百年の旅路の果てに
「なぜだ!? どうしてここに残ろうとするんだ!?」
「ごめんなさい。ごめんなさい、ノーマッド。でも私、やらなきゃ」
「なぜ!? もうそんなことをする必要なんかないんだ! お前は今、正真正銘の自由なんだよ! 今更ミュータントを絶滅させたところで、この世界に人間が生きてる保障なんてない! ミア一人が不幸になることになんも意味もないんだ!」
「意味なら、あるわ」
ミアは顔を上げた。彼女の金色の瞳にはいまだ悲しそうに揺れている。それ以上に、決意や覚悟といった強い想いがにじみ出ていた。その瞳を見て、ノーマッドははっとした。
「まさか、俺のために?」
ノーマッドの見つめる先で、ミアがこくりと頷く。
「それこそ馬鹿げてる! 俺は機械だ! そう簡単に死んだりしない!」
「ううん、ダメよノーマッド。ノーマッドはきっと私を庇ってしまうもの。今回は右目だったけど、次は足かもしれない。その次は首かもしれない。不死身の私と違って、あなたは壊れたらそれっきりなのよ。私は、あなたが目の前で死ぬところを見たくない。愛しているから。でもミュータントと私がいなくなればあなたは長生きできる! だからね、ノーマッド。だから、私にあなたを守らせて」
「やめてくれ! そんなこと言わないでくれ! 俺の為だなんて……そんな!」
何度目かのノーマッドの怒号が響いた。彼はおぼつかない足取りでミアに歩みよった。数歩歩いて足をもつれさせ、彼女の前で倒れた。床に倒れたまま彼はミアに手を伸ばした。ミアはその手を握り、柔和な笑みを浮かべた。
「お願いよノーマッド。私を空へ、宇宙へ飛ばして」
「嫌だ。そんな悲しい事、俺に頼まないでくれよ!」
「お願いノーマッド。私一人に、別れる辛さを味あわせないで」
ノーマッドは息を飲んだ。彼女の言葉を聞くのは苦痛だった。これまでノーマッドが感じた彼女の温もりや優しさの分、胸が痛くてたまらなかった。それでも、それが彼女の望みなのだ。いずれミアだけが一方的に与えられることになる別れの痛みを、ノーマッドと分かち合うこと。せめて愛する人と同じだけ悲しみ、嘆き、苦しむこと。それがミアの本当の願いなのだと、ノーマッドは気がついた。
「わかったよ、ミア。こんな辛い思い、お前だけにさせない」
「ありがとう、ノーマッド。愛してるわ」
「俺も、愛してるよ、ミア」
ノーマッドは起き上がり、腕を広げた。その腕の中にミアが自然に入り、抱きしめた。
とても自然な動きだった。抱きしめることと抱きしめられることを互いに求め会う一切の違和感がない行為だった。二人の抱擁を、ノエルはただじっと机の上から見つめていた。ノエルの後ろのモニタには、灰色のバーが現れ左端からゆっくりと緑色に染まっていった。
およそ十分後にバーは緑一色になった。ノエルは首を動かしてUSB端子を引き抜いて床に降り、いまだに抱き合ったままのノーマッドとミアに近寄った。
「君たち、いつまで抱き合っているんだい?」
ノエルが衣舞の声で言った。その様子を見ていたミアは首をかしげていた。
「あら? いま、ノエルが話したの?」
「言語プログラムをダウンロードしたのさ。別れを惜しむのもいいけどそろそろ行こうよ」
「行くって、どこにだ?」
ノーマッドはつかつかとリフトに向かって歩く黒い尻尾を見つめながら言った。
「ロケットの先端にある搭乗席さ。はやくリフトを上げてよ。私は操作できないんだから」
不貞腐れたような物言いだったが、ノーマッドはノエルの言う通りにすることにした。
「そこの操作盤の赤いボタンを押して」
ノエルに指示されるままノーマッドが操作盤の赤いボタンを押し込むと、リフトの両端を掴んでいた爪のような形のロックが外れた。壁も天井もないリフトはロケットに沿うように上に伸びているレールに歯車を噛ませて昇っていく。二十秒ほどで一番上に到着し、停止した。
「あとは、ミアちゃんがあそこに入って、ノーマッド君が下にあるパソコンを操作すれば発射するよ」
ノエルが見つめている先には、小さな丸い窓が嵌めこまれた扉があった。どうやらそこを開けるとロケットに入れるようになっているようだ。ミアは何も言わず歩いていった。
「あ、ミア」
ノーマッドは思わず彼女に手を伸ばした。だが、すぐに手を降ろした。彼女を引き留めたところで答えが変わるわけではない。むしろ決心を鈍らせ、より辛い思いをするだけになると気づいたのだ。
ミアがロケットの取っ手を掴んで捻ると、扉が開いた。扉の中には小さな白いソファが置かれている。そのソファのひじ掛けの部分には先端に針がついた管が通っており、ソファと同じ白い内壁の中に入っている。
ノーマッドはこの機械を作った人々は本気で狂っていると感じた。何人もの人々が、一人の少女を宇宙に飛ばすためにこんな大掛かりな物を作ったのだ。人間はなんて愚かなのだろう、とノーマッドは思い、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
ミアは扉の中の景色をしばらく見つめ、ロケットに乗り込んだ。ソファが軽く軋んで彼女の小さな体を包み込む。くつろぐように一息ついたミアは、ノーマッドを見つめてきた。
「ごめんなさい、ノーマッド。注射を刺してもらえるかしら」
「ああ。わかった」
ノーマッドはソファに近寄り、注射針がついた管を手に取った。そしてソファのひじ掛けに置かれているミアの右肘の内側に刺した。動脈から赤い血液が管を通り、壁に吸い込まれていく。これで準備は完了した。
後は扉を閉めてリフトの下にあるパソコンでロケットを発射するだけだ。けれどノーマッドは、最後に触れたミアの右腕を離せずにいた。
「ノーマッド? どうしたの?」
「これで、さよならなんだな」
「うん」
「心残りはないか?」
「んー、お魚釣りと、桃缶が食べれない事かしらね」
「ふっ、お前らしいな……」
お互いに俯いたまま黙り込む。重い空気が流れた。しばらくして、ミアの体が震えていることに気づいたノーマッドは、顔を上げた。
「う……ふぐっ……うぅ」
ミアは泣いていた。大粒の涙をこぼし、マントの上にいくつもシミを作っている。
「ミア……なあ、今からでも遅くないんだぞ?」
それはノーマッド自身の願いでもあった。いまならまだ引き返せる。二人で旅をする道に切り替えることもできる。しかしミアは、首を左右に振った。