第八章 十七、パパの怒り
第八章 十七、パパの怒り
昨夜はかなり早く寝たのに……目が覚めたのはお昼前だった。
エラとお風呂に入って部屋でおしゃべりをして、夕食を食べて少ししたら、眠ってしまった。
エラと一緒に居ると、人だった時のようによく眠れる。
一度目が開いてからは、本当に妖精ではないかと疑いたくなる可憐さのエラを、眺めては眠り、気が付けばまた眺めた。
窓から入る日の傾きで、もうお昼前だなと思いながらも、まだ起きる気配のないエラをそのように愛でている。
そんな時に、屋敷中に響き渡るような怒鳴り声が木霊した。
「許すわけがあるかああああ!」
(おとう様の声だ)
ただ事ではない。
さすがに起きたエラに、「ここに居なさい」と言ってエラの剣を手渡し、私は寝間着のままショールと刀を持って部屋を出た。
廊下を翔け抜け、階段を無視して、ほとんど飛び降りるように三階から一階まで抜けた。
急いでショールを羽織り、そして執務室をノックするも返事がない。
私の様子を見て察した近くの侍女が、「あちらです」と応接室を指した。
気を取り直して、エントランスの方に少し戻り、応接室の扉を叩く。
「誰だ」
厳しい声でおとう様が答えたのを、「ルネです」と返す。
「ルネ! 入るな!」
その声と同時に、中から扉が開かれた。
「貴様勝手に!」
おとう様の声は、扉を開けたその人に向けられている。
「――オルレイン……隊長」
「……ちっ。誰か人払いくらいしておかんか!」
おそらくはその指示を出していないおとう様が、苛立ち紛れに檄を飛ばした。
少し離れた所から先程の侍女が、「申し訳ございません!」と詫びにくる始末。
「パパ……落ち着いてください。何があったのです?」
応接室の奥には、憤怒の形相で顔を真っ赤にし、激高しているおとう様が隊長を睨んでいる。
私に礼をするオルレイン隊長を横目に、おとう様の元まで早足で向かった。
一応は客人の前なので、走りはしない。
それよりもおとう様の威圧感が物凄くて、側に行くのが遠く感じた。
どうにか落ち着いてもらおうとその腕に掴まり、背にもう片方の手を添える。
「どうしたのですか?」
今にも隊長を殺しそうな勢いは、まだ消えていない。
その背をさすり、もう少しだけでも落ち着いてはくれないだろうかと祈った。
「ルネ……。大丈夫だ。まだ殺しはせん」
(やっぱり……。というか、「まだ」と言ったわ)
状況的に、どちらを味方して良いのか分からないのでおとう様の元に来たものの……何も話してくれないので分からない。
「ルナバルトよ。調子に乗るなよ? だが今すぐ帰るなら、今日のところはルネに免じて見逃してやる」
……ルナバルト・オルレイン隊長。
彼は一体、何をしたのだろう。
「嫌だと申し上げたら? まだ帰れませんよ、お義父様」
隊長が、白々しくもうやうやしく、おとう様に向かって跪いた。
「誰がお義父様だ!」
なぜか帯剣しているおとう様は、今の言動でその柄に手を掛けてしまった。
でも、私は今、それを止める気になれなかった。
「……まさか。オルレイン隊長?」
「その、まさかだルネ。一体こいつと何があった」
「……何がも何も、意地悪をされたので嫌っているくらいです」
「ほほぅ。分かった。我が娘につまらん事をしたらしいな。……そこに首を垂れていろルナバルト」
「それは困ります。刎ねるおつもりでしょうお義父様。俺は婚約を申し込みに来ただけですよ?」
彼は跪いたまま、余裕というか挑発しているというか、なんとも「むかつく」顔でおとう様を見上げている。
「婚約って……何の冗談ですかオルレイン隊長」
「ルネ嬢。婚約者は居ないと言っただろう? だから俺が申し込みに来たのだ。受けてくれないか」
今度は私に、その青暗く沈み切った瞳に小さな光を灯して、真っ直ぐに見つめてきた。
「ご冗談を……嫌に決まっています」
「そこを何とか。俺の生きる希望なのだ。俺の側に居てくれるだけでいい。他に何も求めない」
何を言っているのだろうこの人は。
「いえ。私はここが良いので結構です。お引き取りください」
「引き取って良いと?」
「隊長……つまらぬ揚げ足を取るなら、斬りますよ?」
飄々として人をからかう彼を、私は好きになんてなれない。
こんな風に神経を逆撫でするから、私まで本気で刀に手を掛けてしまった。
「おおっと! 親子揃って武力で圧するその姿勢。さすがアドレーだ。一筋縄ではいかないな」
