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感情を喪った世界

作者: 雨草 綴

 この世界では感情を浪費する毎に寿命が縮む。その現実に気付いたのはひとえに一人の科学者のお陰と言える。

 その日、世界に公表された一大発表は様々なニュースを置き去りにしてひとりステージに登った。各国から舞仕切る批判の数々も検証、実験、事例を通して現実であることを認知するうちに弱まり、遂には息もしなくなってしまった。

 この世界の人々がその現実を受け入れたのは二年経った頃だった。その頃には人々の顔に表情は見えなくなってしまった。

 ただ、無感情に。ただ、淡々と。

 命惜しさに人々は顔に分厚い仮面を被るようにして生きるようになってしまった。僕もまたその一人だ。親から押し付けられるようにして被せられた仮面は僕自らが接着剤を付けた。


 今日もまた代わり映えのしない日常。家から通学路を通って学校に行き、指定の科目を修めて帰途につく。

 空は黄昏。橙に染まった夕日が世界をゆっくりと照らしている。

 何の変哲もない日常だ。ただ、皆が無表情なだけで。人は表情を出さないだけで言葉をめっきりと喋らなくなってしまった。言葉には言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの二つがあるというが、表情が占めるコミュニケーションの幅の広さを、表情を喪って初めて知った。

 こんな世界を寂しくないかと言われたら勿論寂しい。でも、生きる為なのだ。


「おっと」


 そんな灰色の世界の中で、僕は色のついた人間を見た。緑石の上を子供のように無邪気に歩く、少女。楽しそうな表情のまま、バランスを崩さないように歩いていた彼女は、不意に体を傾かせ、歩道の方へ転んでしまった。その転び方はやけに派手で、堪らず僕はそちらに駆け寄った。

 そして、声をかけてしまったのだ。「大丈夫かい?」と。

 思えばどうして声なんかかけてしまったのか。表情を堂々と面に出す人なんて今の世の中じゃ狂人か早死にをしたがる人だけだと言うのに。

「いてて」と尻をさすっていた彼女は僕が手を差し伸べたのを見てきょとんとした。それから満面の笑顔で「ありがと」と手を掴んだ。

 その笑顔の、なんと眩いことか。最後に人の笑顔を見たのはいつだっただろうか。裏も表もない、感情をフルに使った表情は僕の脳に深く刻み込まれる。


「いやぁ、バランスをとるのって難しいんだね。私じゃ何度やっても転んじゃう」

「……下ばかり見ているから、じゃないかな。バランスをとるときは少し前を向くといいよ」


 僕は何を言っているのだろう。

 彼女もどうして当たり前のように「ありがと!」なんて言うのだろうか。


「君も、もう少し愛想よくしたらきっと魅力的だと思うんだけどなぁ」

「……愛想を良くして寿命が縮んだんじゃ世話ないよ」

「そう?」

「そうだよ。皆そう。むしろどうして君はそんなに感情を出しているんだい? 知っているだろう? 感情を出してしまえば寿命が縮まるって」


 僕がそう言うと、彼女は当然のようにこう言った。


「だって、つまんないもの。人には当たり前の機能として感情があるのに、どうして縛らないといけないの? そんな人生、ロボットみたいじゃん」


「むしろ」と彼女は言葉を返す。


「君はどうして私に話しかけたの?」

「だって、それは君が転んでーー」

「私、知ってるよ? 感情を出す人は変人だとか狂人だとか、早死したがる人間だとか言われているんでしょ? そんな人に話しかけるのは自分の感情を引き出されちゃうから危ないって」


「でも、君はそんな私に話しかけてくれた」と。


「なんだか、面白いね、君」

「……違うよ。本当に違うんだ。ただ、転んだ姿が酷く危なっかしくて、心配してしまって……」


「ふふっ」と彼女が笑う。


「何だか言い訳っぽい言い方だよ?」


 そう言われて、確かに咄嗟に用意した言い訳のようだと思ってしまった。

 その事実に僕が何も言えないでいると、彼女はまた笑う。


「でも、ありがと」


 そして「じゃあねー!」と走り去ってしまった。

 僕は何も言えずにその後ろ姿を見ていた。

 一体なんだったのだろうか、彼女は。でも、まぁ、いい。どうも彼女は僕の学校の生徒ではなかった。これ以降会うこともきっとほとんどないはずだ。

 だから、僕は大して何も考えなかった。

 しかし、その三日後のことだった。


「おっとっと」


 そこには縁石のうえでバランスをとっている彼女の姿があった。今度は前の方を見るようにしているが、それでも彼女は壊滅的にバランスに優れていないらしい。やがて、盛大に転んでしまった。それは、昨日よりも酷く、今度こそ怪我をしたのではないか。

 堪らず駆けつけると、しかし彼女は怪我をした様子はなく「いてて」と尻を摩っていた。


「あれ、また会ったね」

「……君は、またやっていたんだね」

「とーぜんだよ! だって、折角君からアドバイスも貰ったんだし。でも、やっぱり上手く歩けないんだよねぇ」

「多分、君には……」


 この先は流石に失礼だろう。

 僕が途中で口を閉ざすと、彼女は察したように「あはは」と笑う。


「まぁ、でもそんなものだよね。私も薄々感じていたんだ。バランスボールをやってみればいつも頭から落ちるし、片足で立ってみればそのまま横に倒れちゃうし」


 思った以上に壊滅的だった。バランスボールは兎も角、片足立ちで横に倒れるとなると何とフォローすべきかも見つからない。結局「そうなんだ」と口を濁すことにした。


「そう言えば、どうしてまた話しかけてくれたの?」

「それは……君が昨日よりも派手に転んでいたから、今度こそ怪我をしてしまったんじゃないかって思って」


 実際、あれだけ盛大に転んだら誰だって駆けつけるに決まっている。


「へっへーん。生憎、私は怪我しにくいタイプなんだ。ほら!」


 そう言うと、彼女はぴょんと立ち上がり無傷の体を見せてくる。


「……そうなんだ。それはよかった」

「うん、私こそまた心配させちゃったみたいでごめんね!」


 心配。心配、か。心の中で感情を出すことは寿命に関連するのだろうか。そんな益体もないことを考えた。

 すると、彼女は不意に僕の服を見詰めてきた。


「……その制服ってK高校のやつだよね?」

「うん、そうだけど。そう言えば君はここら辺の高校の生徒のようではなさそうだけど」


 僕が疑問を挟むと、彼女は頷いた。


「私、最近ここに引っ越してきたばかりなんだ。今日は色々な手続きの帰り」

「へぇ。じゃあ高校はこれから?」

「そうだね」


 どこの、とは言わなかった。まぁ、そんなものを知ってどうするのかという話だ。別に彼女の転校先を知ったところで僕に関係がある訳では無い。

 ただ……彼女は受け入れられるのだろうか、という心配があった。感情を出している人というのはそこに存在するだけで嫌われる。特にクラスなど、その人から逃げられないと執拗ないじめなどで無理やり追い出そうとする。

 だからもしかしたら彼女も……


「あ、そろそろ帰らないと。それじゃあ、またね!」


 僕がどうしようもないことを考えている間に彼女は一人でペラペラと喋っていたらしい。気が付けば彼女は手を振りながら遠くを走っていた。

 僕は小さく手を振り返しながらぽつりと呟く。


「またね、か」


 推測でしかないが、もしかしたらそうなのかもしれない。


 ・

 ・


 そのようだった。


「あ、いた!」


 一限の授業が終わり、無機質な話し声がクラスに響く中、突如色を持った声が響く。クラスメイトが全員視線を向けた先にいたのは他でもない、縁石の上でバランスをとっては転んでいた彼女だった。

