百 ー 4
【百 ー 4】
この『レイン・デマンド計画』と題されたノートは、九割がた専門的な化学記号などが羅列された研究記録になっており、ノーマッドではほとんど読み解くことができなかった。だが化学記号の合間合間にこの記録を書いた者のメモが残されている。
文章というより走り書きであるその言葉を繋ぎ合わせれば、なにかがわかるかもしれない。そこでノーマッドは、意味不明な文字列の中から理解できる言葉を拾い上げる作業を始めた。
最初のページから一行ずつ指でなぞりながら読んでいく。
「イニシャル……、被検体……、コードネームM……。チッ……思ったよりしんどいぞこれは!」
三十分ほど難解で細かい文字と格闘するも、暗号の解読でもしているような頭脳労働に、ノーマッドは眩暈がし始めた。だが断片的なメモから、研究の過程で人間に対する特効薬の製造からミュータントを死滅させるための実験に移り変わっていることがわかった。そして恐らく、その結果産まれたのがミアだ。
さきほど突然死んだミュータントは、彼女の血液に触れたため死んだのだと察した。
「お前は、何者なんだ?」
五ページ程まで読み進めたところで一度手を止め、隣でリュックサックを枕にして眠っているミアを見つめた。
ノーマッドのマントに身を包んで眠っている彼女は、規則正しく肩を上下させている。
「なおぉ……」
ノエルが寂しそうに鳴いた。そして胡坐をかいたノーマッドの膝に前足を乗せてきた。
「心配するなノエル。ミアは生きてる」
「なあぁ……」
ノーマッドが穏やかに話しかけるも、ノエルの元気は無いままだ。猫の機嫌はよくわからないな、と思ったノーマッドはノエルの顎を撫でてやった。ようやく念願が叶ったノーマッドは、読みかけのノートを閉じ、さらにノエルを撫で繰り回した。いっそ膝の上に乗せようと思い、前足の付けのを掴んで持ち上げた。
さらけ出されたノエルのお腹を見て、「お前、やっぱり雌だったんだな」と言った瞬間、ノエルの後ろ足が眼球に押し当てられた。
「にゃあん!」
「おほお、おぉぉ……目が……」
眼球に鋭い痛みを感じてノエルを手放したノーマッドは、目を抑えて呻いた。そんな彼の隣で、ミアが目をこすりながら起き上がった。
「んー、ノーマッド? どうしたの? 大丈夫?」
「少し、デリカシーについて学んでいたところだ。お前こそもう平気なのか?」
「もう大丈夫。さっきはちょっと、驚いただけだから」
ミアの顔色はすっかり良くなり、本当に元気になったようだ。彼女はノーマッドの膝の上に乗っているノートを見て、指さした。
「なあに、そのノート」
「なんでもない。それよりはやくここを出よう。焼却場の煙突から外へ出られるはずだ」
ノーマッドはそそくさとノートをリュックサックの中に閉まった。これはミアの正体に関わる資料だ。それが彼女に、どんな精神的負担をかけるかわからない。少なくとも、一度自分の目で内容を確認してから伝えるべきだと彼は判断したのだった。
ノーマッドはリュックサックを背負って立ち上がり、焼却場管理室の扉を開いた。室内には、吐き気を催すような濃い血の臭いが充満している。だがそれだけではない。レモンのような酸っぱい臭いもする。ライトで室内を照らすと、さきほど変異型ミュータントの死体が転がっていた場所に、白っぽい肉の塊が落ちていた。
肉の塊は気泡を出して、徐々に溶けているようだ。それがミアの血によって死んだミュータントの変わり果てた姿だと言うことは、すぐにわかった。一瞬、自分は大丈夫なのかとノーマッドは不安に感じたが、あれほど大量の血を浴びて今も特に異変がないことから、ミアの血はミュータントだけに作用するものなのだと判断した。
真っ暗な焼却場管理室に入り、粘ついた液体で汚れた床を踏みつけながら奥へと進む。後ろからはミアとノエルの小さな足音がついてくる。
「ミュータントがこんな風になるなんてな……ん?」
しげしげと観察していると、ミュータントの死骸の中に茶色の物体が見えた。
手を突っ込む勇気も出ず見下ろすと、それは赤錆の浮いたドックタグ。もはや文字を確認することはできないほど劣化が進んでいる。
「なんでこんなものがここに……? それにこれって、俺たちの……」
「ぎゃあ! なんか踏んじゃったわ! キモい!」
騒々しいミアの声に振り返り、ノーマッドは思わず苦笑してしまった。
「ふっ、半分くらいお前のだろう」
「とてもデリカシーを学んだとは思えない発言ね。じゃあ聞くけど、ノーマッドは自分が吐いたゲロを踏んづけても平気なの?」
そう言われると平気なはずがないな、とノーマッドは思った。
「俺が悪かった。おんぶしてやろうか?」
「急に優しくなっちゃってどうしたのノーマッド! ふふん、さてはようやく私の魅力に気づいたのね! なら一つだけ言わせてもらうけど、私はおんぶより肩車の方がいいわ!」
「やっぱりやめとこう。歩け」
「ええー! なんでそんなこと言うのよぉー! お願いだから肩車してー!」
「お願いすればなんでもやってくれると思ったら大間違いだ」
抗議のつもりなのか両手を振り回して背中を叩いてくるミアを無視して、ノーマッドは金属製の扉を開けて焼却場へ入った。焼却場と焼却場管理室を隔てる硝子が割れているため、こちらも酷い匂いが漂っている。
床は油っぽい汚れが多く、歩くと靴の裏が浮いているような奇妙な踏み心地だった。部屋の中央に鎮座している焼却炉に近づくにつれて、焦げ臭い匂いが鼻につく。焼却炉の中には炭の塊があったため、ノーマッドは蹴り崩した。
炭を崩し終わり、焼却炉の中に体を滑り込ませ、ライトで上を照らすと、二メートル程で斜めの傾いている天井が見えた。どうやら煙突はそこまでで、後は斜め上に伸びる排煙ダクトに繋がっているようだ。垂直の壁を登らなくてすみそうだ、と思いノーマッド内心ほっとした。
「ミア、ノエルを抱えて入ってこい」
ノーマッドの指示に従って、ミアがノエルを抱きかかえて焼却炉に入ってきた。さらにノーマッドが、左腕をミアの脇の下から背中に回した。そして右腕は、頭上の縁に向ける。
「おんぶでも肩車でもなくて、抱っこになっちゃったわね。でもいつか肩車してもらうわよ」
「舌噛むから黙ってろ」
「落とさないでね」
「大人しくしてたらな」
ノーマッドはミアをしっかりと体に密着させ、右肘の内側に付いているスイッチを押した。すると右手首から先が上に飛んでいき、煙突の縁を掴んだ。再びスイッチを押すと、手首から前腕にかけて伸びたワイヤーが巻き戻され、ノーマッドとミア、そしてノエルの身体がふわりと浮いた。右手だけで煙突の縁にぶら下がり、ミアとノエルを排煙ダクトに押し上げる。続いてノーマッドもよじ登った。




