第四章 五、人魔の幼子(七)
人魔の幼子(七)
しばらくの間、ソファで三人抱き合いながら眠っていたらしい。
先に目覚めたシロエが、わたしの頬をつんつんと触れていたところを、何だろうかと気が付いた。わたしで遊んでいたシロエに、頬を膨らませてダメですよと合図していると、リリアナもすぐに起きた。
「……いつの間にか眠ってしまったのね。まさか、三人とも?」
「はい、うたた寝していたようです」
「エラ様の幸せそうな寝顔が見れて嬉しかったです。私も起きたのは今しがたでしたが」
暖炉の温もりだけでなく、冬に珍しい陽光を受けて気が緩んだのだろう。
「フフッ。こんなことなら、寝室のベッドで話せばよかったわね」
「そんなことしたら、ガラディオの訓練に行けなくて怒られてしまいます」
「あらあら。エラ様は夜まで眠るつもりなんですね」
シロエの冗談でまた笑って、三人で目を合わせては、クスクスとさらに笑った。
「そうだ、エラ。聞いていいのか分からないんだけど……純粋な興味だから、無理に答えなくていいからね」
そう前置きすると、リリアナはわたしの名を聞いた。
エラという名は、リリアナが付けてくれたものだからだ。
「別に構いませんよ? ただ、あまり良い意味ではなさそうだったんですけど……一番目の……という意味の名前だと聞きました」
「一番なら……つけなくもないわね。名前には、色々な想いを込めるものだもの」
「そうなんですか? とても蔑んで呼ばれていたので、もっと悪い言葉なのだと思ってしました」
「蔑む……?」
リリアナは訝し気な顔をした。しかめっ面のリリアナは、美人なだけに余計に怖く見える。
「は、はい。普段はお前とかおいとか、名前でさえ呼ばれませんでしたが。たまに、心の底からけなされる時だけ名前で呼ばれました」
「まさか……まさかだけど……イミゴアと言われてたんじゃないでしょうね」
彼女は突発的に身を引いて、怒りを抑えられないという雰囲気で、普段よりも低い声でわなわなと、わたしの名前を言い当てた。
「え……ええ。よく分かりましたね。そう呼ばれていました」
「そんな……なんという酷い……」
わたしに抱き付いたままのシロエが、眉をひそめて固く両目を閉じた。目も当てられない。というそぶりだった。
「そ、そんなに酷い名前なんですか? イミゴアって」
「言わないで! それは……人に言っていい言葉ではないの。ううん。何に対しても、口にするような言葉じゃない。忘れて頂戴」
リリアナは、怒っていいのか悲しんでいいのか、感情の置きどころが分からないようだった。顔は怒りで歪んでいるのに、声は今にも、泣き出しそうだ。
「よ、余計に気になります……」
「だめ! だめよ。聞かないで。口にもしないで。他の誰かにだって聞いちゃだめ。もう忘れなさい」
「……そうですよエラ様。世の中には、知らなくてもいい言葉もありますから」
「二人だけ知っていて、ずるい気がします……」
二人の反応を見ると、本当に悪い言葉なのだろう。
「エラ……あなたには、人の浅はかで汚れた部分を、あまり知って欲しくないのよ」
そう言われると、聞かないでおこうかと思った。
けれど、これはきっと過保護なのだ。
もしかすると、またどこかで耳にするかもしれない。その時に、それに対して怒りさえ覚えられないのだとしたら……もしも誰かが言われて、それを庇い護る事が出来なかったら。
そう思うと、やはり知っておくべきだと思った。
「……リリアナ。わたしはアドレーの娘です。リリアナを護る盾で、戦うための剣です。そうなりたいんです。善良な市民に対しても、そうありたい。だから、その言葉を知らずにいて、後悔するようなことになりたくありません。誰かがそれで傷付けられた時に、護ってあげたいんです。だから、意味を教えてください」
意外とわたしは、まともな事を言ったような気がする。勝手に口が動いた。けれどこれは、わたしの本心で間違いない。護られるばかりではなくて、人の心も護りたい。武力ばかり持っていても、心を支えられる人間でなくては片手落ちもいいところだから。
「う~~ん…………。シロエはどう思う?」
「えっ。わ、私に振るんですか? 私は……エラ様のお気持ちに沿いたい、とも思いますが……聞かせたくないのは当然で……。やっぱり、選べません」
二人の困惑ぶりを見るに、相当酷い意味なのだろう。そうかと言って、ここまでされると逆に聞かずにはいられない。
「そんなにわたしは子どもみたいですか? それに、わたしは自分が傷付くよりも誰か他の人が傷付く方が、心が痛いです。暴言を暴言であると、知っておきたいんです」
ここまで言ってもだめなら、もう少し大人だと認めてもらえてからにしよう。そう諦めかけた時だった。
「……いいわ。私もあなたくらいの年には、王宮を出たいと思っていたんだもの。それとは話の違う事だけど、エラの意見も尊重しないとね」
リリアナはようやく、教えてくれる気になったらしい。ただ、もったいぶられ過ぎて、きっと拍子抜けする程度の言葉ではないかと考えている。
シロエも固唾を呑んで見守っているけれど、大袈裟だなと感じていた。
「イミゴアという言葉はね……世界で最も不要な、世の中で一番嫌われるべき汚物。という意味よ。どう? 最低でしょ……」
