零と一
「ちなみに俺とどっちが」
「同じだよ。彼の体は全て君と同じ。ねえ、この話やめようよ」
食い気味に返事をした衣舞はうんざりしたように自分の眉間を人差し指で叩いていた。
やがてインストール完了の文章がパソコンに表示され、衣舞はノーマッドの左耳の裏から配線を抜いた。そして皮膚と同じ素材でできたカバーを端子の部分に嵌めた。表面が皮膚に馴染み、はた目からは全く分からなくなる。
「後は、パソコンを短距離無線接続で繋いでシステムを起動すれば、彼は動き出すよ。一度動き出したら自分で考えて行動する。正真正銘もう一人の伊佐武君になる。ううん違うね、自分と同じ存在を認識できない、ノーマッド・ワーカーという人物ができる」
「記憶を削られて、自分が知らない知識を植え付けられた俺だろう」
「屁理屈言わないでよ。それじゃあ起動するよ! ……え!?」
衣舞がパソコンからノーマッドを起動しようとしたその時、突然地下研究所の照明が白から赤へと変わった。周囲で兵器の開発をしていた研究員達も、作業の手を止めどよめいている。天井に取り付けられたスピーカーから短いノイズが聞こえた。放送のスイッチが入ったのだ。
『非常事態宣言発令。地下二階、ミュータント実験エリアでミュータントの脱走を確認。各研究員は避難マニュアルに従って地上へ避難してください。繰り返します。』
「ミュータントが脱走!? 管理は完ぺきだったはずなのに……まさか変異型が擬態していたの!?」
無機質な機械音声の避難誘導を聞きながら、衣舞は狼狽えていた。
「衣舞」
伊佐武が名前を呼ぶと、彼女は不安げな瞳を揺らしながら見つめ返してきた。
「伊佐武君。私たちも早く避難しましょう? ノーマッド君はひとまず置いて、事態が落ち着いてから起動すればいいわ」
「いや、お前は先に地上に避難しろ。俺はミュータントを駆除してくる」
不安げだった衣舞の表情が、途端に険しくなる。彼女は苛立った様子で伊佐武に近寄り、手を掴んできた。
「君はまだ自分が戦えると思ってるの!? いくら何でも無謀すぎるよ!」
「無謀か無謀じゃないかは俺が決める」
「いいえ、決めるのは医者である私! いい? あなたはもう走れないの。これがミュータントとの戦闘においてどれほど不利な事かわからないわけないでしょう?」
衣舞の言っていることは正論だった。そもそも伊佐武は右手の義手の時点でかなり強いハンデを背負っている。関節の隙間に小石でも挟まればそれだけで動かなくなる。
突然異常が起きて自分の意思とは違う動きをしてしまうこともある。感覚がない右手は痛みを感じないからこそ異常を察知しにくい。これまでは突然そんな事態に陥っても逃げることができた。今は違う。逃げるための足を失った伊佐武は、ひとたび隙を見せればそれまでなのだ。
「死ぬかもしれないから。なんて、そんなことは百も承知だ」
「ならどうして行くの!? あなたはもう戦わなくていい! 戦えるような体じゃない! そのためにノーマッド君を造ったんでしょう!?」
「違う! そいつはより効率的にミュータントを狩るための道具だ! 俺自身が戦わない理由にはならない! 俺は、ミュータントを殺さなくちゃならない。今更その使命を諦めるには、俺は奴らには奪われすぎた。手も、足も。幼馴染も、家族も、親友も! そしてついに世界も奪われた! もうこれ以上、なにも奪わせない」
「次に奪われるのは君の命なんだよ? そんなの私、嫌だよ! 復讐のために戦うなんて馬鹿げてる!」
「復讐じゃない」
「え?」
伊佐武は衣舞に向き直り、歩み寄った。左手で顎を掴み、視線を上げさせた。
「お前を、奪われたくないんだ」
彼の生身の左手は震えていた。それは死ぬかもしれない事実への恐怖だった。これまで数々の戦場を潜り抜けてきた彼は、どんなに過酷な戦場に向かったとしても怯えることなど一切なかった。むしろより多くのミュータントと戦えことに喜びさえ感じていた。
