百 ー 1
ノーマッドは義手をケーブルに向け、握っていた拳を開いた。右腕の動きに連動するように左手で肘の辺りを掴み、親指で関節の内側にある黒いスイッチを押しこんだ。すると義手の手首から先が白煙を噴き出して射出され、宙ぶらりんのケーブルに伸びていく。もう一度スイッチを押すと、しゅるる、と音を立ててワイヤーが巻かれていった。
「ふっ!」
そのままワイヤーが巻き戻る勢いを利用して反対側の壁に向かって跳躍。距離にしておよそ三メートル。入り口に反してかなり大型の昇降路の暗闇に身を投げる。ターザンロープさながらにケーブルをつかって飛び移り、奈落の底へと落下しないように壁に取り付けられた金具を掴んだ。
「「「ウウウウウウウ!!」」」
なおもノーマッドを追ってきた標準型ミュータントたちは、足元がなくなっているのもお構いなしに飛び込んできて、次々に奈落の底へ落下していく。その様は可愛らしい表現をするなら流氷からダイビングするペンギンだろう。
けれど昇降スペースの遥か下方から聞こえてくる重々しくも湿った音は、それがまぎれもなく投身自殺の類であることを知らしめてくる。
悍ましい音にも狼狽えることなく、こいつらがバカで助かった、などと思い安堵の息を漏らすノーマッド。しかし----。
「ヴフゥー……ヴオオオオオオオオオオ!」
安心するのはまだ速かった。変異型が通路の中央に残っている。他のミュータントが全て落ちた後、変異型は以上に発達した前足で床を二回蹴り、走り出した。四つ足で走るその姿はまさに闘牛。頭部は通常型と同じにもかかわらず、その姿はあまりにも力強い。
けれどノーマッドは慌てない。
彼は、ずっと昔にも、こうして壁を背に追い詰められたことがあったような気がしていた。
「いつだって死ぬ覚悟はできてる。でもここじゃない。そうだろ? 相棒」
ノーマッドは左手で金具を掴んだまま、義手を使って左腰の銃を掴んだ。ガンホルダーから抜かれた銃は、弾丸を撃ちだすというシンプルな機械にしてはあまりにごつく、大きい。
黒い狼のエンブレムが輝く銃身と熊の手のように大きな木製グリップが、その存在感を暗闇の中で示しだす。銃全体の半分を占める回転輪胴に空いた穴は八つ。それがこの銃の総弾数だ。銃器というより鈍器という方がしっくりくるその銃の銃身はおよそ十七インチ。口径は五十五を越えるだろう。
彼が自分の親指よりも太い撃鉄を引くと、回転輪胴が弾丸一つ分回転した。そうしている間にも変異型ミュータントが穴の手前に差し掛かり、大きく体を躍動させ、跳ねた。
「良い声で啼けよ----愛銃」
ノーマッドの鋼の人差し指が引き金を絞ると、銃身の仄暗い闇がかっと白く光り、爆音とともに六つの切れ込みが入った金色の弾丸が飛び出した。
弾丸は螺旋の軌跡を残し変異型ミュータントの眉間に吸い込まれるようにめり込んでいく。同時に弾頭に刻まれた八つの切れ込みが、タマスダレの花のように開いた。
いくつもの触手が複雑に絡み合った頭部を激しくかき回し、衝撃によって頭の三分の二を吹き飛ばす。跳躍した勢いも空中で相殺され、変異型は標準型と同じく奈落の底へと落ちていった。
ノーマッドは銃口を顔に寄せて大きく鼻で息を吸い込み硝煙の香りを楽しんだあと、いまだに立ち上っている煙を「ふっ」、と吹き消した。
愛銃をガンホルダーに戻し、壁に張り付いたままこの後どこへ向かうか考える。下に行けば、いくらエレベーターのピット内に閉じ込められているとはいえ、さっき落ちていったミュータント共と再び鉢合わせる可能性が高い。
上を目指せば恐らく廃墟になった病院内のどこかに出て、そのまま脱出できる。
「考えるまでもないな」
これ以上面倒に巻き込まれたくないと思ったノーマッドは迷わず上を目指すことにした。ところがその時どこかから「にゃおおおお!」という鳴き声が鼓膜を震わせた。
「……あー、クソ。どこだ? 下か? ……いや横か?」
ノーマッドがピット内の壁を見回すと、自分のすぐそばに大きなダンパーがあることに気がついた。今は全てのロックが解除されているためか、ダンパーは開いている。奥から「なああああおう! にゃああああおう!」、と絶叫に近い鳴き声にエコーがかかって聞こえてくる。