聞いた瞬間は、いまいちはっきりと理解できなかった。
けれど、その意味がしっかりと頭の中に入ってくると、少し……いやかなり、引いてしまった。
「うわぁ…………結構ひどいですね。そこまでの言葉があるとは思いませんでした」
予想していたよりは酷かった。
やっぱり悪い言葉なのだと知ったことで、誰かが口にしたら怒らなくてはと思った。でも、ただそれだけのことだ。
「え、あ、ショックとかじゃないの? じゃなければいいんだけど」
リリアナはもしかすると、わたしがそう呼ばれていたからと気遣っていたのだろうか。
碧い目をきょろきょろと泳がせて、どう接していいのか分からない様子など初めて見るような気がする。いつも堂々としているから、なおさらだ。
「フフッ。どうしてリリアナが困っているんですか? わたしは教えてもらえて良かったですよ? それで呼ばれていたことは悲しいというよりは、元の母はなんて酷い人なんだろう。って思うくらいです」
「そんな、他人事みたいに……」
シロエがたまらず声をあげた。わたしを抱きしめていたその腕を離して、今度は手を取ってじっと見つめてきた。
「そ、そう言われても。……いえ、お二人の……それから皆のお陰です。たくさん愛されて、わたしはそんな言葉で傷ついたりしないくらいに、皆さんに護られているから。だから全然何とも思いませんでした。その言葉は誰にであっても、使うべきではないと思いましたけどね」
強がりでも何でもなく、本当に皆のお陰でそう思えるのだから、わたしはそれが嬉しかった。
「そんな事よりも、真冬でも床に毛布一枚しか与えられなかったこととか、食事を何日も与えられなかったこととか、そっちの方が苦しかったです。あとは暴力も。言葉だけなら、どこも痛くありませんしね」
「うっ……エラ様……あなたという人は……」
「酷過ぎる……あなた、昔の事を思い出したの?」
そういえば、カミサマはわたしのことを何も知らないんだった。だからシロエもリリアナも、わたしの過去は何も知らない。
「あ~……、はい。思い出したというか、そうですね」
「それで、今言った事は本当なの? そんなに酷い仕打ちを受けていたの?」
「ええ、まあ……。それがわたしにとっての普通だったので……」
「ううぅ。エラ様ぁぁ!」
今の貴族生活から考えれば、とんでもない環境だったとは思う。虐待という言葉も知って、あれは殺人に近い虐待だったと、今なら分かる。
けれど、あの時はまだ、何も知らなかったから。だから耐えられたのだろう。
(今、あんなことをされたら……何日も持たないだろうなぁ)
「……エラ。私はちょっと、許せない事が出来たから席を外すわね」
「えっ?」
彼女のその顔は、冷徹な悪魔だった。その美しい顔立ちが、怒りで血の気が引いたのだろうか。青白く、真顔であるにもかかわらず怒りに満ちていると分かるその顔は、高貴な悪魔のように見えた。
「ちょっ……と、どこに行くんですか?」
「少し、指示を出しに行くだけよ?」
わたしにだけ微笑みを向けてくれるけれど、こちらの心が凍り付くかと思うくらいに冷たい微笑だった。
「え……エラ様。今は何も……」
「う、うん」
ただ彼女は、「用事が出来た」ではなく、「許せない事が出来た」と言った。
もしかしたら、本音と建て前がかみ合わなくなって、本心が漏れてしまったのかもしれないけれど。
そこでわたしは、ハッと気づいてしまった。
(あの時の……あの女性。母の面影が、あったといえばある。あれが、わたしの母親だとしたら……)
「リリアナ。だめです! 手を汚す様な真似はしないでください!」
すでに扉を半分開けている彼女は、視線だけを返して出ていってしまった。
「リリアナ!」
飛び出そうとした所を、シロエが抱き付いてわたしを止めた。
「シロエ。リリアナが。あれは、人を殺める気でしょう? あの時の母の事、調べ上げたと言っていたじゃないですか!」
わたしが我が儘を言って、街に出かけた時に絡んできた女性。
あれを……あの人を始末しろとでも、指示しに行く気だ。
「止めないでください。その女性がエラ様にした所業は、殺人よりも重い罪なんです。暴力だけでなく、言葉でも心を殺し、あまつさえ食事も、暖をとる事も許さないなど……重罪の中の重罪のひとつです! 死罪では生ぬるいからと、拷問を許された極大の重罪なんです……」
そう言われて、わたしは全身から血の気が引いた。
思い出してしまったのだ。何をされてきたのかを。
されてきた酷い事を。
忘れていたことも全て。
走馬灯のように、小さな小さな頃からの、おぞましい日々を。
「あ……あぁ……。あぁぁぁぁ!」
怒りが、脳を焼き切ってしまうかのような怒りが。
冷たく凍り付いたような血が全身を巡って、体は震えて止まらない。
涙は枯れてしまったようで、乾いた叫び声だけが少し漏れた。
「エラ様……エラ様……。もう、思い出さないでください。だから、申し上げましたのに……」
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*作品タイトル&リンク
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『 オロレアの民 ~その古代種は奇跡を持つ~』