 彼女はずんずんとクラスにはいると僕の前に立つ。彼女はこの学校の制服を着ていた。


「やっぱり、この学校に転校してきたんだね」

「なんだー、バレてたんだ。驚かそうと思ったんだけどなぁ」


 ぷくー、と頬を膨らませて彼女は不満を示す。


「それは困るかな。寿命が削れるのは好きじゃないから」

「そっか、そうだよね。そしたら迷惑だったよね」


 一転して少し寂しげな表情をした彼女に僕は咄嗟に声を出してしまった。


「いや、別に少し表情が出たところで寿命はそんなに削れないから大丈夫だよ」

「そう? なら、嬉しいな」


 そう言って彼女は笑顔を見せた。


「それで、何か用でもあったのかい?」

「ううん、君を探してみただけ。この学校にいるっていうのは分かってたから」


「学年が分からなかったから総当りだったけどね」と屈託もなくそう言う。

 なんと言うか、楽しんでいる空気は伝わってきた。


「じゃ、もう休み時間終わっちゃうからいくね!」


「そうそう、私、2—Dだから!」と言って彼女は風のように消えてしまった。それと同時に授業の開始を告げるチャイムの音がした。

 彼女は授業に間に合ったのだろうか。

 少しざわついた空気の中、授業は粛々と始まった。


 次の休み時間、彼女はやってこなかった。それもそうだ。顔見せで来ただけなのだ。またこちらに来る理由なんてない。

 代わりに、僕は周りのクラスメイトから質問を受けていた。


「なぁ、あの女の子って今日転校してきた子だよな。知り合いだったのか?」

「いや、知り合いといえばそうだけど、知り合ったのはほんの数日前だよ」

「やっぱり、あの子ってあれか? 自殺願望者とかそんな——」

「違うらしいよ。感情のない人生はつまんないんだって」

「それでも死んでしまえば人生も生きられないのにな。他のクラスのやつからも話がきてたよ。あんだけ感情出していればもう長くないだろうってな」


 それが僕らの価値観だ。生きられないなら感情のある人生なんて無駄だ、と。


「お前も、かかわりすぎると道連れにされるぞ」


 そう忠告してそのクラスメイトは僕から離れていった。

 確かにそうなのかもしれない。彼の言ったことは正しい。かかわりすぎれば近くにいた人も感情が出やすくなってしまう。

 だからこの世界の人は感情を出す人から目を背ける。実際、先程彼女が来た時もすぐにクラスメイトは視界から彼女を抹消した。中には目を瞑って祈るようにしている者もいた。そして彼女が消えると、一部の人はノートを取り出して、彼女に対する嫌悪感や憎悪を書きつける。

 感情はどうしても出てしまう場合だってある。例えば嫌悪とか、憎悪とか。そういったものは口に出してしまえば意識していても言葉に感情がこもってしまう。それだけでも寿命は削れてしまうのだ。そこで言葉に出さない筆談という手段が用いられるようになった。筆談なら心の悪感情を表現することも出来るし、それが周りの人に聞こえる訳でもない。だから、その特性を利用して言葉を喋らなくなった人もいる。こういった人は“感情恐怖症”なんて診断名がつけられて、今ではこの名前も知れ渡っている。


 昼休みになると、僕は中庭のベンチに座って昼食をとる。夏に入ったせいで暑さは酷いが、日光を浴びなければ気分が落ち込んでしまう。

 一分経つ度に頬を伝う汗と格闘していると新たに中庭に入ってきた人物が声を上げた。


「あれ、こんなところで何してるの?」


 そこにいたのはやはり彼女だった。弁当箱をもった彼女は疑問顔で近づいてくる。


「ただ昼食をとってるだけだよ」

「こんな暑い日なのによく外で食べられるね」

「暑くても何でも、日光を浴びないと気分が落ち込んでしまうんだ」


 無感情な生活に身を委ねておいて何だが、やはり感情を表に出せないというのはストレスなのだ。何も対策せずに過ごしていれば気分は落ち込み、考え方は暗い方へと走ってしまう。だから、この世界には寿命と引き換えに陰湿になってしまった人が多い。

「ふーん、大変なんだね」と言う彼女には無縁の話だろう。そこだけは羨ましくもある。


「じゃあ私もここで食べよっと」


 彼女は僕の隣に座ると弁当箱を開け始める。


「どうして態々こんな暑いところで? 教室で食べた方がいいと思うけど」


 僕がそう言うと「それは難しいかなぁ」と乾いた笑みを浮かべる。


「ほら、私って感情出しちゃう人でしょ? だからクラスの方でもあんまりいて欲しくなさそうな空気が伝わってきてね……私も迷惑かけたくないしどっかで食べようと場所探してたら君がいて。丁度いいからここで食べよっかなって」


 でも、僕のことは考えてくれてないじゃないか、なんて言うのは人が悪いだろう。僕としては嫌う理由がある訳でもないし。

 そう思っていると、彼女はやや慌てたように付け加える。


「あ、勿論君が迷惑だって言うならすぐに離れるけど……」

「……いや、別に迷惑だって思ってないさ。ただ、暑さには気をつけて欲しいかな」


 僕の言葉に彼女は笑う。


「ありがと」


 それから僕らは暫くの間他愛のない話に華を咲かせた。といっても、基本彼女が話して僕が相槌を打つ程度のものだったが。

 彼女の声は生き生きと感情がこもっていた。聞くだけでも、まるで物語を聞いているかのように、話に色を感じた。


 次の日も、中庭で昼食をとっていると彼女はやってきた。


「隣、いいかな?」


 最初はそうやって毎度確認を取っていた彼女も、一週間も経つ頃には我がもの顔で隣に座るようになった。

 そして今日も。


「夏も本格的になってきたねー。これからさらに暑くなったら私、耐えられるかなぁ」

「大丈夫じゃないかい? 君なら暑い暑い言いながらもいつも通り笑ってそうだ」

「私だってバテる時はバテるんだよ? もうちょっと制服も薄くなればいいのに」

「それ以上薄くって……君は下着で学校にでも行く気かい?」

「なぁに? 見たい?」


 にやにやとした彼女に僕は目を逸らして「いや、遠慮しておくよ」とだけ答えた。もし、彼女の下着姿を見ようものなら一体僕はどれだけの寿命を対価として支払わなければならないのだろうか。


「ま、いっか。私も恥ずかしいし」


 彼女はそう言ってにひひ、と笑った。


 教室に帰り、次の授業の教材を出していると数学の教科書を忘れたことに気付いた。どうやら昨日宿題をやってそのまま机の上に放置してしまったらしい。丁度隣のクラスの友人も同じ時間に授業があるため、教科書を借りることはできない。

 仕方なく、僕は彼女に教科書を借りることにした。

 2—Dの教室に行きちらっと中を覗き込む。そこは一種独特な空気が漂っていた。

 静寂。そういうのが正しいだろうか。すべての生徒は下を向いている。クラスの半分以上は姿がなく、特に彼女の席の周りには人っ子一人いない。

 窓側後ろの席で彼女は本を読んでいた。しかし、ふっと僕の視線に気づいたのか、こちらに顔を向け、花を咲かせる。


「あれ、どうしたの?」

「数学の教科書を忘れちゃってね。よければ貸してくれないかい?」


 そう言うと彼女は「勿論!」と声を上げすぐに教科書を持ってくる。


「はい、じゃあ貸しひとつだね!」


 そんな言葉と共に彼女は僕に教科書を手渡した。


 ・

 ・


「あのクラスがあんな空気になっちゃったのも多分私のせいなんだよね」


 翌日の昼休み、いつも通りの場所で彼女はそう零した。


「私の前の席の子なんだけどね。重度の感情恐怖症だったみたい。それで私が転校してきたら、その翌日から学校に来なくなっちゃった。それから何だか私に対する当たりも強くなっちゃって」


「まぁ、仕方ないよね」と彼女は寂しそうに言う。


「この世界では感情を出さないのが当たり前。なのに、私はその常識に反した行動で一人の人生を台無しにしちゃった」


 僕は思う。確かにこの世界では彼女のような存在はタブーだ。感情を好き勝手だして人に迷惑をかけるなんて、なんと倫理に反した行いだろうか。しかし、それは本当にすべてが彼女のせいなのだろうか。一方的な捉え方をする僕らには何の責任もないのだろうか。

 きっと、彼女のいない間に、彼女のクラスの誰かは今日も憎悪を書き付けているだろう。人の寿命を奪っていく死神め。死ぬなら勝手に野垂れ死ね、と。

 悲しそうな顔をする彼女に僕は何も言えなかった。


 それから日は粛々と過ぎていった。彼女の行動に変化は見られない。

 終業式も真近になった日の昼休み、最高気温の中で暑い暑いと笑っていた彼女がふと僕に聞いてきた。


「ねぇ、前に君が作った借りのこと、覚えてる?」

「借り? ……ああ、覚えてるよ。なんだい、何か手伝って欲しいことでも出来たのかい?」

「うん。というのもね、買い物に付き合って欲しいんだ」


 ピンと来ない僕に彼女は続ける。


「ほら、そろそろ夏休みが来るでしょ? だから都会で買い物でもしようかと思ったんだけど、ひとりで、というのもつまらないでしょ? だから君でも誘おうかなって。だめかな?」

「まぁ、いいけど」


 僕がそう言うと彼女は「やった!」と喜ぶ。


「何だか、楽しそうだね」

「そりゃもう! だって、誰かとどこかに出かけるなんて初めてだもの。今から待ち遠しいな!」


 晴れ渡る笑顔とともに彼女はそう言った。


 ・

 ・


 その日がやってきた。

 待ち合わせは都会の駅。辺りには都会相応の喧騒が見てとれた。しかし、何度も流されるアナウンスは機械音声だ。流れる曲も人間に酷似した機械音声が歌っている。これらは感情に関連して喪ったものの一つと言えるだろう。

