百 ー 1
もしもこの少女を監禁している人物がいるのなら、侵入者が現れれば当然何らかの対応をしてくるはずだ。最も高い可能性は、この部屋に唯一ある扉から武器をもって襲ってくること。マントの下で銃を握り、扉が開くのを待った。
少女は突然現れたノーマッドを見つめたまま動かない。不安げに胸の前で両手を握り合わせている。向かい合う二人は何も事情を知らない者が見ればまるで、姫に忠誠を誓う騎士のような構図に見えるかもしれない。
「にゃぁおん!」
黒猫が鳴いた。その鳴き声で少女がはっと我に返った。彼女は怯えたように胸を押さえたままゆっくりと口を開いた。
「あなたは、だあれ?」
少女の質問に、ノーマッドは答えない。
「猫の、王子様?」
なおも答えない。そもそも猫の王子様という質問の意味が解らなかった。
「それとも……」
間を開けて少女が話を続ける。
「変た――――」
「違う。食料をいただきに来たんだ。断じて変態ではない」
ノーマッドは少女の言葉に対して食い気味に答えた。彼の持つ十八年分の記憶と経験では、少女と言えども女性に変態扱いされるのは嫌だった。
ノーマッドは銃のグリップを握ったまま立ち上がり、辺りを見回した。すると本棚の左上。天井の隅に黒いドーム状の監視カメラを見つけた。トイレもある部屋に監視カメラを設置する等、ここの管理者こそ真の変態だと彼は思った。
「お前は、なぜこんなところにいる?」
「ミア」
「なに?」
予想していた返事と違う言葉に、ノーマッドは思わず監視カメラから視線を外して少女を見た。自分の胸ほどしか身長がない少女は先ほどまでの怯えた表情はどこへやら、今は微かに口元を吊り上げながら、後ろ手に慎ましく膨らんだ胸を張ってノーマッドを見上げていた。
「私の名前よ。あなたはなんていうの?」
「……名乗る必要はない」
自分のことを知られるのが嫌だったわけではない。ただ、互いの名前を知って情が移るのを避けたかったのだ。
「にゃぁおん! にゃーおっ! にゃーおっなお!」
猫が激しく鳴きながらノーマッドの足元にすり寄ってきた。彼はごくりと生唾を飲み込み、マントの下で左手が疼いた。しかし撫でる前に、少女が黒猫をひょい、と持ち上げてしまった。
「この子はノエル。本当はミッドナイトって名前を付けようと思ったんだけど、首輪に名前が書いてあったの。この子もついさっき天井裏から落ちてきたのよ。だからあなたが落ちてきた時はおっきな猫さんかと思ったわ!」
楽し気に話し出すミア。ノーマッドは感情を顔に出さないように努めて、ノエルを指さした。
「名前なんかどうでもいい。そいつは俺の食料だ」
その言葉に、ミアは目をぱちくりさせていた。束の間、子供部屋の中に静寂が訪れる。
「食料!? いまこの子のことを食料って言ったの!?」
「ああそうだ。俺はそいつに二度もコケにされたんだ。だから食う」
「野蛮人! こんな可愛い猫ちゃんを食べるなんて信じられないわ! あなたは全然猫の王子様なんかじゃないわ! ケダモノよ!」
捲し立てる様に喚き散らすミアに、ノーマッドは顔を顰めた。同時に彼は困惑していた。なぜこんな辺鄙な場所で出会った少女に叱られているのだろうか、と。ノーマッドはミアを落ち着かせるために、しゃがんで彼女の肩に手を置いた。
「落ち着け。俺はケダモノじゃない」
床に両膝を付けると、ミアの方が少々背が高い。ノーマッドはフードを被った顔を上げて、努めて穏やかな口調で話した。
「本当?」
「ああ本当だ。でも、猫は美味い」
「やっぱりケダモノじゃない馬鹿ぁー!」
ミアはノエルを左手で抱えたまま右手を振り上げ、ノーマッドの頬目掛けて振り下ろした。ぱちん、と小さな音がしてノーマッドのフードが捲れた。黒い短髪と鋭い目つきと鼻筋の通った顔が露わになった。
ミアは驚いたように目を見開いてノーマッドの顔をじっくりと見つめていた。
「俺の顔に、なにかついてるのか?」
食い入るように見つめられ、ノーマッドは怪訝に思った。頬を桜色に染めたミアはノーマッドの頬からおずおずと右手を引っ込めて、再び両手でノエルを抱きしめた。
「あなた、猫さんじゃなくて狼さんだったのね。がうがう」
「意味がわからない。どういうことだ?」
