第六章 二十六、新しい名前
第六章 二十六、新しい名前
後日、例の海洋では、沈没船が二隻とも発見された。
積荷のほとんどが無事で、まるで保存でもされていたかのような状態だったという。
食料品はさすがにどうにもならなかったらしいけれど、それ以外の物が手元に戻ったことは、伯爵も安堵していた。
それだけで済ませる訳にはいかないので、あんな遠洋に浅瀬が出来ていることの調査を……というところで、カミサマが止めた。
「神隠しからあの場所に出る時、半月以上は近付いてはならないと、お告げをもらった」
堂々と語るカミサマは、他に何を聞かれても、それ以外のことを言わなかった。
「そのお告げしか聞いていない」「それ以外は全く分からない」と繰り返すその様に、伯爵が根負けしていた。
それできっと、エルトアとの約束は果たせただろうと考えて、私達はノイシュ領を後にした。
そもそも、海に出る者はゲン担ぎや得体の知れない事象を、かなり大切にする。
放っておけば害が無さそうな事柄な上に、「近付くな」とまで言われたことを無視出来ないという流れが、民衆にも水兵達にも出来上がっていった。
そのお陰で、誰もあの場所には半月以上は近付かなくて、それから後、無事に航路は戻ったらしい。
『やはり、お告げを守って正解だった』
皆のそういう認識の中、航路も復活出来て、この沈没事件は幕を下ろした。
――という報告が、ミリアからの手紙に書かれていた。
**
あの日、伯爵のお屋敷で一日休んだ後、詳しい報告をしたり歓待を受けたりでもう一泊お世話になり、それから王都に戻った。
ヘンリーや護衛騎士達に、心配をかけたお詫びと、カミサマのことを伝えた時には驚かれた。
カミサマは相変わらず『神隠し』で通していたし、皆もそれで納得せざるを得なかった。私も「そうだ」と言うのだから、それ以外に答えはない。
後は彼らの主君である、アドレー公爵の判断を仰ぐしかない。
こういう時は本当に、貴族というのは便利で、そして恐ろしいなと思う。
エイシアはどうしたかというと、やはり最初は戸惑っていた。
私の状況をすでに知っているから、本当のことを伝えたけれど、さすがに目を丸くしていた。
動物が心底驚いて目を見開くのは、姿かたちは違っても、同じ生き物なのだと感じて少し楽しかった。
でもそれよりも、カミサマも念話で話せると分かったのが、一番の収穫かもしれない。
その会話で面白かったのと驚いたのが、カミサマの体重について話した時だった。
――(帰りは私がエイシアに乗せてもらおうかな。何気に初めてだし)
そう言った後に告げた重さも、エイシアの隠れた才能も、話してみないと分からないことばかりを知れた。
――(私の体、かなり軽量化したらしいけど、それでも千二百五十キロあるから。また妙な事したら、首の上で念動切っちゃうからね。分かった? エイシア)
カミサマに触れたり抱きついたりした感触だと、普通の女の子くらいの重さにしか思えないのに。
けれど、それもそのはずだった。
どうやらカミサマは、念動で二十三分の一まで浮かしているとのこと。
――(五十二キロ程度か。考えたものだ)
という、エイシアの計算力まで見られて、ほんの数分のことだったのに、とても濃い時間だった。
帰りの森林街道では、久しぶりにクマの獣を二頭見た。
見たというよりは、「出た」と言うのが正しいのだけど。
カミサマは「エイシアはエラを護って」と言うなり、本当に一瞬で距離を詰めると、片方をあっと言う間に斬り伏せてしまった。
残る一頭には――なんと、ビンタをした。
四つん這いで、烈火のごとく怒り迫るクマに対して、ドスン、という重い音のビンタを。
聞けば、何とかという技らしいのだけど、ともかく素手で倒してしまったのだ。
これは……本当を言うと、それを見ていた護衛騎士達の話を聞いただけなのだけど。
私は馬車の中に居たから、全く何も見られなかった。
そして、これを除けば終始安全に、無事に王都へと戻ることが出来た。
**
王都に入る前に、エイシアに乗るのをカミサマと替わった。
人気ゆえに目立つエイシアに、知らない人が乗っていると悪目立ちするから。
そして案の定、お屋敷に着くまでの間、私とエイシアは歓声を受けながらの帰路になった。
出発の時とは違って、いつ戻るか分からない状況だったので、取り囲まれるほどの人だかりは出来ずに済んだけれど。
それとは別に、私は、カミサマが巡行するところを見てみたいと思った。
それと、一緒に乗れたらいいのに、と。
こうして体も別々になったからこそ、目でも体でも、カミサマを感じていたいと強く思ってしまう。
(なんだかずっと、舞い上がったままだわ……)
そんな、ふわふわとした状態でお屋敷に到着すると、玄関前でリリアナとシロエが出迎えてくれているのが見えた。
(まだファルミノに戻っていなかったのね!)