 言葉に込められた感情も寿命が関連する以上、アナウンサーや歌手、俳優や声優といった感情を出さなければいけない職に就く人は激減した。その代わりに注目されたのが機械音声の技術だ。感情と寿命の関連性が見つかるまでに機械音声の技術はそれなりに発展していた。人間の声を代替することになるのは必然だったとも言える。今ではあらゆる場所で機械音声が台頭し、街の喧騒を擬似的に再現してくれている。

 勿論人間の声だってある。驚くことに、辺りを見渡すと千人に一人もかくやという確率ではあるが、感情を表に出している人も見受けられる。とはいえ大半は無表情の顔にほんのりと感情を表出させたりほんの数秒の間だけ感情を見せるなど、まるで“節約”でもしているかのような感情の出し方だった。ああいった人たちはきっと完全な人間であることに憧れがあるのだろう。昔の写真、映画、番組、嘗ての時代を遡ってみれば彼らが感情を出したいと思うようになるのは当然だ。

 けれども寿命に対しての恐怖もある。だからこうして感情を節約することで憧れを実現しようとしているのだ。


「あ、いたいた!」


 そうこうしているうちに改札から感情を節約する気もない声が響いた。辺りの人が非常識でも見ているかのような目でそちらを見詰めているのを感じながら僕もゆっくりとそちらへと振り向く。そこにはいつも通りの笑顔、いや、いつもよりも更に幸せそうな笑顔を向けた彼女が走ってきていた。

 僕は未だに彼女以上の人間を見たことがない。


「ごめんね、もしかして待ってた?」

「いや、そんなに」

「それならよかった。あ、先に何か買っていってもいいかな。何だかお腹がすいちゃって」

「まぁ、別にいいけど」

「奢らないからね?」

「元から考えてないよ」


 都会の海を彼女が泳げば、人は自然と彼女に道を譲る。いや、避けると言った方が適切かもしれない。顔を背け、足早で彼女から離れていく人の姿はどこか差別的に見えた。しかし、その一方でまるで羨望するかのように見詰めてくる影も遠くに見えた。

 近くの店で軽食を平らげた彼女はその足で次々とショッピングモールを練り歩いて行った。そして一つ服やアクセサリーを手に取るごとに「これはどうかな。似合う?」と聞いてくるのだ。あいにく僕にものの善し悪しや似合う似合わないは分からない。しかし、彼女が身につけた途端、全てが息を持ったかのように輝いて見えるのだ。それが端した金で手に入るようなちんけなものでも楽しそうに揺られて見えるのだ。だから僕は「君らしいね」と答えることにした。

 それにしても彼女の購買意欲には感心させられる。どこにそんな金があるのかと問い詰めたくなるほど、彼女は次々と服やアクセサリーを買っては僕に渡してくる。自然荷物持ちに徹することになった僕は、ショッピングモールから解放されるまでにはクリスマスツリーの装飾のように体の所々に荷物を巻き付ける羽目になっていた。

 これには流石の彼女も申し訳なく思ったのか「夜ご飯は奢るよ!」と言ってくれた。


「うーん、楽しかったー!」


 その帰り、温い夜風を頬に受けながら彼女は伸びをしながら言った。最寄りの駅を降りてしまえば都会の立ち並ぶビルディングは姿を消し、いつものなんでもない風景が僕らを迎える。郷愁を感じさせる黄昏が幕を閉じ、夕闇が帳を迎える。僕らの家の方向がさらに田舎臭いからかすれ違う人はいない。


「それは良かった。でも、次回からはもう少し荷物を減らしてくれると助かるかな」

「え、次も付き合ってくれるの?」


「あー……」と僕はなんとも言えない声を出す。失言だっただろうか。とはいえ、僕自身彼女と買い物に出かけるのは楽しかった。


「……まぁ、誘ってくれるなら、ね」


 否定すると悲しませてしまう、しかし肯定すれば僕が苦痛になりかねない。

 故にそんな中途半端な答えになってしまったのだが。「やった!」なんて彼女は心から嬉しそうに笑顔を見せる。

 しかし、すぐに彼女は声を落として先を見詰めた。つられてそちらを見ると、向こうから女性が一人、歩いてきていた。それは何もおかしくないが、遠くからでも見える表情に鳥肌が立ってしまった。

 珍しいことに彼女は表情を強ばらせ、あまり目立たないようにその女性とすれ違う。その後ろを僕もついていく。その際、ちらりと顔を覗くとその詳細が分かる。

 恍惚としていた。歪んだような笑みを浮かべ、だらしなくも涎を垂らし、内股になりながらよろよろと歩いていた。股下からは何かしらの液体が垂れていたが、僕はそれを考えないようにした。ぶつぶつと呟いている声に耳を澄ませば「私、感情出してる。だめなのに、いけないことなのに、私だけ感情出してる」とうわ言のようだった。

 そして女性とすれ違って暫く。彼女は息をつくと、静かな声で僕に問う。


「ねぇ、君はさっきの人みたいな人達を知ってる?」

「……いや。初めて見たよ」


 できれば見たくなかった、という言葉は飲み込んだ。


「私はあるの。まだ中学生くらいの頃かな、私の他に感情を出している人を探してたことがあるの。でも、周りにそんな人はいなくてね」


 子供でも小さいうちは感情の自制なんて上手くいくはずもない。子供が感情を出すのは仕方ないと言えるものだった。しかし、子供という定義は小学生まで。そこから先は大人と同じだ。感情を表に出さないことを義務のように押し付けられる。彼女のいた学校も他と変わらない普通の中学校だったのだろう。確かにそれでは彼女の求める存在はいないだろう。


「だけど、ある日、メールが届いたんだ。感情を出す仲間が集まるグループ」


 彼女が言うには差出人は「仮面外しの会」という名前のグループだと言う。


「何処から聞きつけたのかは分からないけど、私は嬉しかったんだ。私一人じゃないんだって。同じ考えを持っている人は他にもいるんだって」


「でもね」と彼女は寂しげに続ける。


「その会に参加した初日に、そこは私の思っていたところとは違うんだってことに気付いたんだ」


 まだ心が発達しきれていない彼女が見たのは、感情を出すことに背徳感を覚え、感情を出すことに性的嗜好を持つ人々の集まりだった。ある男は大声で喜びを顕にしながら股間部を膨らませ、ある女は鏡に向かって笑顔の自分をずっと見詰めていた。

 彼女が激しい嫌悪感と絶望に苛まれ、その場を飛び出すのに大した時間はかからなかった。


「ああいうのはね、一種の“感情露出狂”とでも言った方がいいのかもしれない。私が求めていたのはね、そんなのじゃないの。私が求めていたのは、人間としての当たり前を当たり前として受け止めてくれる人達の心温かな、笑顔に満ちた空間だった」


「あはは」と乾いた笑みを彼女はうかべる。


「変だよね。あんな風に壊れる前にもっと感情を出していればよかったのに。抑圧に抑圧を重ねて、背徳感を覚えるほどに自分を苦しめなければ良かったのに」


 そうすれば、彼女のような人間はもっといたのだろうか。感情を出すことに疑問を抱かず、当たり前として受け止めてくれるような人が。

 顔を俯かせる彼女に僕が励ましの言葉なんて言えるはずもない。抑圧された存在である僕が、解放された彼女に何を言えるというのか。

 ただ、無表情に。ただ、無機質な目で彼女を見詰めることしか出来なかった。


 ・

 ・


 ここ暫く、僕は彼女が誘われるままにあちこちに連れていかれた。人の少なくなった遊園地に25メートルプール以外が封鎖された遊泳施設。娯楽の少なくなった娯楽施設というのも可笑しなものだが、それでも彼女はめいいっぱいの感情を見せた。それに感化されたのか、時々、感情を抑制している仮面が外れかけていることに気付く。口許に手を当てると口角が上がっていたり、眉を顰めていたり。幸いにもまだ誰にも気付かれていない、そう思っていたのだが、遂にボロが出てしまった。