「それは内緒。ねえあなた、缶詰が欲しいんでしょ? いっぱいあるから持ってっていいわよ」
「そいつは……」
「この子はダメ!」
ミアが体を捻ってノエルを庇い、威嚇するように睨みつけてくる。
「チッ、わかったよ。それならそいつは諦める。代わりに缶詰はありがたく頂戴する」
ノーマッドは背負っていたリュックサックを降ろしてせっせと缶詰を入れ始めた。床に散らばっているのは果物の缶詰やツナ缶。牛の大和煮缶やパンの缶詰まである。表情にこそ出さなかったが内心ウキウキだった。そんな彼の傍を、ミアがうろうろと観察するように歩き回っている。ノーマッドは彼女の妙な態度が気になった。
「なんだ? 目障りなんだが」
「ひどーい! ひどいわ狼さん! 女の子にはもっと優しくしなきゃダメなのよ!」
頬を膨らませて抗議するミアに、ノーマッドは再び舌打ちをした。
「そんなに見られると気が散るんだ」
「うんうん。こんな可愛い女の子に見つめられたらドキドキしちゃうわよね!」
ミアはノエルを床に降ろし、長い髪を手で払った。長い銀色の髪は扇のように広がり、かすかな甘い香りがふわりと香った。幼い少女が精いっぱいの色気を振りまくも、ノーマッドは彼女に見向きもせず、缶詰を選別する手を止めなかった。
「馬鹿にしているのか?」
「どういう意味よ?」
びきり、とミアの綺麗な額に青筋が浮かんだ。彼女は自分で自分を可愛いと言ったことに対し、ノーマッドが異を唱えているように感じられたのだろう。目元をひくつかせながらノーマッドを睨みつけている。
「チッ。なんでもいいが邪魔しないでくれ。必要なだけ缶詰を持ったらすぐに出ていくから」
「缶詰、全部欲しい?」
ミアの言葉に、せっせと缶詰を選んでいた手が止まった。彼は、全部を持っていくつもりはなかった。そんなことをすればこの小さな少女はあっという間に飢え死にしてしまうだろう。その結果襲い来る罪悪感を背負うつもりはノーマッドにはなかった。持っていっても半分。そのくらいあれば、次の食料を見つけるまでは持つだろうと思っていたのだ。
「なんだと? そんなことしたら、お前が飢え死にするぞ」
「私は平気……でも……」
「でも?」
少なくともミアは、自殺志願者には見えない。猫のために笑ったり怒ったり、死のうとしているにしてはあまりにも活力が漲っている。
「代わりにお願いがあるんだけど……」、とミアは足をすり合わせながら呟いた。
「お願いだと?」
「うん……。私を、外へ連れてって」
「なぜだ。外よりここのほうがずっと安全だぞ?」
とはいうものの、ノーマッドにもこの奇妙な部屋に閉じこもる生活は嫌だという気持ちはわかっていた。それでも彼女を連れて行こうとは思わない。自分一人でも生きるのがやっとのこの世界で、少女を連れて生活するなどあまりに無謀だ。
「安全ってなに? 外はそんなに危ないの? 私は産まれてからずっとここにいるから、外がどんな世界なのか本の中でしか知らないの」
「それは可哀そうに。でも俺には同情することしかできない」
ノーマッドの口調は冷たい。何を言われても、ミアを連れ出す気はなかった。
「ねえ知ってる? ある偉大な哲学者はこんな言葉を残したの」
ミアは言葉を区切り、一度大きく息を吸った。彼女の澄んだ瞳がまっすぐノーマッドを射抜く。その瞬間ノーマッドには、彼女が次に何を言おうとしているのかわかった。わかった、というよりも、感じのだ。ミアの満月のように美しい瞳から、灼熱の太陽のような想いが伝わってきた。そして二人は、同時に口を開いた。
「「すべての人間は、生まれながらにして知らんことを欲す」」
ノーマッドは一字一句違う事なく重なり合った言葉に固まってしまった。彼女が言うことはわかっていたにも関わらず、それが現実のものとなった途端衝撃を感じざるを得ない。唖然とするノーマッドに向かって、ミアは朗らかに微笑んだ。
「ねえ狼さん。あなたのお名前はなんていうの?」
鈴を転がしたような声が鼓膜を震わせる。自然と、口が開いた。
「ノーマッド…………ノーマッド・ワーカーだ」
「そうノーマッド。これからよろしくね!」
「にゃああん!」
ノーマッドが答え、ミアが微笑み、ノエルが鳴いた。