百 ー 1
薄暗闇に包まれた廊下の奥から、またしても小石が転がる音が響いた。
「ふん。さっそく俺の食料になりに来たのか」
ノーマッドはマントの下から左手をだし、ごきり、と指を鳴らした。
だが暗闇に目を凝らすと、あきらかに猫とは違う影が蠢いている。その影は、亀裂が走るリノリウムの床の上をぺたぺたと湿っぽい音を響かせながら近づいてくる。やがて背後の食堂から差す光が届く範囲にその影が入った。
「ウ……ウウゥ……」
光に照らされて現れたのは、異形の化物。白いまだら模様が浮かんだ肉色の触手をいくつも束ねてねじり上げたような姿はかろうじて人の形に見えるが、人というにはあまりにも悍ましい。顔には目や口はなく、触手の丸みが作り出した凹凸があるだけだ。両腕も顔と同様、手のひらや指はなく、使い古された箒のようにボサボサになった触手が肩から生えているだけである。
それでも上半身にはまだ人の面影がある。だが腰から下はいくつもの細い触手が集約され、こぶのついた木の幹のように太くなっている。床に触れている触手の先端が芋虫のように蠕動運動を繰り返して前進している。
歩いてきた、というよりも這いずってきた化物の後ろには糸を引くほど粘性の強い液体で濡れており、光を反射してぬらぬらとてかっている。
「ミュータントか。しかも、肥満体型の標準型とは……この時代に羨ましいことだ」
ノーマッドは、心なしか残念そうな声色で呟いた。彼がつまらなそうな顔で視線を向ける中、小太りのミュータントはなおもずりずりと近づいて来る。
距離が三メートルほどにまで近づいた時、ミュータントの動きが止まった。
「ウ……ウウ……ウアアウゥ!」
呻きながら両腕で膨らんだ腹の部分を押さえ再び広げたその時、ミュータントの腹部がぐぱぁ! っと大きく裂けた。胸元から臍の辺りまで左右に開いた裂け目には、サメのように鋭く白い牙が剣山のように連なっている。その形状はまさに、「口」だった。
ミュータントの口から涎らしき粘液が飛び散り、糸を引いて床に落ちた。魚が腐ったような異臭が狭い廊下に立ち込める。
「臭い……」
あまりの匂いに不機嫌そうに呟くも、彼が冷静さを欠くことは無い。
自分の頭など余裕で収まりそうな巨大な口を目の当たりにしても、平然としている。
「アアアアアァ!」
ミュータントは先ほどまでのゆったりとした動きからは想像もできないほど俊敏な動きで床を蹴り、跳んだ。そのいままノーマッドに覆いかぶさるように体を広げたのだった。
ノーマッドはすぐさま右腕でマントを開いた。露わになった彼の体はウェアの上からでもわかるほどしなやかな筋肉に覆われている。けれど、右腕だけは違った。正確には右腕の肘から指先までが、左腰に下げた銃と同じ銀色の装甲で覆われた義手だったのだ。
ノーマッドは黒いゴムのような素材でできた指の関節を曲げ、拳を作った。
突き出た中手指節関節には棘のような突起がついている。彼は覆いかぶさるように襲ってきたミュータントに右手を突き出した。
胴体部分で大きく開いていた口の中に突き刺さった右手によって、ミュータントの身体はノーマッドの身体にまで到達できず、宙に浮いたまま全身の触手をばたつかせていた。
「ウゥ! ウゥゥ!」
「特殊戦闘用筋電義手の味はどうだ? 胸が詰まるくらい美味いだろう」
口の中に義手を突き立てられたミュータントは、びくん、と全身を震わせた。ミュータントの口から粘ついた液体が垂れてきて、ノーマッドの頬に落ちる。
彼は不快そうに顔を顰め、舌打ちをしながらミュータントの内部をまさぐり、そして脈打つ拳大の塊を掴んだ。
「ウウウウウオオオオオオ!」
掴んだ瞬間、ミュータントの身体を構成していた触手が広がり、暴れだした。ミュータントの必死の抵抗にも、ノーマッドは動じることなく掴んだ手を緩めない。
「ふん!」
洋ナシを握り潰した時のような音がミュータントの内側から鳴った。すると広がっていた触手が一瞬だけビン!と伸び、やがて力なく垂れ下がった。さらに体の中央から順に水ぶくれのような物が全身に広がっていく。瞬間、ノーマッドは背筋に氷を押し当てられたような悪寒に襲われた。
「これは……まずい!」
ノーマッドが慌ててミュータントを放り投げると、次の瞬間、ミュータントの体が爆ぜた。周囲に肉片を飛び散らせながら、まるで手榴弾のように爆発した衝撃で、中央廊下に走っていた亀裂が大きくなる。亀裂はノーマッドの足元にまで伸び----。
「まずいまずいまずい! 逃げ――――」
彼が一歩後ずさりしたその時。亀裂の入った床が、自重に耐え切れず崩落した。床と共に下の階に落ちたノーマッドは、瓦礫の中から起き上がり、辺りを見回した。
「クソッタレ……。まさか自爆するタイプだとは。ああ、クソ、今日は厄日だ。義手は臭いし背中は痛いし、それに……ここはどこだ?」
周囲は真っ暗でなにも見えない。彼は義手の前腕部分のカバーを外した。カバーの下からタッチパネル式の画面が現れ、慣れた手つきで操作すると、手首の内側に搭載されていた小型のライトが点灯した。
義手に搭載されたライトで周囲を照らす。周囲には放置されたストレッチャーや車椅子。壁には右腕だけが異常に大きく描かれた子供の絵や、風化して茶ばんだ病院の案内が張られている。
なにより見ていて気分が悪いのは、そこら中に血の跡が残っていることだ。床にぶちまけられた血も、壁に残る手形も、すべて乾ききって沈着して、この景色に溶け込んでいる。
ここは滅びた日のままだ。片づける者はもう、誰もいない。
ノーマッドは遠すぎる過去から目を逸らし、先ほど見た地図を思い出す。そして、入院患者病棟の空きスペースを目指した。
少し進むとT字路に差し掛かった。左の通路の先には光が見える。義手のライトを消して光の方へ進んだ。ようやく目的地の扉が見えた。入院患者病棟は特に損壊が激しく、周囲の壁は崩壊して病室どころか外まで見えている。けれど奇妙なことに、目的の部屋だけは壁が崩壊しておらず、もとの状態を保っているようだ。一部屋だけ四角い箱のような状態を保っていることをノーマッドは不自然に感じた。
また、先ほど二階で見た倉庫の扉は酷く錆びついていたが、この部屋の扉は錆びていない。つまり非常用保存食倉庫よりも高価な素材が使われているということになる。その事実に、ノーマッドはますます怪訝な表情になった。
「妙だな。保存食よりも重要な物がこの中にあるのか?」
左手でドアノブの取っ手を掴むが、鍵がかかっていて開かない。義手をマントから出して。再びタッチパネルを操作した。そしてぐっと拳を握りこむと、肘から黒い刃が飛び出した。
滑らかな曲線を描く刃を振るうと、金属製の扉の上半分が豆腐のように切れ、通路の埃っぽい床に落ちた。そして室内から、天井に敷設されたLED照明の光と冷たい空気が流れてきた。