 それは11月の風がすっかり冷たくなってしまった頃のこと。文化祭の準備で相談していた時だった。


「……なぁ」

「なんだい?」

「お前、感情が出ているのに気付いているか?」


 咄嗟に僕は顔に手を当てた。確かに眉を顰めていることに気付き、驚いてしまった。そして、驚いたことに今は動揺してしまっている。

 クラスメイトが感情の読めない声で尋ねてくる。


「……まさかだが、まだ、あの女子とつるんでいるのか?」


 僕は小さく頷いた。


「なぁ、俺は言ったはずだぞ。道連れにされるぞ、と。その通りじゃないか」


 僕が二の句を告げないうちに、クラスメイトは続ける。


「今からでも遅くはない。あの女子と離れろ。そうしないと本当に戻れなくなるぞ」


 きっとこれは、彼なりの心配なのだろう。僕が無為に感情を浪費しないようにと厳しく言ってくれているのだろう。それを感じるからこそ、僕は何も返すことが出来なかった。


 昼食の場所は変わらず、中庭のベンチだ。

 この日だけは彼女の話に生返事しか返しておらず、それを不審に思った彼女が聞いてくる。


「ねぇ」

「うん」

「何かあったの?」


 僕は何も言えなかった。いや、何といえば良いのだろうか。感情を抑制している仮面が外れかけていることをどのような表現で伝えるべきなのだろうか。

 訳も分からない葛藤に汗が滲み、掴んでいた箸がころっと地面に落ちてしまう。

 咄嗟に手を伸ばすが、次は弁当箱を落としそうになり僕は慌てて体勢を戻す。

 箸は彼女が代わりに拾ってくれた。


「ねぇ……なにか、あったんでしょ?」


 僕は答えようとして口を開き、そして閉じては言葉を探し、少しの沈黙をとってから伝えた。最近感情を出すことがたまにある、と。それが良いことなのか分からない。感情を出すことは社会的に良くない、けれど君の感情を出す姿を見てきた僕には必ずしも悪い事だとは思わない。どうすれば良いか、どのような思いでこの事実を受け止めればいいかが分からないと。

 一通り僕の呟きにも似た悩みを聞いた彼女は「そっか」と寂しげに呟く。


「うん、それは悪い事だよ。感情を出して寿命を削るなんて危ないよ」

「でも君は——」

「私は感情を出すことは良いことだ、という信念を基にしているから。でも、君は違うでしょ? 君の基になっている場所では感情を出すことは駄目なはず。だから、悪いことなんだよ」


 彼女は立ち上がる。


「だから、その原因となる人の傍にはいない方がいいよ」


 その結論に僕は堪らず声を上げた。


「どうしてそんなことになるんだ。確かに感情を出すことは今の社会では良くないことかもしれない。僕が感情をだしがちになっているのもいけないことだ。でも、だからといって君を避ける理由にはならない!」

「ううん、だって、私がいたら、君はその内私と同じになっちゃうかもしれない。そうしたら、君は早く死んじゃう。そんなのはだめだよ」


 彼女は笑みを浮かべる。


「ありがとね。君が悩んでいた理由。本当は私を傷つけない方法を考えていたからなんだよね」


 そして彼女はそれ以降昼食時に中庭に現れることはなくなった。

 この結果は正しいのだろうか。どちらも傷つかない最良の方法だったのだろうか。

 ぐるぐると思考はループする。

 それからひと月程先のこと。事件は起きてしまった。

 突如遠くのクラスから絶叫にも近い悲鳴が上がった。

 聞こえる言葉は「嫌だ」とか「死にたくない」など、不安を煽るには十分なもの。堪らず数人のクラスメイトが様子を見に行こうとする。しかし、それよりも早く、向こうのクラスの誰かが廊下を走りながら叫んでいた。


「テレビをつけろ! 早く!」


 彼は見るからに焦っていた。いわば、感情を出さなければならないほどに緊急のことだという事だ。

 テレビはクラスに一つ古めかしいものが備え付けられている。しかし、それを使用するのは主に先生が授業に使うくらいで生徒は許可されていない。それでもこの時ばかりは皆が不安に押されてテレビの電源スイッチを押した。


『繰り返しお知らせします。今日午前11時頃、感情と寿命との関連の研究に新たな発見がありました』


 流れていたのは今世界を覆っていると言っても良いほどの話題。

 感情を失う元凶ともなったこれに何の進捗があったというのか。

 研究の第一人者の記者会見の姿が映る。

 彼は、至って無表情に、恐らく、この世界の誰よりも淡々とした顔と声で、それを言葉にしてしまった。


『詳細は置いておきましょう。我々の研究により、感情は思考の段階でも寿命に影響を及ぼすことが判明致しました。つまり、今までは寿命は感情が外面に表出した時のみに作用するものと考えられてきましたが、この研究結果により思考の段階でも感情は寿命に影響を与えるのです。しかしながら思考する段階での寿命の消費は感情を表出するよりも4割は抑制されているとの統計があり将来的には——』


 だめだった。

 教室の隅で絶叫が響く。

 驚いてそちらをみると、クラスでも人一倍無口で、感情という単語すら忌み嫌う——そして、ここ最近僕のことを殊更嫌ってきている——女子が目から滝になるほどの涙と、唾液を吐き出しながら頭を押さえつけていた。そして、嫌だ嫌だと狂ったように咽び泣いて、やがて髪を掻きむしり始める。

 そうしてから、ようやく地獄絵図が広がり始めた。事実は恐怖を喚起し、恐怖に狂う姿は僅かながらの恐怖をも助長する。

 ザワザワがガヤガヤに、ついにギャアギャアといった騒ぎになるには、そう時間がかからなかった。

 皆が皆、驚いている。恐怖に顔を歪ませている。

 あの研究者は一体僕ら人間を無表情にしたいのか、感情的にしたいのか。

 少なくとも今。この学校の、いや世界中がこれ以上にないほど感情的になっているのは違いない。

 耳に入ってくる恐怖と否定と疑問と祈りと助けの声。教師が慌てた様子で現れても、怒鳴り声を挙げても、この騒ぎは収まらなかった。


 学校が惨事を鑑みて全生徒を退校させた。

 学校の外は、中とそう変わらなかった。あちらこちらで悲鳴が聞こえるし、あれだけ静寂だった街が殺気のような活気を見せている。

 この世界はどうなっていくのだろうか。

 寿命を心の支えとし、発展の柱とするこの世界はどう変わっていくのだろうか。

 帰り道、ふと頭を過ったのは彼女の悲しそうな笑顔だった。


 学校が再開したのは三日後だった。

 出席率は三分の二。世界が支えを失った風景だ。

 ここにいる生徒達は、もはや言葉を発することは無かった。皆、どこか遠い目をして、話しかけても返してくれる人はいなかった。

 ああ、なるほど、と。

 彼らはこう考えたのだ。考えることで感情が生じるというのなら、考えるということを辞めればいい。何も考えず、なんの疑問も抱かず、無の中を生きようと。

 もはや世界は僕からしてもついていけないものになってしまった。

 僕だって散々この研究発表に苦しめられた。部屋に戻って、これから僕はどうやって生きていけば良いのかと何度も自問自答した。だというのに、僕はこの結果にならなかった。なるはずがなかった。


 昼休み、僕はとある教室に向かっていた。

 そして、そこにいた彼女を呼ぶ。

 ぼやっとしていた彼女は僕の声に驚いたようで、ビクリと声をふるわせて恐る恐るこちらを見た。


「あれ、なんで君が……」

「来て欲しいところがある」


 彼女の言葉を遮ってまで、言葉を伝えた。

 今の僕はどんな顔をしているのだろうか。彼女は、何故か怯えたような顔をしていた。

「うん」と頷いた彼女を確かめてから僕は中庭へ足を運んだ。

 そして、彼女に振り返る。


「えっと……」


 彼女が困惑に恐怖を滲ませた顔でこちらを見る。

 だから、堪らず聞いてしまった。


「どうして、君は先程からそんな怯えたようにしているんだい?」

「だ、だって……怒られると思ってるから」


「怒る?」首をかしげながら聞く。


「どうして?」

「だ、だから、ほら、考えるだけでも寿命が減るっていうのが分かったから。私と一緒にいた時、多分君も感情がでていただろうし。だから、寿命を減らした私に怒るんじゃないかって……」

「……ふふ」


 そこまで聞いて、我慢ができなかった。

 笑い声を漏らした僕に彼女はキョトンとした顔で見詰める。


「まさか。なんでそんなことで怒らなくちゃいけないんだい? それこそ寿命を浪費する愚策じゃあないか」

「あ、そっか……」

「それにね、確かに僕は進んで感情をだすことを良しとはしない。けれど、君の姿を見て、あの事実を知って、僕なりに懸命に考えてみたんだ」


 それこそ僕が何度も自問自答したこと。何が正しいのか、何が正しくないのか。

 それを彼女の前で明かしていく。


「今日、学校に来て確信したよ。皆のあの姿は正しいものとは思えない。寿命の為にあそこまで感情を抑えつけるのはもはや生物としても死んでしまっている。かといって君のように感情を出し続けることは僕にはできない」


 彼女の姿は人として理想なのだろう。けれど、感情を抑えてきた僕の倫理観はそれを良しとしない。

 それでも。


「だから、僕も僕なりに感情との付き合い方を考えてみたんだ。皆のように感情を極限にまで抑えることはしない。けれど、君のように感情を開かす訳でもない。程々の自分でいようと思うんだ」