ほんの一週間程度だったというのに、随分と顔を見ていないように感じて、私はエイシアを急かした。
(早くただいまを言いたい)
「リリアナ! シロエ!」
「おかえり、エラ」
「おかえりなさいませ」
エイシアから転げないように降りて、二人に抱きついた。
「会いたかった」
そう言うと、「しばらく見ないうちに、さらに甘えん坊になったのね」と、リリアナに言われた。
「私には、たくさん甘えて頂いていいですからね?」
シロエはいつも通りに、甘やかしてくれる。
そんな幸せな帰宅を味わっていると、馬車が追い付いて止まった。
「あ、そうだ。紹介したい人がいます。その、話すと長くなるので、おとう様……パパと一緒に紹介したいのですが」
「あら、誰を連れてきたの?」
「エラ様が、我々の知らない人を?」
二人は、どうやら別の方向に勘違いをしたらしいことが分かった。
なぜならその言葉に、冷たいトゲを感じたから。
「お、男の人じゃないですよ?」
そんなやり取りをしていると、護衛隊長のヘンリーが馬車の扉を開いて、エスコートの準備をした。
「……本当に、知らない人ね……」
「お綺麗な方ですけど……ノイシュ家のご令嬢とは違いますね」
ヘンリーの手を取り降りて来たカミサマは、衣姿であってもどこか神々しくて、何度見ても見惚れてしまう。
「……あの、今日から……もしかすると、お世話になるかもしれません」
この姿になって、初めて見せる対応だった。
カミサマはどこかオドオドとしていて、ちらりと二人を見るものの、すぐに目を逸らしてしまう。
(そっか。そうよね。早く紹介してあげないと)
「あの。ほんとはすぐにご紹介したいんですけど、今から一緒に、おとう様のところまで来てもらえませんか? そこで詳しい話をしたいんです」
適当なことを言いたくない。
だから、皆が揃った時に本当の話をしたい。
そんな私の、理由があって急かす姿を察してくれたのか、二人は何も聞かずにいてくれた。
「わかったわ。おじい様は今、執務室にいらっしゃるから。すぐに行きましょう」
その言葉に私は頷いた。
そして、カミサマは静かにお礼を述べた。
「ありがとうございます」と。
その声は不安そうで、そして逃げ出してしまいそうなほど、前で組んだ手にぎゅっと力が籠っていた。
(……もしも認めて貰えなかったら、カミサマはどこに行けばいいんだろう)
一瞬だけ、カミサマが考えているだろう不安が、私の脳裏にもよぎった。
けれど、お義父様はきっと分かってくれるはずだと、そう思った。
(きっとじゃない。絶対に、カミサマのことを受け止めてくれる)
**
「おとう……パパ。ただいま戻りました」
「エラ。お帰り。無事で何よりだ」
最初に私が入って、それから、皆も続いた。
お義父様は仕事の手を止め、席を立って……私の頭を撫でに来てくれたのだろう。私も無意識に、お義父様の元へと歩み寄った。
けれど、お義父様は見慣れない姿を見て、視線をカミサマに向けた。
「それで? そちらのお嬢さんは誰……。――いや……」
そのまま、お義父様は押し黙ってしまった。
「パパ。あの、こちらはその……」
しかしいざ説明しようと思うと、どこから言おうかと迷ってしまう。
そんな風にまごついていると、お義父様が口を開いた。
思いのほか、優しい口調で。
「エラ。……ワシと最初に過ごしたエラだろう? 違うか? いや、まさかとは思ったが……その目、その立ち姿。他におるまい」
懐かしい人を見る目で、お義父様は少し、手が震えている。
そっと私の頭に置いたその手が、震えている。
「えっ……と。その通りです。パパ」
「エラよ……一体これは……。それに、どちらをどう呼べば良いのやら」
ぐっと涙を堪える顔は、苦しそうな、悲しそうな、それでいて嬉しそうな……複雑なものだった。
「私に、新しく名前を付けてくださいませんか。おとう様」
カミサマは一歩前に出て、その弱々しい声を振り絞った。
造られたというその体は、それはもう人だと思った。
その涙声は、懐かしいというだけではない。不安で仕方がないのだろう。
「……そうか。あとで経緯を聞かせてくれるんだろうな?」
「はい。全て」
ひとすじの涙を零しながら、カミサマはしっかりと答えた。
震える声が、指先が、次の言葉を怯えながらも、待っている。
「うむ。――ならば……そうだな。その佇まいと容姿にぴったりの名を贈ろう。これからは、ルネと名乗りなさい。ルネ・ファルミノ。もう一人の我が娘よ」
その言葉を聞いた瞬間、カミサマは、両手で顔を塞いだ。
俯き、その手に受けた涙さえ、零れ流れていく。
(声を出して泣いても、いいのに……)
肩を震わせて泣き続けるカミサマに、お義父様は私の背を押して促すようにした。
(二人じゃなくて、私も一緒に――)
お義父様はカミサマに近寄ると、膝をついて優しく抱きしめた。
「ルネ。さぞかし、不安だったろう……」
大きな体を丸くして、しっかりと全身で包み込むように。
少し遅れて、私もカミサマに寄り添うと……お義父様は私ごと、ぎゅっと強く抱いた。
「……おかえりなさい。カミサマ。――ううん、ルネお姉さま」
私も、いつの間にか泣いていた。




