百 ー 1
「照明に冷房だと? 電気が生きているのか?」
発電所からの電気を含むインフラの供給が止まったのは国家解体からおよそ半年。自家発電設備を備えた所であっても、数年と持たずに燃料が尽きている。にもかかわらずこの部屋は、明かりもついているし空調まで効いている。仮に大型の太陽光発電が生きているとしても、この部屋だけが特別扱いだということに変わりはない。この先に重要な何かがあるのか。ノーマッドの胸にそこはかとない緊張感が込み上げてきた。
彼は扉の下半分をまたいで部屋の中に入った。室内の床は灰色のカーペットタイルが敷き詰められている。左右の壁には青いチューブファイルが所狭しと並んだ棚があり、正面の壁には男女の体を重ねた人体図。ダ・ヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図が掛けられている。
部屋の広さは精々八畳程度。壁も床も傷んでいないいたって普通の部屋だ。普通どころが小綺麗でさえある。この、滅亡した世界で、だ。
ノーマッドは義手の甲で壁を叩いた。どこを叩いても甲高い金属質な音がする。次に、床に張り付けられたタイルカーペットを引きはがした。するとタイルカーペット用の金属板が顔を覗かせた。だがノーマッドはその床さえも剥ぎ取り、床下へ頭を突っ込んだ。
高さがニ十センチ程度しかない床下は微かにカビの匂いがした。義手のライトで照らすと、部屋の中央部分に取っ手のようなものが見えた。
すぐさま起き上がったノーマッドは次々と床板を引きはがした。すると一辺が一メートルほどの点検口のようなものが現れたのだった。ノーマッドが取っ手を引くと、点検口は金属が擦れ合う音を立てて開き、正方形の穴がぽっかりと口を開けていた。黒いコンクリートで囲まれた穴には鉛色の梯子が地下へと伸びている。
ノーマッドは迷った。この先には間違いなく重要ななにかがある。だが今の彼にとって一番重要な物は食料だ。高価な装飾品も、歴史的大発見が記されたノートも、今の世界において何の役にも立たない。この世界で重要な物はたったの三つ。
飢えをしのぐ為の食料。安全な寝床。最後に、健康な体だ。
特に最後の一つはとても重要だ。このために先の二つがあると言っても過言ではない。
病院の現状を見ればわかる通り、ここにはもう医者はいない。手に負えない怪我や病気を患えば、治療するよりもいかに楽な死に方ができるかを考えるような世界だ。この地下が安全である保証が無い以上、安易に探索するのは憚られる。
もしもこの先が袋小路になっており後方から大量のミュータントに襲われでもしたら、先ほどミュータントを瞬殺したノーマッドと言えども無事では済まないだろう。
リスクを犯してまで先へ進む価値があるのかどうか、彼は冷静に考えていた。そんな彼の背後から、黒い影が猛スピードで近づいてきた。
「なんだ⁉」
気配に気づき身構えたノーマッドの足元をすり抜け。黒い影は点検口の中に飛び込んだ。直後、「にゃぁおん!」という鳴き声が穴の中から聞こえた。
「…………とりあえず食料はあるみたいだな…………」
そういって彼は、梯子を降りた。鉄板入りのブーツが十回音を鳴らして底に足が付く。三メートルほど降りてきたことになる。地下には細長い廊下が続いており、梯子と同じく四方を黒いコンクリートが取り囲んでいる。
天井に照明はないが、足元にオレンジ色の細長い照明が点々と続いており、上の部屋と比べると薄暗いものの歩く分には不便しなさそうだ。それでも手を広げれば両端の壁に指先が振れそうな廊下は狭く、独特の圧迫感がある。
「にゃおお~!」
通路の奥から猫の鳴き声が聞こえた。奥を見ると、十メートルほど進んだところに銀色の扉が鎮座している。黒猫は先へ進みたいのか、爪を立てて扉を引っ掻いていた。
「ふっ。お前の命運もここまでだな。だがもしも素直になったら許してやらんこともないが……」
撫でさせてくれたら、という言葉を使わない辺り、ノーマッドもまた素直ではなかった。一歩踏み出すたびに、足音が通路に反響した。いよいよ黒猫まであと二メートルというところで、ノーマッドは中腰になり左手を伸ばした。ゾンビさながらに足を擦りながら慎重に歩を進める。
猫はいまだ扉を引っ掻き続けており、ノーマッドには気づいていない様子だ。微かに震える指先が、丸みを帯びた黒い短毛に包まれた後頭部に触れようとしたその瞬間。