今の彼は、最愛の人を、衣舞を奪われないために戦おうとしている。彼女と二度と会えなくなるかもしれない恐怖。それは自身の死よりもずっと大きな物だった。
だから彼は戦わなければならないと思った。この地下研究所には、まともに銃を取り扱ったことがある人間は極少数だ。およそ七十人前後が暮らしているにも関わらず、射撃の心得がある者は、伊佐武と衣舞を含めても十人に満たない。つまり、他人は当てにならないということだ。
「伊佐武君……」
伊佐武の気持ちが伝わったのか、衣舞は微かに頬を紅潮させていた。
「ミュータント共に俺たちの家を奪わせたりしない。俺たちはここでしか生きていけない。だから衣舞。お前は地上で待っててくれ」
伊佐武はそう言い残し、衣舞を置いて間仕切りの外へ出た。すでに他の研究員は逃げ出したのか、兵器開発室は静かだ。彼が開け放された出口の前に到着した頃、背後から「伊佐武君!」と、衣舞の叫び声が聞こえ、立ち止まった。
「絶対に生きて帰ってきて! 私、待ってるから!」
伊佐武は衣舞に背を向けたまま手を振り、非常事態を知らせる赤い照明に照らされた廊下へと出ていった。兵器開発室から地下二階へ向かうには、いちど居住区画を通り抜けて中央十字路へ出なければならない。十字路には搬出入用の大型エレベーターと地下二階と三階へそれぞれ移動するエレベーター。そして地上に出るための梯子へ続く通路がある。
ひとまず十字路を目指すべく、伊佐武は左手で壁を支えにしながら早足で向かう。
赤い照明に照らされた通路には既に人気はない。左右に壁に数字が書かれたプレートが掲げられている扉が等間隔で並んでいる。
兵器開発室から繋がっている居住区画にたどり着いたのだ。扉の中からは人の気配がする。恐らく脱出前に貴重品を運び出そうとしている人がまだ残っているのだろう。
伊佐武も、一度自分の部屋に戻った。そして愛銃である黒いベオウルフを机の引き出しから取り出し、さらに机の下に置いてあった黒いリュックサックを背負った。予備の弾丸が入っているリュックサックは、長らく戦場から離れていた伊佐武の肩にずっしりとのしかかってくる。再び通路に出て十字路を目指した。
十字路に到着した。正面に搬出入用の大型エレベーターとその前に大勢の人々が見えた。非常事態の脱出は梯子で一人ずつ登るのではなく、一度に大勢を地上に運び出せるこのエレベーターを使うのだ。伊佐武は脱出する人々を尻目に、十字路の左へ足を運んだ。左の通路の奥にはカードリーダー付きの小型エレベーターがある。
このエレベーターが地下一階から地下三階までを繋いでいる。伊佐武はシャツの胸ポケットからカードを取り出しエレベーターを開いた。中に入り扉の横に取り付けられた地下二階のボタンを押した。軽い浮遊感が始まったその時、天井から物音がして、箱が揺れた。
「なんだ?」
伊佐武は怪訝に思ったが、揺れはすぐに治まり、浮遊感が終わった。エレベーターの扉が開くと、そこは無残に荒れ果てたテストルーム監視室だった。左側にあるはずのマジックミラーが粉々に割れ、床には破片が散らばっている。天井の板が剥がれそこから剥き出しになった配線が断線しており、火花を散らしていた。マジックミラーに向かって整列していたはずの机やパソコンも、床になぎ倒され、しかも巨大な何かがぶつかったような凹みがあった。
「うぅ……」
声が聞えて伊佐武が顔を向けると、倒れた机の後ろに人影が見えた。左足を引きずりながら近寄ると、そこには頭から血を流している臥牙丸が床に倒れていた。
「臥牙丸さん大丈夫か!?」
伊佐武が臥牙丸の傍でしゃがんで抱き起すも、彼はぐったりとしている。抱き起した彼の体は指先がひりつくほど高温になっていた。
「伊佐武……か」