「うー……あー……ああもう、手ぶらで帰るのもなんだしな。弾はまだあるし、行ってみるとするか……」
壁伝いに移動して、ダンパーに体を滑り込ませた。ダンパーの奥にはやや狭いダクトが斜め下に向かって続いている。当然光はない。ノーマッドは義手のライトを点灯させた。ダクト内を中腰のまま歩いていると、下から光が漏れている場所があった。
猫も丁度この下にいるのか、鳴き声がはっきりと聞こえる。格子状の通風孔から下を覗くと、そこは水色の生地に桃色の水玉模様が描かれた絨毯が敷かれた子供部屋のような部屋だった。
「なぜ地下にこんな部屋があるんだ?」
部屋の中には象の形を模した幼児向けの滑り台や、木製の積み木。さらに熊や猫のぬいぐるみが寝転がっている。そんな子供らしい物と対照的に、ノーマッドから見て右奥の壁には洋式トイレと、びっしりと本が詰まった棚が置かれていた。本棚には、絵本や雑誌だけではなく大人でも読むのが難しそうな分厚い参考書らしき背表紙が散見された。、
「うにゃああ~!」
「ふふ、やっとつかまえた! ねえ、あなたはどこから来たの?」
猫の鳴き声と、少女の声が聞えた。本棚の反対側の壁際に淡い桃色のシーツが掛けられたベッドが置かれている。その上には銀髪の少女が壁に背を預けて腰かけており例の黒猫を抱いている。ノーマッドの位置からでは少女のつむじしか見えない。
(子供? まさか閉じ込められているのか?)
ノーマッドは考えた。あの猫は大事な食料だ。よって奪い取ってもいい。だが相手はどうもこの部屋に軟禁されているようだ。つまり、閉じ込めている人物が他にいるはずなのである。その人物が何者かわからない以上、猫一匹のためにリスクを犯すのは些か抵抗があった。そんなことを考えていると、銀髪の少女の腕から猫が飛び出して、ベッドの下に潜り込んだ。
「どうしたの?」
少女が声を掛けると、猫が何かを咥えてベッドの下からでてきた。猫が重そうに引きずるそれは大きな横長の段ボール箱だった。
「それで遊びたいの?」、と少女が尋ねた。
「なぁあおん!」、と黒猫が鳴く。
「わかったわ。じゃあ、中身を出しちゃいましょう」
少女がおもむろに開けた段ボールの中身を見て、ノーマッドは息を飲んだ。箱の中にはびっしりと、プルタブ付きの丸い物、缶詰が入っていたのだ。
少女は最初こそ一つ一つ丁寧に取り出していたが、半分ほど出し終わると、段ボール箱の角を掴んでひっくり返し、「ああもうめんどくさいわ! とりゃあ!」と言って豪快に中身をぶちまけた。床の上に転がった色とりどりの缶詰を目の前にして、ノーマッドは覚悟を決めた。
「さぁ猫ちゃん! 遊びましょう!」
少女の楽し気な声が聞こえる。
「にゃおお~!」
猫の返事らしき鳴き声も聞こえる。
「どうしたの? 段ボール、空いたのよ?」
いまだ、とノーマッドは思った。
----ガシャアアアアアアアン!
「きゃあああああああああ!?」
ノーマッドが蹴破った通風孔の音と、少女の甲高い悲鳴が重なった。天井の埃と共に落下したノーマッドは、絨毯の上に片膝をつきながら顔を上げた。
自然と、少女の金色の瞳と視線が重なり合う。見開いた瞳を囲む長い睫毛は震えており、さらに薔薇のように赤い唇は小さく開いたまま固まっている。
形の良い小さな鼻と相まって、まるで一流の造形師が作った人形のように可愛らしい顔立ちをしていた。腰の上まで伸ばした銀色の髪は繻子のきらめきを纏いる。未発達な体から溢れる不安を表すかのように、紅葉のように小さく雪のように真っ白な手を胸の前で握っている。
あどけなさの残る顔立ちからして、背の低い女性というよりも、まだ成長途中の少女だ。
彼女が着ている体の前後を覆うだけの白い患者服は、本来体の側面で結ぶはずの紐を結んでいないため、少女が一歩後ずさるたびに深く入ったスリットから未発達な胸や細い足が見え隠れしている。
ノーマッドは片膝をついたまま少女の観察を終えて、彼女の背後にある銀色の扉を見つめた。