訳が分からないだけでなく、苛立たせる才能の塊のような男。
「……斬っても良いのでしょうか、パパ」
「良いだろう。国ごと敵に回したとしても、お前を護ってやる」
それは……もしかすると、国王命令で呼び戻した相手だから、斬るのはダメなのでは。
「パパ……」
私が躊躇したのを、隊長は察したらしい。
「ハハハハハ。察しが良いなルネ嬢。今の俺は国王命令の先にあるから、斬るのは不味いぞ」
「……無礼を働いた者であっても?」
「婚約の申し込みに来ただけだ。俺もわきまえているさ」
わきまえているとまでは、言い過ぎだと思うけれど。
おとう様を見ると、血走った目で歯噛みしている。
「でも、帰れと言われたら帰るべきでしょう、隊長。これ以上嫌いになっても?」
「む……。さすがに、ここまで毛嫌いされているとはな。出直すとしよう」
「出直さなくて結構です。二度と来ないでください」
「……俺の何がそんなに気にいらないのだ。紳士的に接していたはずだろう」
そう言われると、ギリギリそうだと言えるのだけど……。
「全部イヤなんです。負けたのも悔しいし、その上からかわれたのも嫌でしたから。とにかく、全部イヤです」
……簡単な言葉にすると、こどもっぽい理由に思えてしまった。
もっと詳しく言うべきだったかもしれない。
「ふ。フハハハハ。そうか、そういうことか。それはすまなかった」
ともあれ、笑い飛ばすとはいい度胸だ。
「本気で怒らせたいのですか?」
隊長は大きな手の平を見せて「待った」と短く告げ、そして続けた。
「いいや。怒らんでくれ。――だがルネ嬢、悔しいのならまだ強くなれるだろう。再戦の申し込みならいつでも受けるが、どうだ? 鍛えてやってもいい。お義父様では甘やかしてしまって、鍛えられんだろうしな」
彼は嘲笑ではないけれど、挑発的な目つきでおとう様を見た。
「何だと! 黙っていれば増長しおって!」
おとう様の血管が、はち切れそうなほど太く浮き出ている。
「おとう様、挑発に乗ってはダメです。――だけどその通りです。そんな言葉に乗るわけがないでしょう。早くお帰りください」
何を言っても、ああ言えばこう言う。
まだ舌戦を続けるというのなら、私は刀を抜くつもりだった。
――諦め。
もうどうしようもないのなら、この人を斬って私は国を去るつもりの覚悟を決めた。
そして、「もうどうでも良くなった」という、冷めた視線を彼に送った。
「……仕方がない。今日は帰る。だからその冷めきった目をやめてくれ。俺が悪かった」
隊長は珍しく慌てた態度になった。
「だが、俺の心に偽りは無い。せめて一秒でもいい。俺との婚約を真剣に考えてみてくれ。どうかよろしく頼む。ルネ嬢」
彼はそう言うなり、また深く頭を下げては立ち上がり、さっと踵を返して帰って行った。
「馬鹿者! 次は敷地に入った瞬間に斬り殺してくれるわ!」
おとう様もしっかりと、最後の怒号を投げつけた。
もっと言ってやって欲しいけれど、頭に血が昇り過ぎて、二人とも語彙力が極端に低下しているらしい。
私なんて、最後の文句が出て来なかったのだから。
そして、おとう様はようやく、長い溜め息をついて気を静めてくれた。
それからフラフラと三人掛けソファに、よろめくようにしてどっかりと腰をかけては、両手を背もたれの上に乗せた。
大きなクマが、仰向けにヘバっているみたいに見える。
(……私も疲れたぁ。寝起きまでは、最高の気分だったのに…………)
「……パパ」
何か意見を求めたいけれど、言葉が出て来ない。
代わりに、何とも言えない不安を少しでも和らげたくて、おとう様の隣に座って身を寄せた。
おとう様は喜んでくれる元気さえなく、天上を見上げたまま、張りのない声を出した。
「厄介なやつに……目を付けられてしまったな」
おとう様がそう言うということは、よほどしつこいか、面倒臭いことに頭が回るタイプなのだろう。
きっと後者だ。
「どうしたらいいですか? 私は……しろというなら婚約しますが……。気持ちは嫌です」
どちらも本心で、どのように指示されても「はい」と言う。
でも……あの人と婚約なんてしたら、きっと初めて……王国の人間を斬ることになるだろう。
「馬鹿を言うな。誰があんなやつと婚約させるものか。……まぁ、無理にどうこうとはして来んだろうが……。とにかく何があったのか、報告を聞かせてくれ」