「しっかりしろ! なにがあったんだ!」
「兵器のテスト中に、ミュータントが突然変異したんじゃ」
「どうして逃げなかった!」
「テストルームでミンチになった研究員と一緒に来たからのぉ、地下三階の自分のデスクにカードキーを忘れちまったんじゃよ。まったく、情けない話じゃ」
臥牙丸は自嘲気味に呟いた。彼は頭部以外に外傷は無いようだ。伊佐武はすぐに治療を受ければ助かるだろうと思った。
「泣き言は後にしろ。すぐに地上に連れていく。全身機械のあんたならすぐ復活するだろ」
「よせ。儂はもう助からん。この体の冷却機能が破損しちまったんじゃよ」
「なんとかなる。大丈夫だ」
伊佐武はそれが単なる弱音だと思い、臥牙丸の腕を肩に賭けて立ち上がろうとした。だが臥牙丸はその手を突っぱね、再び床に倒れたのだった。
「よせ! 冷却機能がオシャカになった以上、儂は排熱できないスーパーコンピューターみたいなものじゃ。あと数分で儂の体は百度近くまで上昇し、脳が沸騰する。もう終わりなんじゃ」
事実、臥牙丸から発せられる熱は時間が経つにつれて上昇していた。先ほどまでは指がひりつく程度だったのが、今はもう火傷しそうなまでに熱い。
臥牙丸の体に搭載された数千個の駆動モーターやコンピューター。さらに生命維持装置が、彼の命を燃やそうと熱を発している。もはや手の施しようが無い状態だった。
「臥牙丸さん。なら俺はどうすればいい?」
「殺してくれ。このままじわじわと灼熱の痛みを抱えて死ぬのなんてごめんじゃよ」
「……わかった」
伊佐武は臥牙丸の頭に銃を突き付けた。悩めばその分、彼が苦しむとわかったからだ。伊佐武は撃鉄を引き下ろした。
「約束しろ伊佐武。儂の代わりに必ずこの世界からミュータントを絶滅させろ! どんな手段でもいい! 必ず奴らを滅ぼすんじゃ! お前と儂は同じ、復讐の鬼なのだから!」
「俺は……いや、なんでもない。任せてくれ。あんたとの約束、必ず果たしてみせる」
赤い非常灯に照らされた室内が、一瞬だけ白く染まった。伊佐武は頭部が無くなった臥牙丸の死体を見下ろした。
「ごめん、臥牙丸さん……俺はもう、鬼じゃいられないかもしれない」
伊佐武は、臥牙丸の死体の傍に銀色のベオウルフを見つけ、拾った。新品同様のその銃は、弾が一発だけ減っている。どうやら臥牙丸はミュータントと応戦したようだ。
伊佐武はマジックミラーを見た。割れたガラスの向こう側に見える白い壁には、研究員の血がべっとりと壁に付着している。
「あっちから窓を破ってこっちに入ってきたのか。その後は……上? まずい! 衣舞!!」
この時臥牙丸さんが忘れたカードキーが後にノーマッドの手に渡る……というわけですね
ノーマッドが臥牙丸さんを覚えていなかったのは、マンハッタン島以降の記憶がないからです
伊佐武君が臥牙丸とであったのはその後ですからね
こういう複雑な作品って、なろうだとどう受け止められるんでしょうね?
そもそもここまでになるともはやラノベじゃない気がするんですよね
序盤から全力で伏線を仕掛けにいっているのでさらさらっと読み流せる感じじゃないですし
むしろ二回読むことを推奨するレベルです
読みやすい文章が書ければそれも苦ではないと思うんですが……残念ながらそこは私の技術不足でした……
高度な内容は書けるので、もうずっと昔から課題にしている文章力を鍛えなければ……
文章が硬いと言うかエンタメ性が少ないのはミステリーばかり読んでいた弊害かもしれませんね
ミステリーこそ本当にすべてが計算された言葉で更生されているので、余計な解釈を生みかねない言葉は削除される傾向にありますし……だからこそ、美しいと思いますけどね
それとこういった物の配置が伏線になるパターンは映像作品の方が得意だと思います
いまからシナリオライターを目指そうかなぁ……