「……それってさ、いつもの君ってことだよね?」

「まぁ、そうなるかな」


 結局、僕の立ち位置は今までいたところに再度いることを確認したようなものだ。

 彼女がやがて堪えきれなかったように「ふふ」と笑った。

 久々に見た彼女の笑顔だった。


「なんだ、そっか。君は君のままでいてくれるんだね。そっかー。私と同じになってくれないのはちょっと残念だけど、でも良かった」


 本当に嬉しそうな笑顔だった。それを見ただけでも心に喜びが湧いてくる。


「あ、だけど、それなら尚更私とかかわっちゃダメだよ。そんなことしたら君に感情が——」

「そんなの、今更だろう? さっき言ったじゃないか。それに、君みたいな人が近くにいると楽しいからね」

「……なぁに、それ。告白?」


 悪戯っぽい顔がにやついている。

 ……ああ、本当に。本当に、幸せそうに笑う。


「……いや、別にそういうつもりで言ったんじゃないよ」


 一ヶ月の蟠りが溶けていくようだった。


 ・

 ・


 それからというもの、僕は彼女により一層振り回されるようになった。休日の度に彼女は僕を連れてどこかへ行く。それは近くの公園だったり、少し遠くのスーパーだったり、半日かけてようやく辿り着くような場所であったり。

 彼女が旅行に行こうと言ってきた時はさすがに焦った。男と旅行に行くことに危機感を覚えろ、と窘めたのだが、彼女はまるで聞く耳を持たないし、「君ならそんなことしないでしょ。それとも、したいの?」とからかわれる始末だ。結局行った旅行は楽しかった。それなりに精神が削れたことは彼女に言わないでおこうと思った。


「ね、次の休日はどこに行こうか」


 ここ最近の彼女の口癖だった。

 後になって思えば、彼女は焦っていたのだろう。

 それに気付けてあげていれば、僕は別の選択肢も考えられていたんじゃないかと思う。


 ・

 ・


 彼女が学校を休むようになった。

 SNSで「どうしたの」と尋ねても「ただの風邪だよ」と帰ってくるばかり。

 しかし、一週間も休んだ日、僕はなんとなく焦りというか不安を感じて彼女の家へと向かった。

 家は一度教えてもらったことがある。

 黄昏の帰り道を横断してたどり着いた彼女の住むアパートは息をしていないかのように静かな場所だった。

 インターホンを鳴らす。

 少ししてから「はーい」と弱々しい声が聞こえてきた。


「どなたですか、って、え、なんで君——」

「何があったんだ!」


 彼女の姿を見た途端、僕の理性は一瞬で吹き飛んだ。

 彼女はすっかり痩せてしまっていた。目の下には隈ができ、扉を支えにしてようやく立っているという感じだった。最初にみせた笑顔もどこまでも痛々しいほどだった。

 だから僕は彼女の肩を掴み問い質さずにはいられなかった。


「風邪って聞いたのに、どうみても風邪じゃあないじゃないか!」

「あ、あは、えっと、その……」


 言い淀んだ彼女がコホッ、と咳き込む。

 それで僕に理性が戻る。

 兎に角、このまま立たせておくなんてできない。

 彼女を支えた僕はそのまま部屋の中へとあがる。考えてみれば、女性の部屋を無許可で侵入するなんてあまりに非常識であるが、今の僕には彼女が断ろうとも判断を曲げるつもりはなかった。

 彼女も僕の気持ちを知ってか、声を出すのも辛いだけなのか、何も言おうとはしなかった。ただ、弱々しい笑みを浮かべるのみ。いや、この顔は……

 部屋の中は酷くちらかっていた。服は散乱し、布団は乱れたまま。食べ物のカスや袋が辺りに乱雑に置かれていて臭いが漂っているのもある。恐らく、体が言うことをきかないから布団から離れられなかったのだろう。

 彼女を布団に寝かせると僕は問うた。


「なぁ、いったい何があったんだ。何の病気なんだ」

「え、えっとね、ほんとにただの風邪なの。ちょっと長引いちゃっただけで」

「そんな訳あるか。本当に風邪なら、君はそんな顔をしないだろう」


 彼女は先程から弱々しい笑みを浮かべている。だが、知っている。彼女の今の笑みは何かを誤魔化すものだと。彼女は感情豊かだ。辛いことは辛いと言うし、楽しい時は楽しいと言う。長針がひとつ進むまでに彼女は様々な表情を見せる。けれど、今はずっとこの顔、弱々しい笑みだ。


「君は何か隠したいことがあるとそうやって笑みをずっと見せていたね」

「うぇっ!?」

「覚えているよ。前に昼休みにトイレから戻った時、君はそんな顔をしていた。弁当箱を空けてみればウインナーが綺麗に消えていたね」

「それは、その……」

「日本史の教科書を返してもらった時もそうだ。何気なく頁を捲っていたらボールペンで随分落書きをしたようだね」

「うっ……」

「なにか隠しているんだろう? 僕に知らせるべきではない何かを。知って欲しくない何かを」


 彼女の笑みが崩れ、オロオロとした表情を見せる。

 もう一押しだろう。僕は言葉を紡ぐ。


「僕は不安なんだ。君が病気であることもそうだが、一体君がどうしてしまったのかが分からないのが怖い。少しでいい。教えて欲しいんだ」

「……君、たまに告白めいたことを言うよね」


 そんな彼女の冗談にも僕は顔色を変えない。

 それを見てようやく彼女も観念したようだった。

 溜息をついて、顔を俯かせる。彼女が指を弄り始める。


「そろそろ、寿命みたい」


 体が浮いたようだった。鳥肌が一瞬で全身を覆い、次の瞬間には体が痛いくらいに強ばる。

 自分でもこれだけの表情がでるのかと思うくらいに驚きの表情が顔に出ていた。


「最近、体が疲れ気味というか、怠いというか、そんな気分が続いてて、お医者さんに行ってみたんだけど、どこも悪い所がない。だから、もっと詳しく検査してもらったんだけど、そこで寿命が近い時にやってくる症状と同じってことが分かったんだ。そしたら、余計に体が辛くなってきちゃって……」

「……本当に、そうなのかい? 他の病気ってことは——」

「ううん、合ってると思う。だって、ほら、私ってこれだけ感情出してるから」


 そうだ。誤診というには彼女はあまりに感情を出し過ぎた。

 むしろ、これ以上にない程に合致した結果ではないか。

 そうか、だから彼女は僕に情報を出し渋ったのか。だから彼女はあんな風に笑ったのか。


「ほら、だから言いたくなかったのに。そんな顔しないでよ。ね?」

「……君は、大丈夫、なのかい?」

「大丈夫、なのかな、どうだろう。でも、ここ最近は本当に楽しかったから、少し、寂しいかな」


 それでも彼女は弱々しく笑う。


「でも、分かっていたことだから」


 初めて会った時のことを思い出してしまう。


『だって、つまんないもの。人には当たり前の機能として感情があるのに、どうして縛らないといけないの? そんな人生、ロボットみたいじゃん』


 あの時、彼女はそう言った。彼女は人であり続けた。だから、誰に言われずとも一番分かっていたんだ。自分がどのように最期を迎えるのか。迎えるつもりなのか。


「……ねぇ、お願い、していい?」

「何を、だい」


 こんな時、無視できる力があれば、と思った。


「この体の怠さもあと数日すれば元に戻るんだって。体が最後に残っている力を使う為にそうなるみたい。その後は加速度的に寿命が縮まっていくんだって」


 そうすれば、後に続く残酷な言葉に耳を貸すこともなかった。


「だからね、最後に大きな思い出を作りたいんだ」


 けれど、聞いてしまった。心が動いてしまった。叶えたくない、安静にしていて欲しいと願う僕よりも、彼女の願いを叶えてあげたい僕の方が強くなってしまった。

 分かっていたんだ。彼女に言われずとも、何を求めているかなんて分かっていたんだ。彼女が静かに家に篭もることを是とするはずがないことも。最期に何をしたいのかも。


「お願い、聞いてくれる?」

「……っ」

 

 口を開きたくなかった。開いてしまえば、すぐにでも彼女の願う言葉を口にしそうで。彼女のその願いは自殺と同義だ。首を縦に振ってしまえば、僕は彼女の自殺を助長したことになってしまう。そんなのは、嫌に決まっていた。

 沈黙が痛いほどになって、お互いの空気が張り詰めて。それだけの時間をかけてまで彼女の言葉を否定したかった。

 けれど。


「……わかっ、た」


 それと同じくらい、彼女がゆっくりと静かに事切れていくのを見ていられるはずがなかった。いや、違う。本当は、彼女に最後の最期で人間をやめて欲しくなかったんだ。彼女のままでいて欲しかったんだ。


