マイナス八 - 1
【マイナス八 - 1】
西暦2025年九月九日午前三時四二分。からりとした夏の夜。それはアメリカ合衆国アリゾナ州のアンテロープキャニオンに突如飛来した。
本来なら七月末から九月初旬にかけて雨が降るはずのこの土地で、今年は長いこと干ばつが続いており、現地住民のナバホ族によって夜通し雨ごいの儀式が行われていた。雨乞といっても、古の時代のような山羊や人間を生贄に捧げるような物騒な儀式ではなく、単に大量の木材を燃やしながら音楽を奏でているだけである。儀式には男女問わず子供から老人まで集り、熱帯夜を乗り切るために半袖のTシャツやタンクトップに身を包んでいる。
かつては民族を統べる長がおらず、個人が唯一の支配者だった頃とは違い、現在のナバホ族は合衆国主導のもと近代化が進んでいる。しかしその昔、時の大統領エイブラハム・リンカーンの命による民族大虐殺。そしてニューメキシコ州にある収容所まで徒歩での強制連行。通称”ロングウォーク・オブ・ナバホ”は、今でもナバホ族達の心の中に深い傷跡と偉業を成し遂げた先祖達への尊敬として残している。
そんな彼らが先祖代々愛してやまないアンテロープキャニオンにて、一人の若者が空に見たこともない星を見つけた。彼が褐色の指先を空に向け、他のナバホ族たちに第二次世界大戦時に対日本の暗号として使われた現地語で話しかけた。十数名のナバホ族が若者の周囲に集まり、皆一様に空を見上げた。
空には確かに見たこともない白い星が見えた。しかもそれは徐々に大きくなっている。やがて星が白から赤に変わってからは、あっという間だった。
一筋の光芒がアンテロープキャニオンの赤茶けた岩盤を抉って落下し、凄まじい衝撃波と砂塵を巻き上げた。ナバホ族たちは叫び喚き、キャンプファイヤーと共に吹き飛ばされた。それから数十分後。最初に隕石を発見した若者が、赤い土の下から起き上がった。彼の頭上にあった独特の縞模様が浮かび上がった岩盤は大きく抉れ、星空と満月が顔を覗かせている。
彼が満月の光を頼りに周囲を見渡すと、地面にできた半径三十センチ程度の小さなクレーターを見つけた。そしてその中央で煌く赤い光も。
抉れた岩盤の隙間から差す月光に照らされたそれは、直径一センチにも満たない隕石。
小さな隕石は熱せられた鉄のように真っ赤に光っており、夜の闇の中でも大きな存在感を示していた。若者の目に赤い隕石が映り、何を思ったのか、彼はクレーターの中心へと歩いていった。魅入られたように隕石に手を伸ばしたその時。隕石の表面から小さな紐のような物が飛び出し、若者の口に入った。
若者は喉を押さえて苦しみだし、やがて顔中の血管が浮き上がり、体の表面が細かく裂け始めた。体の裂け目から大量の血を流し、若者は激痛で叫びだす。剥離する肉を抑えつけても体は細かく分断されていく。いつしか彼の身体は細い触手が幾本も束ねられたような姿に変貌し、人としての理性を微塵も感じさせない化物に姿を変えた。
これが、地球に出現した最初のミュータント“アダム”だった。
十日後。隕石の調査団がアンテロープキャニオンを訪れミュータントと遭遇。八人の調査団の内六名が死亡し、生き残った二名は体内に寄生生物を潜伏させたままアメリカ合衆国ニューヨーク州と日本の愛知県へそれぞれ帰国。帰国後一週間が経過し、生き残った二名が発症。次々と人を襲い、感染を拡大させていった。人の体内に潜伏した寄生生物の発症時間には個人差があり、飛行機。船。電車。車などの様々な交通機関をへて世界中に拡散された。
