……ワガママを言っている場合じゃない)
「パパ。もしも嫁ぐとしたら、どういう家が良いですか? 副団長が適しているなら、覚悟を決めます」
握っているエラの手が、ピクリと跳ねた。
「おねえ様!」
一体何を言っているんだと、そう言わんばかりの見開かれた赤い瞳。
「あはは……おかしいよね。さっきまで嫌がってたのに」
「そうですよ! どうして急にそんなこと言うんですか!」
「そうだルネ。つまらん事を気にし出したんだろう。この家はワシの代で終わりでいいと、そう言っただろう。好きになった男とならともかく、政略を考えて急いで出した結論など、ろくな事にならんぞ」
おとう様は本気で言ってくれている。
私は、ただそれだけで嬉しい。
でも……それに甘えているだけでは、誰も護れなくなってしまう気がした。
「パパ。私は、アドレーとしてだけじゃなくて、大切な人を護りたいの。パパのことも。そしてエラのことも。この婚約なら、その礎になれるんじゃないですか?」
近衛騎士団の副団長ともなれば、国家の軍事力の一画。
そこに入り込み、それを手に入れるに等しい。
今は何かあったとしても、近衛騎士団とアドレーの私兵が一応は協力する、という形だ。
それが別個のものではなくなって、少なくとも第二部隊とアドレーの私兵という境界が曖昧になる。
そうなれば貴族派の連中を、ほとんど黙らせることが出来るはずだ。
立場こそアドレーの娘とはいえ、エラは弱点だと思われているから……私の結婚は必ず、将来のエラを護れる。
「今は、貴族派の反発など大した事はない。これからも大丈夫だろうから心配するな」
「もしもパパが居なくなったら、貴族派は一気に勢いを増すと思います。何十年も先のことだとしても……」
ゲルドバがのさばっていたことを考えると、国の体制を中から崩されかけていたのは事実だ。
それを刷新して、アドレーの私兵を堂々と入り込ませることも可能になる。
それに……。
「むぅ。そこまで考えが及んでいたか。……ならば、正直に言おう」
おとう様はそう言うと、優しい顔つきから、将軍らしい覇気を纏ったような気がした。
「今回、国王の頼みを断れなかったのは、開墾に人手が足りぬという単純な話ではなかった。ルナバルトを呼び戻し、ゲルドバのせいで腐った部分を切り取った穴を埋めたかったのだ」
「やっぱり……」
「こうなることも予想していた。あれは悪い男ではないから、ルネが気に入ったらなら良し。気に入らなければあやつには悪いが、申し込みを無視してやろうという少し強引な事を考えていた」
「パパ! それは分かっていても酷いです!」
飲み込もうと思ったのに、咄嗟に吐き出してしまった。
「すまん……。だが、他に良い手が思いつかなくてな……。国王も、あやつに良い話をいくつか用意していたらしが、全て蹴られてしまってなぁ」
「ずさん……。そういう大事なところ、杜撰過ぎませんか? それなら最初から相談してくださったら良かったじゃないですか」
呆れたものだ。
男というのは、こんなに大事な部分を蔑ろにして作戦を立てるものなのだろうか。
「悪かった。そう怒らんでくれ。ルナバルトもさすがにキレておった……。ルネにしわ寄せが行くと分かっていて、それでも父親かと言いにきおったわ。参ったものだ」
「それはいつです?」
「ついさっきだ。お前と鉢合わせせんようにと、それだけ言って帰りおった」
「そんな……」
意外と常識のある、いい人だった……。
「だが、それはそれだ。ワシはお前に幸せになってほしい。好いてもおらんやつと婚約だの結婚だの、考えなくてもよい」
「その気持ちは、ほんとうに嬉しいですけど……」
これでは、おとう様をいじめるみたいになってしまう。
「おねえ様……わたしも、パパに賛成です。おねえ様が役目だと言うのなら、私も誰かと結婚しますから」
いつになく怖い顔で、私をじっと見つめるエラ。
「ちょっと……そんなこと言い出さないでよ」
「おねえ様が先に言ったんですからね」
……さすがに色々とショックだったから、これ以上頭が回らない。
「待ってエラ。一旦休憩しよ? パパ、今日はこれ以上は……」
なんだか、どっと疲れが出て来た。
また頭が重い。
「そうだな。そうしよう。ルネ、急いで結論を出さんように」
「……はい。ゆっくり考えます」
そう言って、エラの手を引いて執務室を出た。
――甘いものが食べたい。




