マイナス八 - 1
リビングに一人残された伊佐武は再びソファに寝転がり、ロボットが銃撃戦を繰り広げるソーシャルゲーム、『重工機神マキナ・ロワイヤル』の続きを始めたのだった。
一時間ほど経ち、画面の向こうで戦うロボットに飽きた頃、伊佐武はふと、冷蔵庫に昨日買ってきてもらったケーキがあることを思い出した。
それは、忙しい両親が丸々一ヶ月遅れて買ってきてくれた伊佐武の誕生日ケーキ。伊佐武は意気揚々とソファから立ち上がり、フローリングの上を靴下で滑りながらキッチンに移動した。
冷蔵庫を開くと、中から冷たい空気が流れてくる。お目当ての白い紙の箱を手に取ったその時、インターホンが鳴った。冷蔵庫から取り出した箱をリビングにあるテーブルに置いて、伊佐武は玄関へと向かった。
再び靴箱の下から脚立を取り出し、オレンジ色のカバーが取り付けられた足を広げて玄関の扉の前に置いた。天板まで登り、覗き窓に目を近づけた。しかし、扉の向こうには誰もいない。伊佐武が悪戯だと思った瞬間、覗き窓に箒の柄が映りこみ、再びインターホンを鳴らした。 この鳴らし方をする人物に、心当たりは一人だけ。幼馴染の如月真莉愛だ。
「真莉愛? ダメじゃないか、今は家にいないといけないんだよ?」
伊佐武がそういうと、扉の向こうから嗚咽混じりの声が聞えてきた。
「伊佐武君。ぐす……ママが、帰ってこないの……」
「帰ってこないって、いつから?」
「二日前から……」
伊佐武は少年ながらに、これが切迫した事態だと思った。両親の言いつけを破り、真莉愛を部屋に上げることにした。扉のチェーンロックを外し、ドアノブの鍵も開け、伊佐武は扉を開いた。
目の前には茶色の髪を頭の右側だけ括った真莉愛が立っていた。髪と同じ茶色の瞳は白目の部分が赤く充血していた。下唇をぎゅっと噛みしめながら、桃色のワンピースを握りしめている。持ち上げられたワンピースの裾から血を流している膝が見えた。血はふくらはぎにまで垂れている。どうやらどこかで転んだらしい。
「伊佐武、君……う、うあああああん!」
みるみる真莉愛の瞳から涙が溢れ、彼女は伊佐武の胸に飛び込んできた。しばらく泣き続けていたが、伊佐武が彼女の頭を撫でると、徐々に荒れた呼吸が静かになってきた。
「落ち着いた? 膝、消毒しよっか」
伊佐武は扉を締めて、ドアノブの鍵とチェーンロックを掛けた。真莉愛はしゃくりをあげながら「ありがとう」といって靴を脱ぎ、リビングにあるソファに腰かけた。膝が痛むのか、足を伸ばしている。
伊佐武がキッチンにある戸棚から救急箱を持ってきて真莉愛の前にしゃがみこみ、ガーゼに消毒液をしみ込ませた。あまり外で遊ぶことがない真莉愛の足はとても白く、ふくらはぎや太ももは手にしっとりと吸い付くような柔らかさがある。伊佐武は間近で見る女の子の足に気恥ずかしさを感じながらも、丁寧に血を拭った。
「あうぅ、痛いよぉ」
「我慢して。消毒しないとばい菌が入っちゃうから」
真莉愛は痛みに耐えるように伊佐武の肩を握っていた。消毒が終わってから、伊佐武は真莉愛にケーキを食べるよう勧めた。本当は一人で食べようと思っていた苺のショートケーキを縦に切りわけ、一個しかない苺も真莉愛の皿に乗せて差し出した。
「苺、いいの?」
「うん。いいよ」
申し訳なさそうに聞いて来た真莉愛に、伊佐武は素っ気なく返す。
「でも」
「食べなよ。真莉愛が苺好きだって知ってるし。それに、これで元気になるなら……僕……」
照れくさいからか、伊佐武の言葉は尻すぼみになっていく。真莉愛はそんな彼に対して、にこやかに微笑みかけた。伊佐武はその表情に見惚れてしまいそうになり、さっと顔を背けたのだった。
