百 ー 2
【百 ー 2】
ノーマッドが黒いリュックサックに缶詰を詰め終わると、ベッドを一瞥した。そこにはノエルと共に気持ちよさそうに眠っているミアの姿があった。
「おい起きろ。いくぞ」
ノーマッドが声を掛けると、壁を背にして眠っていたミアがうっすらと瞼を開いた。
月の瞳が顔を覗せて、ノーマッドは一瞬吸い込まれてしまいそうな気がした。けれどもすぐに舌打ちをしてその考えを振り払う。子供に興味はない、と心の中で呟き、病院の地下にあるこの研究所からどうやって脱出しようかと思案しはじめた。
「んん~、おはようノーマッド。そんなに恐い顔してどうしたの?」
眠そうな目をこすりながらミアはそういって、大きなあくびを一つ吐き出した。つられるように、彼女の膝の上で寝ていたノエルも小さな牙を剥き出しにしてあくびをしていた。
「出発するぞ。ここから出るんだ」
ミアはぱぁっと明るい表情になり、飛び起きた。膝の上から追い出されてしまったノエルは軽やかな動きで床に着地し「にゃおん」と鳴いて、ベッドの上で腰に手を当てながら仁王立ちしているミアを不満げに見上げている。
「ついにこの時が来たのね! 夢にまで見た外の世界が私を待っているんだわ! 金閣寺にエッフェル塔! モンサンミシェルと自由の女神も外せないわ! あとバリかちゅお!」
「贅沢なラインナップだがどれももう無いぞ。というかバリかちゅおってお前な……」
あまりにも荒唐無稽なことをいうミアに対して冷静に指摘すると、彼女は途端にノーマッドに詰め寄り両手を目いっぱい伸ばして胸倉を掴んだ。
「どうして!? どうして世界遺産と文化遺産と静岡名物がないのよ!?」
「あのなあ日本は、いや世界はもう滅んだんだ。八年前に現れたミュータントのせいでな」
「ミュータント? それ知ってる! 亀の忍者でしょ!」
ノーマッドはミアが何も知らないことにうんざりした。彼女はまだ、外の世界が人々の活気に満ちていると思っているのだ。だが現実は違う。この無知な少女が外に出ればすぐにでもミュータントの餌食になることは火を見るより明らかだ。それだけならまだしも、ノーマッドは自分まで巻き添えを食らうかもしれないと思った。
「いいかミア。よく聞いてくれ」
ノーマッドはミアの両肩に手を置いた。あまりにも細い体に驚きつつ、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめたのだった。
「え? な、なに? もしかして愛の告白? やだわ、困っちゃうわ。あなた顔は悪くないものね。でもそんなにがっつかれるとちょっと嫌だわ。もっとじっくり愛でてよ」
ミアは両手で頬を押さえながら体をくねらせていた。
「チィッ!」
ノーマッドはそんな彼女の姿を見て、今日一番の舌打ちを響かせた。
「……え、今なんで舌打ちしたの?」
「舌打ちなんてしていない。聞き間違いじゃないか? そんなことより、よく聞いてくれミア」
舌打ちを無かったことにして話を仕切りなおし、この世界の現状をについて説明し始めた。
2025年にアリゾナ州に隕石が落下したこと。そして隕石に付着していた寄生生物が世界中に蔓延し、人々は異形の化物であるミュータントに変貌したこと。そして文明は崩壊し、人類は地上から姿を消して、代わりにミュータントが闊歩していることなど。なるべく子供でもわかるように簡潔に伝えた。
そんな気遣いなど必要なかったらしく、ミアの表情はどんどん暗くなっていく。話が終わる頃にはすっかり肩を落として残念そうな顔になっていた。
「バリかちゅおが食べれないなんて……」
「一番悲しいのはそこなんだな」
思いのほか食い意地が張っているミアに、ノーマッドは呆れた。
「ねえ、じゃあ外にはなにがあるの?」
「なにもない。どこまでも廃墟が続いて、廃墟を越えれば森か海。そしてまた廃墟だ」
「そんな……。ごめんなさい、私、こんな言葉しか思いつかないわ。クソね」
子供が口にするにはあまりにもストレートな物言いに、ノーマッドは顔を顰めた。
「ああクソだ。むしろこの世界はクソ以下の化物共がそこらじゅうを歩き回ってるクソまみれの地獄みたいなもんだ。なあミア。お前はやっぱりここに残るべきじゃないか? ここなら安全だし、食料もある。もう一度よく考えたらどうだ?」
ノーマッドは自分にも良心が残っていることに驚いていた。この荒廃した世界で生き抜くために心を殺して生きてきた。自分には一欠けらの良心も残っていないのだと思っていた。なのにミアを見ていると、どうしてもかつての自分を思い出してしまう。幼馴染を守ると誓った、弱くて小さな少年だったあの頃を。
ミアと出会い、そしてアリストテレスの言葉を重ねたその瞬間から、ノーマッドの乾いた体の奥底に熱のようななにかが湧き上がっていた。ノーマッドは言い表せないその感情に、不思議な懐かしさを感じていた。