「ありがと」


 なんて薄情なのだろう。なんて我儘なのだろう。僕も彼女も、理性と願望が混濁したままで。それでも目的は一緒になってしまった。

 彼女は嬉しそうに笑う。今日初めての、いつもの笑顔だった。


 ・

 ・


 部屋を片付ける。人が寝るにはこの環境はあまり宜しくないからだ。洗濯物を洗濯機に押し込み、大窓を開け、掃除機をかける。そばで寝ている彼女には辛いだろうが、我慢してもらうしかなかった。

 キッチンも掃除し終えた僕は雑炊を作っていた。聞けば、彼女は家に残っていた冷凍食品やお菓子で空腹を満たしていたらしい。そんな不健康な生活では体を悪化させかねない。

 出来上がった雑炊を彼女のもとに運ぶ。

 彼女は静かに寝息を立てていた。

 トントンと肩を軽く叩くと寝返りをうたれてしまった。


「ほら、お腹が空いたんだろう? 雑炊を作ったから。起きられるかい?」


 そう言って肩を揺するも「あと五分……」なんて寝言が返ってくるのみ。とはいえ、まともに食事もとってない体ではまずいだろうと、どうにかして起こすと、彼女に食べさせた。


「……なんだか不思議だなぁ」

「うん、何がだい?」

「君が私の家にいるの」


 茶碗はすっかり空になり、カランと音を立てた。


「ね、もう一つお願いしてもいい?」

「これ以上、何をお願いするつもりだい」

「別に大層なものじゃないよ。私が治るまでの間、家に欲しいなぁ、って」


 チラッと彼女の目がこちらを向く。


「いいよ」

「……え、あれ、いいの?」


 彼女が、宛が外れたかのような顔をする。

「どうしてだい?」と問うと、彼女は困惑した顔でこういった。


「えっと、だってさ、君、旅行に行く時とかすごい反対してたでしょ? だから、今回のこれも断られるのかなぁって思ってたから」

「旅行では何も問題がなかったからね。だったら、もう何回君と泊まろうと変わらないさ」

「……それはそれで、ちょっと異議申し立てたいなぁ」

「それに、心配だからね」

「心配?」

「君、僕が泊まらないっていって帰ったら翌日からどうするつもりだい?」

「それは、まだ家に残ってるのもあるし」


 予定調和とでも言うべき言葉にため息をつく。


「だったら、尚更さ。見過ごせるわけないだろう?」

「え、うん、ありがとう。……えへへ、なんだ。嬉しいなぁ」


 にへらと笑う彼女はしかし、ハッとしたように言う。


「あ、でも、君が学校に行っている時くらいは自分で何とかするから——」

「いや、学校は休むよ」


 僕の言葉に「えっ」と彼女が不安そうな顔をする。


「勘違いして欲しくないんだ。僕はね、しばらくは学校にいたくない」


 感情に支配された世界の中で生きる人々。感情を殺し、思考を失い、何のために生きているのかわからない人々。そんな世界にはしばらくいたくなかった。


「だから、そんなところに行くくらいなら、君に専念したい」

「……えへへ」


 何故か、彼女がよくわからない笑みを零した。


 このようにして三日が過ぎた。布団を運ぶ手間があったり、親にしばらく友達の家に泊まると説明したりと初日こそあれこれとあったが、翌日からは彼女の世話や無理をしないよう見張っているだけで何かがあった訳では無い。

 彼女はよく寝た。従来過眠しがちということではなく、やはり体の怠さが起因しているようだ。声をかければ起きてはくれるが、放っておけばずっと寝ているような状態だった。

 三日かけてこの症状は治まりをみせたが、三日目になって元気になったと自称する彼女を床につかせるのに苦労した。

 そうして四日目になって確かに彼女は表面上元気になった。

 もう大丈夫なのかい、と問えば「ばっちし!」と返す。満々の笑みを浮かべる彼女は幸せそうだ。その裏で刻一刻と時間が迫っているのを知っている僕は単純な目で彼女の顔を見ることが出来なかった。


 ・

 ・

 ・

 ・


 かさり、という静かな音で僕は目が覚めた。窓から差し込む光はまだ淡く、白みがかっている。

 隣を見ると彼女がリュックに荷物を詰めていた。

 最後にパチンという音を立てさせてから彼女はこちらを向いた。


「あ、起こしちゃった?」

「まぁ。でも、時間はちょうどいいんじゃないかな」


 むくりと起き上がって軽く伸びをする。


「……今日が来てしまった、か」


 思わず出てしまった言葉に口を手で押えても無駄だった。

 隣で聞いていた彼女が苦笑する。


「そうだねぇ。もう、今日が来ちゃった」


 八月の最後。彼女が表面上元気になった約一週間後だ。

 今日が、その日だ。いや、前日と言おうか。


「やることは全部やったし、思い残すことはこれからやるし、うん、私はいつでも出発できるよ!」


 彼女は、この日になってもいつもの彼女だった。

 ならば、僕も普通を演じた方が良いのだろう。


「そうだね。僕も、荷物はもう整っているからいつでも。ただ、着替えさせてくれるかな?」


 やがて、支度の確認も済ませ、僕らは家を出た。

 外は微かに霞がかっており、早朝特有の空気に包まれている。

 人の姿は全く見られない。まるで、この世界には僕らしかいないのではないかと錯覚するようだった。

 駅に到着し、大きい駅へ。それから新幹線に乗って二時間と少しの間揺られていた。


「そういえば私、新幹線に乗るのって初めてかも」

「修学旅行とかで乗ることはなかったのかい?」

「うん。私さ、お父さんの都合で転校を何回もしてて。それで転校したてで修学旅行っていうのが多かったんだけど、別に友達もいるわけじゃないし、いかなくてもいいかなって」


「ま、私みたいな人に近づく人はそもそもいなかったんだけどね」と彼女は笑う。自虐のつもりではないのだろう、自然な声だった。


「……本当に、親御さんには何も言わなくていいのかい?」

「うん、いいの、別に。私はずっと前からお父さんにもお母さんにも見限られていたから。もうじき死ぬんだとか色々言っても、やっと死んでくれたか、って思われるだけだよ」


 この一週間、僕は彼女から身の上の話を多くきいた。始まりは親御さんへの心配から、いや、好奇心がなかったと言えば嘘になる。「親御さんには連絡したのかい?」ときく傍らで、彼女を生んだ両親は彼女のことをどう思っているのかが気になったのだ。

 そうして話してくれたのは彼女だからこその過去だった。人間としての在り方があまりに正しすぎた故に、彼女は両親から死にたがりの娘という評価を与えられてしまった。

 彼女がひとり暮らしを始めたのは、そんな両親のもとで暮らすのが苦しかったからだそうだ。やっと家で窮屈な思いをせずに済んだと笑っていたのを思い出す。

 彼女は外の景色が変わるのをみては「ねぇ、すごい綺麗だよ!」と促してくる。目はきらきらと輝いて、両親のことなんて気にも留めていないようだった。

 昼は新幹線の中で弁当を買った。なんでもない駅弁ではあったけれど、いつも通り彼女は幸せそうな表情で食べていた。

 新幹線が止まる。それからはまた電車やバスを乗り継いで移動した。

 窓から大きな山が見える。


「わぁ、すごい、やっぱり近くで見るとおっきいね!」


 山頂付近は雪がかかり、白化粧となっていた。僕自身、地元でも天気がいい方だと遠くにうっすらと見えたものだが、こうして近くで見ると、その雄大さに圧倒される。


「ね、ね! これからあの山を登るんだよ! 楽しみだなぁ」


 彼女は今にも飛び跳ねんばかりだった。僕としてはあの山のてっぺんを目指して登らないといけないというのは中々に辟易とさせるものがある。恐らく彼女の願いをきかなければ、永遠に登ることはなかったに違いない。

 いや、そもそも。

 麓に到着する。やはりというか、人の姿はまるでみられなかった。そもそも、感情が寿命にかかわることが公になってから運動をする人は大きく減じてしまった。運動をする、それは歩きだろうと走りだろうと、山を登ることであろうと、運動をすれば疲れてしまう。疲労は明確に感情の一つだ。

 他の娯楽施設がそうであったように、もうこの山に登ろうと考える人はほとんどいなくなってしまった。ただ、今日に限っては、それは良かったのかもしれない。

「早く登ろうよ!」と声を大きく上げる彼女は、もう随分先まで進んでしまっていた。

 本当に元気だ。少し前まではずっと寝込んでいただけに、彼女の元気な姿をみるだけで安心してしまう。

 けれど。

 いや、浮かぶ思考にいちいち反論しなくても良いだろうと頭を横に振る。

「待ってくれよ」と僕は彼女の後を追いかけた。

 登山時間は測ってはいないから分からない。ただ、辺りはすっかりと暗くなって、ほんのりとした寒さは確実な寒さに変わっていた。しっかりと防寒対策をしていたのは正解だと言える。