----パシュゥゥ! と空気が漏れるような音がして、自動扉が左右に開いた。
「なおおおおおおおおおおおおおおお!」
猫はノーマッドに目もくれず、颯爽とその先へ走り去ってしまった。
「……馬鹿な猫だ。最後のチャンスを棒に振るとはな。……チッ!」
ノーマッドは虚しく伸ばした左手を握りしめ、震えた。そんな彼を、扉の向こうから白い光が照らしている。
「なんだここは。いままでとずいぶん様子が違うな」
それまでの黒いコンクリートの壁と違い、左右の壁と天井は汚れ一つない白い金属の鉄板が覆っている。さらに天井にはLED照明が等間隔で並んでおり、直視すれば眩いほどの白い光が通路を照らしている。床は乳白色のリノリウムだ。左右の壁の幅は優に四メートルはある。正面の扉までせいぜい十メートル程なので、廊下というより長方形の広場に近い。中央で十字路になっており、正面に見える扉との中間には、左右の壁に曲がり角が見える。
ノーマッドは左手をマントの下に入れて再び進み始めた。十字路に差し掛かり左を見ると、壁いっぱいに広がる巨大な隔離壁が天井から降りてきている。灰色の隔離壁の向こうからは大量の何かが蠢く音が聞えた。
「まさかこの壁の向こうにいるのは、ミュータントか?」
音からして一匹や二匹ではない。壁の向こうにいるであろう大量のミュータントを想像し、ノーマッドはぶるりと震えた。
後ろを振り向いて隔離壁の逆側を見ると、通路の先に扉が見えた。扉の右横についた上下の矢印が描かれたボタンからしてエレベーターのようだ。エレベーターの扉は壁いっぱいにまで広がっている。
「搬出入用か? とりあえず今はどうでもいいな」
左右の通路はひとまず無視することにして、先に入り口からまっすぐ進んだところにある扉を調べることにした。こちらは先ほどコンクリートの通路にあった銀色の両扉と同じ形をしている。だが近づいても開かない。よくみると、扉の右端に赤いランプを点灯させたカードリーダーがついている。
「食料はどこへいったんだ?」
周囲を見ると、扉の傍の壁に黒く変色した血の跡があった。その下にはガラリ窓が外され、小さな四角い穴が空いていた。穴から風が吹きマントの裾がはためいた。どうやらこれは通風孔のようだ。
通風孔の奥からは物音が聞えてくる。どうやら猫はここから奥へ行ってしまったようだ。
「ということは、この扉を何とかしないと捕まえられないってことか。さて、と」
ノーマッドは義手の肘から刃を出し、扉に向かって振るった。地上の扉と同様に鮮やかな切り口で扉は上下に二分された。その瞬間、通路の白いLED照明が物々しい赤色に変わり、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
「なんだ?」
『非常事態宣言発令。レベルワン職員エリアに侵入者を確認。全ての扉をアンロックします。職員は非常事態マニュアルに従って速やかに脱出してください。繰り返します。』
「アンロックだと⁉ まずい!」
叫ぶや否や、先ほど通り過ぎた十字路の左の通路を塞いでいた隔離壁が開き始めた。同時にミュータント達の耳を覆いたくなるような呻き声が通路に響く。
「チッ! なんてこった!」
ノーマッドは切り開いた扉の奥へ逃げようとした。だが半分残った扉を乗り越えようと手をかけたところで思いとどまった。扉の向こうは床も天井もない、真っ暗な空間が広がっている。さらに絶望的な事に、ノーマッドの視線の先には千切れたケーブルがぶら下がっていた。
「ここもエレベータ―だったのか⁉ 箱は、落ちてるってことかよ⁉」
「「「「ウウウウウウゥゥゥアアアアア!」」」
背中を叩くような声に振り向くと、通路一杯に広がったミュータントたちが迫ってくるのが見えた。先ほど倒した標準型ミュータントが多数。だがその中に紛れて巨大な両腕に黒く鋭い三本の爪を生やした変異型ミュータントの姿も見える。
頭や体を構成しているのは標準型と同じ細い触手のようだが、腕と足だけは分厚い筋肉で覆われている。変異型は獣じみた逆関節を持つ後足と、ひときわ巨大な爪が生えた前足で、標準型の後方から牛のように悠然と向かって来ている。
あの一体が相手ならまだしも、変異型の道を切り開く歩兵の如く多数の標準型が周りを囲んでいる。その数ざっと三十のミュータントが通路一杯にまで広がりながら迫ってくる。
「あんなの相手にできるかよクソッタレ!」