「伊佐武君、ありがとう。私も伊佐武君が苺が大好きだって知ってるから、半分こしよ?」
真莉愛は自分の皿に乗せられた苺をフォークで切り、伊佐武の口元へ差し出した。
「う、うん。ありがと」
伊佐武はぎこちない動きで、彼女が差し出した苺を咥えたのだった。苺の果汁が溢れ甘酸っぱい味が口に広がる。彼の心臓は今、はち切れそうな程高鳴っていた。
伊佐武は真莉愛のことが好きだった。幼稚園の頃から共に育ってきたからこそ、自然に芽生えた感情だった。そして真莉愛もまた、去年身を挺して庇ってくれたその日から、伊佐武を見る目が変わっていた。それまでのただ仲の良い友達に向ける視線とは違う、どこか熱を帯びた眼差しを向けるようになったのだ。
しかし、まだ小学生の二人には、お互いの気持ちを推し量ることができない。二人はソファの上でじっと見つめあう。苺のように甘酸っぱい気持ちが心を満たしていく。ところが不意に、真莉愛の表情に悲しみの影が差した。
「ママ、どこいっちゃんだろう」
俯いた真莉愛を見て、伊佐武は何とか元気付けなければならないと思った。彼女の悲しむ顔は、見たくないから。
「大丈夫だよ。きっと今は忙しいだけなんだよ」
「でもねでもね。さっき、ママが働いてるスーパーを見に行ったの。そしたらお巡りさんがいっぱいいて、黄色いテープがたくさん張られてて、中に入れなかった。私、恐くなってすぐに帰ってきちゃったの」
真莉愛は膝を擦っていた。恐らく慌てて帰ってきた時に転んだのだろう。彼女の母親が働いているスーパーの状況からして、ただ事ではない何かが起きたのは間違いない。これ以上、真莉愛の母親について話を続けていても気持ちが沈むばかりだ。伊佐武はそう考え、話題を変えることにした。
「でも、きっと大丈夫。それにさ、去年言っただろ? なにがあっても僕は真莉愛を守るって。だから安心しろよ」
「伊佐武君……ありがとう」
一生懸命励まそうとする伊佐武に、真莉愛は仄かに頬を朱に染めていた。
「とりあえず今はさ。ケーキ温くなっちゃうから早く食べよう!」
真英愛は寂しそうに笑いながら頷き、フォークを持った手をケーキへと伸ばした。
薄くスライスされたケーキを食べるのに、それほど時間はかからなかった。二人ともすぐに食べ終わり、伊佐武は空いた皿をキッチンに持っていった。
シンクに皿を置いたその時、リビングで重い何かが床に落ちるような物音がした。
「うう、お腹が痛いよぉ……」
キッチンカウンターからリビングを見ると、真莉愛が床の上で腹を押さえながら倒れている。
「真莉愛⁉」
慌てて駆け寄ると、真莉愛の顔はすっかり青ざめ、血の気の引いた唇は白くなっていた。体が異常に熱くなっており、服が湿るほど汗をかいている。さらに彼女の右の首筋に、一目で異常とわかるほど血管が浮き上がっていた。伊佐武は突然の非常事態に混乱したが、ソファに置きっぱなしだったスマホを見て、”119”という数字が脳裏を過った。
「救急車! はやくしなきゃ!」
伊佐武がスマホを手に取り慣れた手つきでパスワードを打ち込んだ。
そしてすぐに119に電話をかけたが、通話口から聞えた音声は「ただいま大変込み合っております。少々お持ちください。」という無機質な機会音声だった。
続いて川のせせらぎのような音楽が流れ始めるも、自分のすぐ横では幼馴染が苦しんでいる。焦りながら応答を待っていると、真莉愛が突然両手を床について四つん這いになった。彼女は背中を丸め、びくん、と体を震わせた。