「嫌よ。外がクソ以下の地獄だったとしても、こんな退屈な部屋にいつまでもいるのは地獄以下。無よ! ここにいる限り私は人でも化物でもないの。空気と同じよ。ただそこにいるだけ。退屈は人の存在を否定するんだわ!」
ミアの表情が険しくなっていく。語気を強めた彼女に、ノーマッドは面食らってしまった。力を入れれば簡単に壊れてしまいそうなほど華奢な肩の少女が、自分の存在について語ったのだ。彼女の意志の強さに、ノーマッドは頷かざるを得なかった。
「そうか……。ならわかった。ここから出してやる。だが俺はお前を一人前として扱う。手助けはしない。自分の身は自分で守れ。いいな?」
ミアは、「当然よ!」といってノーマッドの腕を払いのけ、自分の胸を手で押さえた。
「私はずっとこの部屋にいたけど、運動は得意なんだから!」
ミアは颯爽とベッドから飛び降りた。横で結ぶタイプの患者服にも関わらず彼女は紐を結んでいないため、服が捲れあがって小さな尻が露わになる。
それだけではなく彼女は自分の運動能力の高さを披露したいのか部屋中を走り回った。肩紐だけで来ている服は、走っている風圧で体の前面に密着しているものの、尻は丸出しである。
「おいミア」
ノーマッドが声をかけるも、彼女は臀部をさらけ出していることに気づいていない。
「あははは! ほらほら、こんなに速く走れるの!」
「おい、ちょっと止まれ」
ミアは全く聞く耳を持たない。側転や前転までし始めて、最後に逆立ちして止まった。
「どう!? すごいでしょ、わぷ!」
ふわり、と落ちた患者服に顔を覆い隠された彼女は、ノーマッドの返事を待っているのか逆立ちしたままだ。すらりと伸びた足や、少しだけくびれた腰つき、さらにやや肋骨の浮いた膨らみかけの胸。そして桜色の突起が露わになる。
子供にしては発育の良い体つきを眺めつつ、ノーマッドは額を抑えた。
「ねえノーマッド―? 見てるー?」
顔にかかった服のせいで、彼女の声はくぐもっていた。
「見てるよ。それから充分わかった。お前は凄い身体能力を持ったすごい馬鹿だってことがな」
ノーマッドはミアに近づいて、両手で腰を掴んだ。ミアは義手が冷たかったのか、それとも腰を掴まれてくすぐったかったのか「ひゃあん!」と小さな悲鳴を上げた。
ノーマッドはそのまま自分の顔の前に彼女の顔が来る高さまで持ち上げた。
ミアは首を振って患者服を払いのけると、逆さまに持ち上げられたまま破顔していた。
「あははは! ノーマッドの顔、逆さまだとおもしろーい!」
「そうか。俺にはお前の方が滑稽に見えるがな」
「うふふ。どうして?」
「上を見てみろ」
「上?」、と言って不思議そうな顔でミアは床を見た。
「逆だ馬鹿。体の方を見ろってことだ!」
「むー、そんなに怒らないでよノーマッドの意地悪。私の体になにかあるわ……け?」
彼女が顔を天井に向けた瞬間、きゅっ腹筋が浮き上がった。
「わかったろ? どちらが滑稽か」
「き」
「ミア?」
「きゃああああああ! ノーマッドのへんたあああああい!」
ミアは体を柔らかく使い、右足を勢いよく降ろしてノーマッドの脳天を蹴った。
振り下ろされた足の威力はそれなりに高く、ノーマッドは苦痛の吐息を漏らしてミアを手放した。ミアは猫のように空中で体を捻って床に着地したあと、胸と股間を手で隠した。
「いってぇ……」
「変態! 変態変態変態! ノーマッドの色狂い!」
「服を結ばないお前が悪いだろうが……。というかなんだよ色狂いって」
「だって、結び方なんて知らないもの!」
「チッ。なんだそりゃ……」
ノーマッドは頭頂部を擦りながら舌打ちをした。彼の視線の先には威嚇する猫のように睨みつけてくるミア。彼女は患者服の端を握り、胸を押さえている。体を隠しているつもりなのだろうが、太ももは完全に露出していた。
「ノーマッドのエッチ! 私の体を見て興奮したんでしょ!? 今悪戯したいって思ってるでしょ! 嘘だって言うなら背筋伸ばして立ってごらんなさい! 股間にピラミッドが見えたらあなたは有罪よ!」
「ガキの体に興味なんてねーよ」
そう言いつつもノーマッドはさりげなく立ち上がった。無論、ピラミッドは立っていない。
「嘘! 青い果実をしゃぶり尽くしたいとか思ってるんだわ! ムハンマドみたいに!」
ムハンマドは九歳になった女は一人前と考えており、事実彼は、まだ幼い少女アイーシャを妻に娶った。ミアの言葉が癇に障りノーマッドは眉間に皺を寄せた。
「小難しい事言いやがって。ムハンマドへの風評被害だぞ」
「じゃあ私になにをしたいのか正直に答えて! サクランボのヘタ結び? こたつの中でかくれんぼ? それとも、まさか、お医者さんごっこ!?」
「とりあえずぶん殴りたい気分なのは間違いない」
「いっておくけどこれって性的搾取よ! ロリコンへの需要に対する緩やかな供給よ!」
「お前はなにをいっているんだ?」