WHOの調査によれば、宿主が発症すればたちまち体が変異してミュータント化。理性を失い人間を捕食するか胚を植え付ける。特徴的なのは、ミュータントは人間しか襲わないという点だ。それは、彼らの始祖である最初のミュータント“アダム”が人間に寄生したためだと権威ある医師が唱えた。真偽のほどは定かではないが、事実ミュータントは牛や豚などの家畜には見向きもせず、人間だけを食らうか、仲間を増やすための苗床にする。宇宙から飛来した人間の天敵とも言えるこの生物は、世界を震撼させた。
十月の初め頃には、各国が厳重な国際間交通規制と戸籍順に速やかに健康診断を行った。その対応は2018年に流行しかけたエボラ・ウィルスを彷彿とさせた。
無論日本政府も順次対応に乗り出した。極力人の多い場所へ行かないようにアナウンスして、学校や多くの企業が自宅待機を命ぜられた。けれど、各国の努力も虚しく世界的にミュータントの増加は続く。
寄生されてから発症までの時間が定かではなく、就寝中に寄生されすぐ発症する人もいれば、数日から数週間遅れで発症する人もいた。なによりこの寄生生物はエボラ・ウィルスと違い、大気に晒されてもすぐには死なないタフさも兼ね備えていたのだ。
そのため各国は寄生生物の自然消滅を諦め、抗寄生生物薬、所謂『特効薬』の作成に力を注いだのだった。
※ ※ ※
世界中で特効薬の開発が急がれる中、秋の潮風が吹きすさぶ静岡県浜松市に住んでいる神崎伊佐武も世間の混乱に巻き込まれ、自宅待機していた。小学四年生の彼は世界のことなどさして興味はなく、単純に学校が休みになったことを喜んでいた。
「それじゃあパパとママはお仕事に行ってくるからね。いい? 絶対に窓は開けちゃダメよ? それと、換気扇に付けた金網もとっちゃダメ! それと」
銀色の宇宙服のようなスーツに身を包んだ母が、玄関のドアノブを握りながら早口で言った。
「家から出ちゃダメなんでしょ? もう何度も聞いたよ母さん」
そんな母に、伊佐武はリビングの白いソファに寝そべってスマホをいじりながら答えた。
「でも」と言って話を続けそうになった母の肩に、母と同じスーツを着た父が手を置いた。
「まあまあ、お母さん。伊佐武なら大丈夫さ」
「でもあなた。この子、この間もクラスメイトと喧嘩したのよ? 頭に血が登るとなにをしでかすかわかったもんじゃないんだから。本当、あなたとそっくりだわ」
一年も前の話だよ、と伊佐武は思ったが、喧嘩したことは事実なので口には出さなかった。事の発端はクラスメイトのいじめっ子が、伊佐武と同じマンションに住む幼馴染の真莉愛の筆箱を隠したことを知り、ついカッとなって殴ってしまったのだ。
「僕に似ているならなおさら心配することないさ。伊佐武はしっかりした子だ。今までだって、ちゃんと言いつけを守って来たじゃないか。僕たちの息子を信じよう」
母はなおも不安げに眉根を下げていたが、リビングの白い壁に掛けられた茶色い振子時計を見てそろそろ出勤しなければ遅刻すると思ったのか、「わかったわ」と呟いたのだった。
父と母は透明なアクリル板が嵌めこまれたヘルメットをかぶって「行ってきます」と声を揃えて家を出た。玄関から出ていく時に見えた両親の背中には、筆で描いたような字で『聖神クリストファー病院』と書かれていた。
伊佐武は両親を見送った後、ソファから降りて玄関に向かい、靴箱の下から三段しかない小さな脚立を引っ張り出し、扉についているチェーンロックをかけた。
本来ドアノブのすぐ上についていたチェーンロックは、数年前に新調した時に業者が誤って高い位置に取り付けたのだ。伊佐武は当時作業をした業者に不満な気持ちを募らせつつリビングに戻った。