 彼女は初め、その身ひとつで山に登る、と言っていた。自分はもうすぐ死ぬのだからあれこれと準備しても面倒だ、と。けれど、今はしっかりと防寒具を着込んで、それでも感じる風の冷たさに首を引っ込めているあたり、嫌々言う彼女に準備をさせてよかったと思う。

 途中山小屋を見かけたが、人の気配はしなかった。電気の灯りは見られず、玄関辺りはロープで進入禁止になっていた。


「もう少しで山頂だ。頑張ろう」

「おー!」


 彼女はまだまだ元気そうだ。僕はそろそろきつくなってきた。普段運動をしていないから当然ではあるが、脂汗のために額をぬぐい、肩から息をして、トレッキングポールに縋るように登る姿はきっとかっこ悪かったに違いない。

 そんな僕をみかねてか「ほら、あとちょっとちょっと!」と背中を小さな手で押してくれた。

 また少し時間が過ぎて。最後の傾斜を登ったところで視界が開ける。


「登頂、かん、りょー!」


 トレッキングポールを投げ捨て一足先に彼女が両腕を上げて喜んでいた。吐いた息が白くなり、暗い空へと昇っていく。

 僕は喜ぶほどの体力はなく、ぜいぜいと息をつきながらその場に座り込んだ。やはりというか、酸素が薄く感じる。喉元にひっかかるような息苦しさだった。


「ねぇ、折角登り切ったんだしさ、ハイタッチしようよ!」


 彼女が近づいてきて手を挙げる。僕はまだ声を上げるほどに体力が回復してなく、手を挙げることで答えた。

 僕の手を彼女が叩き、ポフ、という柔らかい音がする。


「……そっか、どっちも手袋してるから、そりゃこんな音になっちゃうか」


「なんか、締まらないなぁ」と彼女は可笑しそうに笑った。

 それから、僕が動けるようになった辺りでテントの設営を始める。張り方は事前に調べてある。

 時折吹く風に気をつけながら、地面に杭を打ち込んでいると「あはは」と彼女が笑った。


「なんか、私たちすっごい悪いことしてるよね」

「そりゃあ、ここでキャンプなんてしてはいけないからね。君が言い出したことなんだけど」

「いやあ、ふと冷静になっちゃって。でも、今はここでなにをしても見つからないからお咎めはなしだね!」


 彼女の言う通り、わざわざこのご時世に山に登る人はいない。つまり、キャンプは禁止だのなんだという人もいないわけだ。思えば、こんな世界になってから人目につかない場所が多くなったように感じる。だからというわけでもないが、年間の自殺者は本当に多くなった。

 テントの設営が終わる。その頃にはもう十分に夜といえるほど、辺りは真っ暗になっていた。

 いくら人が咎めに来ないからと言って、ここで焚火をしてしまうと煙が上がって面倒ごとになるかもしれない。そこで、キャンプというには少し味気ないかもしれないがガスコンロを取り出して夕食を作ることにする。作るといってもインスタントのものだとか簡単に調理が済むものが大半だ。


「本当に、今日はたっくさんの初めてを経験したなぁ」


 夕食をとり終わった後は寒さをしのぐためにテントの中にいた。

 彼女はなぜか当然のように僕の腕を抱いていた。お互いに防寒具を着込んでいれば体温なんて感じないだろうに。

 そう言うと、彼女は笑ってこう言った。


「そうかな? 私は暖かいよ。体というか、心がぽかぽかって」


 そうして、ぎゅっと彼女は腕を抱きしめた。

 僕の心臓が脈打っていた。


「……そういえばさ、君って恋とかって、したことある?」


 唐突だった。彼女を見ると、彼女は顔を伏していた。


「どうしたんだい、突然」

「別に、ちょっと気になっちゃってさ」

「僕は……したことなかったな。こんな世界だし、みんな無表情なもんだから何を考えているのかとかあまり分からなくて。だから誰かに惹かれたとかはあまりなかったな」


 すると、彼女は「そっか」と呟いた。


「本当に、どうしたんだい?」

「……その、ちょっと、お願いしたいことがあって、さ」


 少し声が固いように感じた。

 そして、そのままバッと顔を上げて僕を見た。

 彼女の顔は暗がりでもわかるほど赤くなっていた。


「その、キス、してほしいなぁ、って」


 どくん、と心臓が大きく脈打った。言われなくても分かるほど、顔が熱くなっている。


「ど、どうして、いきなり」

「なんでってほら、私だって女の子だからさ。考えてたんだけど、これまでの人生でそういったことってしたことなかったなぁ、って思って。それになんとなく、君としたいなぁ、って。もし君に好きな人とかいたら諦めようと思ったんだけど、いなさそうだったからさ」

「にしたって、どうして、僕のようなやつに」

「だって、こんな私とずっといてくれたのって君だけなんだよ? だからしたいなって思うのも君だけだったの」


 彼女にしては早口のようだった。


「私がさ、君に恋してるのかは分かんない。恋をするって気持ちはあんま分かってないから。でも、君とこうしていると、すっごく落ち着くの」


 また、彼女がぎゅっと腕を抱く。


「そしたら、もうちょっとねだってみたくなって。……だめ、かな?」


 そう言われてしまうと、僕は何も言えない。

 だめなはずがないのだ。僕自身、彼女のことは好ましく思っていた。恐らく、恋していたんじゃないだろうか。けれど、いずれ死んでしまう彼女へ想いを抱くわけにもいかず、心の奥底に抑圧してしまっていたのかも知れない。それが、彼女の言葉で一気に表に出てしまった。彼女への想いがあふれてしまった。


「だめなわけ、ないじゃないか」


 からからの声で言うと、彼女は見るからに嬉しそうに「やった!」と言う。

「そしたら」と彼女は恥ずかしさで目を潤ませながらこちらに顔を近づけた。

 彼女に聞こえているのではないかという心臓の音。

 僕もまたゆっくりと顔を近づけ……唇を重ねた。お互いに緊張していたからだろう、唇はかさかさだった。

 それが気に入らなかったのか、彼女は舌で唇を濡らすと、自分から唇を重ねてきた。僕もまた、同じように唇を重ねる。何度も、何度も。

 彼女が抱きしめてくる。体がより密着する。

 お互いに我慢がきかなかったように、僕らは何度もキスをした。


 ・

 ・


 夜明け前に、携帯のアラームが起きろと急かしてくる。それを止めて起き上がると、隣に彼女の姿はいなかった。

 外に出ると、彼女はうっすらと白み始めている空を眺めていた。

 彼女の息がゆっくりと昇っている。


「……あ、起きたんだね」

「うん。そっちも、もう起きてたんだね」

「楽しみでそわそわしちゃって」


 そう言って、彼女は照れたように笑った。

 隣に立つと、自然に彼女が密着する。


「もうすぐ、もうすぐ私が見たかったものが見られるんだね」

「……そう、だね」


 はっきりと言ってしまえば、彼女には見てほしくない。この先に待ち受ける光景を見れば、彼女の感情はどれほど寿命を削ることになるのだろうか。

 僕は知らぬ内に顔を歪めていたのかもしれない。


「大丈夫だよ。君が悲しむ必要はないから。むしろ、ねぇ、誇ってほしいな。世界で一番の大馬鹿者をこんな最高の舞台に立たせたんだー! ってさ」


 彼女は気を利かせてくれたのだろう。本当に悲しい顔をしたいのは彼女こそだろうに。彼女はずっと笑顔で僕をみつめている。

 ならば、僕がどうこう考えたところで、ここにつれてきたのは僕自身なんだ。最後まで突き通さなければ。


「そうだね。じゃあ感謝の一つでももらおうかな」

「それはちゃんとみてから、だね!」


 ゆっくりと空が明るくなっていく。朝の空が夜の空にグラデーションをかけ、やがてその多くを朝色に染め上げていく。

 そして、ついに。

 遥か地平線の向こうから、太陽が昇り始めた。

 それは言葉で形容するには足らないほどに神々しいものだった。写真だとか、絵だとか、そんなものが記憶から消えてしまうほど、時間という概念が、音という概念が、すべてが感じられなくなるほど、僕らはその光に夢中になっていた。

