最後の帰り道
これは眼精疲労の範疇に納まるのだろうか。嘘のように消えては現れる出口を前に、俺は目薬を探していた。連日の終電帰りに心も体も疲弊しきっている。きっと目がかすんでいるだけだ、出口も捉えられないような目じゃ地上への階段は危なくて登れないなあ。なんて自分に言い聞かせながら探し当てた目薬をさしていく。
さあ三度目の正直、これで見えないはずが無いと自分を鼓舞しながらゆっくりと瞼を開いた。安っぽい蛍光灯の光が目を刺し、打ちっぱなしのコンクリートの灰に滲む。シャッターの下品な落書きと地上への階段が一瞬網膜に写り、残像を残して階段のみが消え去った。
ああ、認めたくなかった。地上への出口は俺の目では捉えられない位の速度で移動し続けている。あまりに非現実的で非常識な現実は、疲れ切った脳みそを痛いくらいに打ちのめした。
誰かに助けを求めようと携帯を手に取ったが、アンテナの1本も立ちやしない。実際連絡が取れたとしてこんな現象をどう伝えればいいんだ。地下街の出口が移動していて帰れないんですが……なんて話したところで酔っ払いの戯言ととられて終わりだろう。
もし、もしここから出られないとして、俺は何日生き延びることができるんだろう。鞄の中を漁っても、晩酌に買ったカップ酒といくつかのつまみしか見当たらない。トイレが使えることは確認済みなので、節約して1週間くらいだろうか。
それまでに俺の行方不明に気づき、しかるべき機関に連絡を取り救助してくれるような知り合いはいたっけなあ……
友人関係の希薄さに、我がことながら笑いが漏れる。学生時代のサークル、働き始めてからの飲み会。チャンスはいくらでもあったのに、俺は今まで必要以上に関わりを持とうとしなかった。理由は単純。他人との交流に意味を見いだせなかったからだ。こんなことになるなら、無理してでも参加していれば、毎日連絡を取り合うような親友が俺のことを助け出してくれたかもしれないのに。今からでも戻れないだろうか。いや、今戻るべきは閉鎖前の記念に地下街を通ろうと判断した時だな。
取り返せない過去への後悔より、脱出方法を探った方が残された時間を有用に使えることに気づいたのは閉じ込められてから数十分後。腹の虫が大きく騒ぎ立てたのに、時間の経過を自覚した。スルメを囓りながら見渡す限りのシャッター街を、行くあてもなくふらつく。動かない出口は一つも見つからず、階段も、従業員用のドアも、俺をあざ笑うかのように音も無く壁を走り抜けていった。
飛び込んでみようと壁に頭を打ち付けること5回、何かで固定すればと鞄を跳ね返されること3回、鈍く痛む頭を抱えて、床に体を放り出すこと2回、シャッター街の散歩はもう10周目を数えようとしている。そろそろ身も世もなく泣きわめきたい気分だ。
もううつぶせで妙案の訪れを待つことしかできやしない。疲れ切った体は姿勢に応じて眠気を催し、それに抗うことなく瞼を閉じようとしたそのとき。
「おじさん、なんでそんなとこで寝てんの?」
俺以外、人っこ一人見当たらなかったはずの地下街。あり得ないはずの他人の声に瞼をこじ開けられ、顔を上げた先にはセーラー服を身にまとった少女が佇んでいた。
肩までの黒髪は美しいストレートで、赤いタイは皺一つ無い。膝までのプリーツは折り目も正しく、まさしく絵に描いたような女学生だった。今時こんなに綺麗に制服を着こなす少女は珍しく、若干の郷愁と共にぼうっと見上げていると、からかうように彼女は繰り返した。
「おーじーさん、私が可憐でみとれちゃうのはわかるけどさ、質問には答えてよ」
余程の容姿を持たなければ許されないその台詞も、彼女にはふさわしい。漂白された思考をなんとか取り戻し、謝罪と説明を試みた。
「ふーん、出らんないんだ」
他人事のように呟く。いや、実際に他人事ではあるのだが、ここにいる以上彼女も被害者の一人のはずだ。そうでなければこのふざけた空間の支配者だとか。
「ね、そのイカひとつちょうだい?」
こちらが悩んでいるのも気にせずに、無邪気におやつを要求してきた。貴重な食料、何か交換条件を出すべきなのに俺の手は自然と袋ごと差し出していた。
「ありがとね」
おざなりに礼をいい、スルメをくわえ歩き出した。あわてて身を起こし追いかけたが、異様に足が速い。こちらは全力で走っているのに、角に消えるスカートの裾しか視認できないのだ。ひらりひらりとこちらを誘うかのように揺れるそれを追いかけるうちに、いつも使っていた出口のある場所に辿り着いた。今は壁しか存在しないので、正確にはあった場所、なんだが。
息を切らし追いついた俺をニヤニヤと見下ろす彼女はとても楽しそうで。少女愛好の趣味は無いはずだが、こらえきれずに震える口角を見ていると、からかわれた怒りの居所が無くなってしまった。
「おつかれさまー、大丈夫?」
形ばかりの心配に、何の問題も無いと返す。明らかに乱れた呼吸のまま返した俺に笑いを漏らす彼女は、すいと音も無く近づいてきた。驚いて後ずさろうとした体には気もとめず、鞄に手を突っ込み漁っている。そうしてお目当てを見つけたらしい彼女は、ガラスの瓶を取り出した。
中では透明の液体が揺れていて……ってあれは俺の晩酌用のカップ酒じゃないか。こんな状況とはいえ未成年の飲酒を見逃すほど腐った大人になったつもりはない。
「私が飲むんじゃないよ、おじさん」
体への悪影響や法律を破ることのリスクを語る俺に少女は言う。じゃあ一体誰が飲むっていうんだ。今この場には俺と彼女しかいないというのに。
「ここ、出たいんでしょ?いっぱい付き合ってくれたし、もう満足らしいから出したげる」
彼女はおもむろに酒を壁にぶちまけ、スルメを投げつけた。
訳のわからない行動を止めようと手を伸ばしたが、信じられない光景に指の先まで凍り付いた。
どう手を尽くしても止まることの無かった出口が、一度も動いたことなんてないような顔をしてそこにある。
「おじさんさあ、ちょっとは健康に気ぃつかったほうがいいよ、心配してくれる子もいるんだし」
この文脈で俺の健康が出てくる意味がわからない。呆ける俺の背中をぐいと押して、
「ほら、いっぱい走ったんだし疲れてるよね、さっさと帰って寝た寝た!」
と告げる少女を連れて出ようと階段に足をかけ振り返ったが、スルメも酒も、一瞬前まで存在していた彼女も煙のように消えていた。
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謎の人外少女サイコーーーーーーーーーーー!!!!!