 そうして、意識が戻って隣をみれば、彼女は涙を流していた。どうしようもなく幸せそうな笑顔で涙を流していた。

 きっとそれは無意識なのだろう。感動を脳が処理しきれなくて漏れ出た感情なのだろう。

 それほどまでに、美しかったのだ。

 灰色の世界で、本物の色をみたのだと。僕が彼女という本物に出会ったように、彼女もまた、本物に出会ったのだ。

 たっぷりと、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。

 彼女がゆるゆるとこちらを向いた。

 そして、笑った。


「ありがと、本当にありがとね。君が私をここにつれてきてくれて……私のお願いを叶えてくれて、こんな感動を私にくれて……嬉しい」


 そうして、彼女の体から力が抜けた。


「あ……」


 彼女の体が傾く。反射的に動いた体は、いつの間にか彼女を抱えてその顔を覗き込んでいた。


「寿命が、やってきたみたい」


 その言葉に、僕は息を呑む。

 聞きたくなかった現実。

 知りたくなかった未来。

 朗らかに笑う彼女はそんな表情を見せただけでも苦しそうに呻く。


「やめてくれ——」


 矛盾しているのは分かっていた。それでも口に出さずにはいられなかったのだ。

 やめてくれ。これ以上、表情を見せないでくれ。これ以上、無為に寿命を縮めないでくれ、と。

 望んでなんかいなかった。決して訪れることは望んでいなかったのだ。

 今の今まで、彼女の幸せそうな笑顔を見る度に願っていたのだ。どうか、どうか彼女の笑顔は嘘であってくれと。本当はただの無表情で、彼女は何の代償も払っていないのだと。

 だが、現実はこうも無情で。


「……むり、だよ」


 そう、無理なのだ。

 僕に、彼女を止める力なんてあるはずもないし、そんな資格もないのだ。

 彼女は幸せだろうと不幸だろうと、そのすべてを受け入れてきた。僕のように片方だけを望むことはしなかった。

 それ故に。

 彼女は最も悲しそうで、彼女は最も楽しそうだった。

 彼女は最も寂しそうで、彼女は最も暖かそうだった。

 彼女は最も辛そうで、だから彼女は最も幸せそうだったのだ。

 彼女を止めることなんてできるはずがなかった。だって、彼女の笑顔を最も望んでいたのは僕ではなかったか。ありのままの彼女でいて欲しいと願ったのは他でもない、僕だったではないか。


「……ねぇ。君は、今、幸せ?」


 途切れ途切れの息に挟み込むようにして彼女は言う。


「私はね、幸せだった。灰色みたいな、人生で、何もかも、が、味気なかったけど、それ、でも、それでも、君と出会えて、君と笑うことが出来て……君の傍で最期を迎えられる」


 限界が来ているようだった。最早、今の彼女では言葉を紡ぐだけでも寿命を削ぐ行為なのだ。言葉に込められた感情は、僕の心をきつく締め上げるようだった。


「本当は、ずっと、一緒にいたかった。君と一緒、なら、楽しいと、思えるから。でも、ね、できなかったの。だって、君には、死んで、欲しくなかったから。私と一緒にいたら、君は、きっと感情を出しちゃう。私のため、に寿命を削ろうと、しちゃう。それは、嫌なの。それだけは、嫌だった」


 喋らないでくれ、頼むから。

 僕の言葉はもう彼女には届いていなかったのかもしれない。


「でも、そんなの、建前だって、気づいたの。だって、私が、君から、離れられなかった、んだもん。君の、笑顔が、大好きだった」


 声が小さくなっていく。彼女がゆっくりと目を閉じていく。


「——君が、幸せ、だったら、いいな」


 そう言って、彼女が柔らかな笑顔を見せ。


「私は、本当に、幸せ、だったよ」


 それが最期だった。不意に彼女の体が弛緩する。彼女の体が一際重く感じられた。

 ああ、そうか、これは。彼女は——

 頭が真っ白になった。思考はどこかへと飛んでいき、ただ、何を求めてか彼女の幸せそうに眠る顔を見詰めていた。

 それがどれほど続いたのか。そうして、やがて戻ってきた思考は認められない現実に直面した。否定して、否定を続けて、現実を騙すことが出来なくなって、初めて僕は彼女の死を認知した。

 腕が震えた。歯がカタカタと音を立てた。視界が滲み、彼女の顔さえ見えなくなってしまう。


 ——ああ、彼女は死んだのだ


 口から出たのは慟哭だった。彼女の死を悼む、それだけのための。感情だの寿命だの、最早関係なかった。元から彼女に剥がされかけていた仮面は完全に剥がれた。

 ただ、哭いて、哭いて、哭き疲れてもまだ哭き続けて。

 今はただ、彼女の死を嘆いていた。


 ・

 ・


 どうやって彼女を伴って山を下りたのか、その後、なにがどうなったのか、僕はぼんやりとしか覚えていなかった。救急車やパトカーのサイレンの音、ざわつく周囲、拘束された体。

 どこかで何かを話したようにも思うし、何かを言われたようにも思う。しかし、僕の心には何も響かない言葉であったのは確実だろう。

 まったく頭は働かなかった。葬式、という単語がどこかで聞こえたことは思い出せる。それと、そのために色々と動いた気もする。まるで体と心が解離してしまったかのようで、その解離が再びの融合を果たしたときには、僕は墓地にいた。

 辺りを見渡して目の前の墓石に目を向ければ、そこには彼女の名前が刻まれていた。

 力なく膝をついた。彼女は死んだのだ、安らかに。その事実を再認識して知らず内に涙が零れてくる。


「君は……幸せかって、きいてきたね」


 勝手に言葉が漏れていた。


「幸せだった。君と過ごした日々はどうしようもなく、幸せだったよ」


 一瞬の走馬灯のように、彼女との日々が浮かんでは消える。彼女の笑顔がどの思い出にもくっきりと映っている。


 覚束ない足取りで帰路につく。

 空は黄昏。橙に染まった夕日が世界をゆっくりと照らしている。

 そういえば。

 彼女と初めて出会ったのもこんな日だった。

 ちらりと下に目を向ければ縁石が伸びている。


『いやぁ、バランスをとるのって難しいんだね。私じゃなんどやっても転んじゃう』


 不意に彼女の声が聞こえたような気がした。

 そうしたら、なんとなく僕も試してみたくなってしまった。

 縁石の上に立つ。慣れない足場を上をゆっくりと歩いていく。しかし、どうやら僕もまた、バランス感覚はなかったようだ。

 風が吹いたことに気をとられ、そのまま盛大に転んでしまった。

 いてて、と尻を擦る。そして、不意に可笑しい気持ちになってしまった。もし彼女がいたら、随分と笑われていただろうな、と。彼女の笑顔が恋しかった。

 その時、後ろから声がかかってきた時、僕の心臓が脈打った。


「大丈夫、ですか?」


 振り向いてみれば、そこには僕とはひとつ違いほどの女の子がいた。胸のあたりには僕と同じ高校であるK高校の刺繍がされている。学校帰りだろうか。

 その子は、この世界では当たり前である無表情な顔だった。それでも、こうして心配の声をかけてくれるというのは、その子の優しさを表していた。


「ああ、大丈夫。心配してくれてありがとう。学校帰りで疲れているだろうに」

「いえ、私こそ……学校じゃあ、そんなことをしてる人はいなかったので、気になっちゃって」


 それはこの世界では不思議な考えなのだろうと思う。感情を隠すためには行動は最小限が望ましい。何かをするにしても、人とかかわるにしても。今だって、この子は僕の心配をしたがために寿命を削ってしまったかもしれない。


「それはありがとう。でも、あまり他人とかかわるのはよしたほうがいいんじゃないかな。無駄に寿命を削ってしまうだろうし」

「……その、私、あまりそれは気にしてないんです。みんなは命が大事だっていうけれど、でも、私はそれよりも、もっと伸び伸びと生きることが大事だと思うんです。周りの目がなければ、私は……」


 そう言ってから彼女はほんの少しだけ表情を動かした、ように思えた。もしかしたら声音から錯覚してしまっただけかもしれない。

 この子の考えは、きっと彼女に近い。この子は、きっと彼女と同じ、本当の人間になれる数少ない人だ。


「だから、さっき、楽しそうにしている姿をみてとっさに声かけちゃって……」

「楽しそうに、している……」


 この子から言われた言葉を僕は繰り返す。その意味を咀嚼していくうちに可笑しくなってきて、つい「ふふ」と笑ってしまった。

 縁石で楽しくしているだなんて、まるで彼女のようじゃないか、と思ってしまったのだ。

 それと同時に僕の心にひとつの思いが生まれる。この子に彼女と同じ世界を見せてあげたい。そのしがらみから解き放ってあげたい、と。

 この子の言葉がきっかけだったのだ。

 僕がまるで彼女のように縁石を渡るのを楽しんでいる。ならば、僕が彼女の代わりになれはしないだろうかと思ってしまったのだ。すべては彼女の真似事にはなってしまうけれど。僕は彼女のように人間にはなれないかもしれないけれど。それでも、この子が彼女の生き様から得るものがあれば、それはきっと彼女の喜びにもなるんじゃないかと思ったのだ。

 だから。


「……そうなんだ。それなら良かった。こういうことで話しかけてくれる人ってあまりいないからさ。良かったら、上手く渡るコツとか教えてくれないかい?」


 そう言って、僕は満面の笑みを見せて、人間の振りをすることにしたのだ。


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