マイナス八~マイナス五
「……なんだ?」
葵は膝の上に指を組んだ手を置いて、もったいぶるような間を置いた。
「おい、なんだよ? 言葉って」
痺れを切らした伊佐武が問い詰めて、ようやく葵が語り始めた。
「アリストテレスの言葉なんだけど、すべての人間は生まれながらにして知らんことを欲す、てやつ。昔、孤児院に遊びに来てたお姉さんからもらった本に書いてあったんだ」
「……初めて聞いた。意味はまぁなんとなくわかる。けどどうしてそれを今言ったんだ?」
伊佐武には葵の考えていることがよくわからなかった。だが、考えることを欲す、という言葉は、葵にふさわしい言葉だと思った。
「僕さ、この言葉が好きなんだよね。人は常になにかを知りたがってる。それは数字だったり、言葉だったり、心だったり。むしろ知りたいから生きてるんだってことを、この言葉に気づかされたんだ。僕が産まれた理由。ミュータントが地球に現れた理由。そして、伊佐武と出会った理由。それらすべてに意味がある気がするんだ。それらすべてに腑に落ちる何かを求めているんだ。だから僕は、今日も明日も生きてく。もっといろんなことを知りたいから」
熱心に語られる言葉は、まるでそれが自分の生き様なのだと語っているような切実な想いが込められている。伊佐武は、親友の人生観を知る大事な場面だと思い真剣に聞いた。
「だからさ、教えて欲しいんだ伊佐武」
「え?」
突然、葵は伊佐武の顔に手を伸ばしてきた。シリコンカバー越しに、筋電義手が駆動するモーター音が聞えてくる。親友の少し冷たい指先が左頬に触れ、一瞬体が強張った。
さらに葵は、ベンチの上に足を乗せて四つん這いになりながら顔を近づけてきた。葵ももう十三歳だというのに、いまだに少女のように可愛らしい顔立ちだ。
癖の強い茶色の髪は今も昔も右目を隠し、唇は肉厚で潤っている。葵の顔が近づいてきて、伊佐武は顔が熱くなるのを感じた。そして思わず、目を閉じた。
「伊佐武。ねえ伊佐武、教えてよ」
「ま、待て、俺は確かにお前のことを親友だと思ってる! 家族と同じくらい大事だと思ってるし、死んだら墓石だって並べてもいいくらいだ! でも同じ墓に入るのはダメだろ!」
「なにを言ってるのさ。そんなの当たり前でしょ? それよりこれ。なんでこんなのずっとほっぺにつけてたの?」
「これ? ほっぺ?」
伊佐武が恐る恐る瞼を開くと、葵は元の位置に座りなおしていた。
そして、右手の人差し指と親指で桜の花びらを一枚、摘まんでいた。
「もしかして気づいてなかった? 桜の花びらがずーっと君のほっぺについてたんだよ」
「あ、ああ。そうか。なんだそうか……。全然気づかなかった」
伊佐武はがっくりと項垂れて、大きなため息をついた。
その時、葵が病院貸し出されている連絡用のスマホから陽気な音楽が流れた。
「おっとと、アラームか。もう休憩終わりだし、行くね。じゃあね伊佐武。また夜に食堂で」
「ああ……またな。え!?」
葵に顔を向けると、彼は伊佐武の頬に張り付いていた桜の花びらを口に放り込んだ。軽く咀嚼し、喉を鳴らして飲みこんだ。そして悪戯っぽく笑いながら、赤い綺麗な舌で唇を舐めた。一連の光景を目の当たりにした伊佐武は、唖然としていた。
「変な顔してどうしたのさ。じゃあ僕はもう行くからね。外で読書もいいけど、体が冷えるからほどほどにね。それじゃ!」
葵はそう言い残し、最後に爽やかな笑顔を見せつけてから病院の玄関へと歩いていった。
伊佐武はその後も悶々とした気持ちが収まらず、気持ちを静めようとして読書を再会したものの、内容が頭に全く入ってこない。
脳裏に浮かぶイメージは親友、御剣葵の可愛らしい顔ばかり。日が暮れたことにも気づかず、伊佐武はずっと頭から葵の顔を振り払おうとしていた。
伊佐武は凍えるような寒さでようやく我に返り、震えながら食堂へ向かったのだった。その日の夜、伊佐武は夜中に熱を出し、医師と看護師にこっぴどく叱られたのだった。
※ ※ ※
二か月後。季節は春から梅雨に変わり、じっとりと湿った空気が東京医療大学附属病院を満たしていた。空調の効いている入院患者の病室は快適な空気が流れていたが、食堂や談話スペースなどは節電のために空調が止められている。
伊佐武は汗でべたつく患者服に苛立ちながらも、決まって食堂で本を読むことにしていた。親友の葵が必死に働いていると言うのに、自分だけが空調の効いた快適な病室にいることに引け目を感じたからだ。それにこの時期に入ってから、食堂はめっきり人気が無くなり、人ごみが苦手な伊佐武にとって過ごしやすくなったのも理由の一つである。
今も、白いプラスチック製の長テーブルと背もたれがない丸い木の椅子が並んでいるだけの食堂には、伊佐武一人しかいない。本を読んでいる伊佐武の耳に、テレビから流れる暴動についてのニュースが入ってくる。彼は意識の片隅で、ここ最近の世界情勢を思い出した。
事の始まりは、まさに伊佐武と葵がナバホ族について話していた頃。
とあるNPO団体が、ミュータントの発生は、アメリカ関連諸国の軍事開発が原因ではないのかと言い始めた。無論、隕石に付着した寄生生物が原因なのでそんな事実はない。
だが、いつまでたっても撲滅できないどころか、日に日に被害者を増やしているミュータントに、保身を第一に考える各国の有権者たちもその騒ぎを利用して苛立ちを露わにした。さらに不運なことに、ロシアや中国などが大国アメリカの経済的牙城を崩すきっかけになると考え、噂を増長させるような情報拡散を行ったのだ。
その結果、アメリカが作り出した生物兵器が流出したと言う噂がまことしやかに巷に流れたのである。同時に日本もアメリカと共同開発していたという嫌疑をかけられ、石油等のエネルギー資源の輸入に大幅な制限を設けられるなどの経済的制裁を受けた。
そのため、今は日本各地でガソリンや電気代が異常な値上がりを起しているのである。
伊佐武は読み終わった本を閉じ、テーブルに置いて、部屋の隅に置かれた白いステンレス棚の上にあるテレビを眺めた。テレビにはどこかの国の町役場に火炎瓶を投げる市民の姿や、ガスマスクを付けた子供の姿が映っている。伊佐武はテレビに映っている光景が、実際この世界のどこかで起きていることだとはとても信じられなかった。
確かにミュータントの出現により、この世界は血なまぐさい事件が増えた。だが伊佐武は自分の目で死という概念を見たのは後にも先にも真莉愛だけだ。その時の記憶は三年経った今でも鮮明に覚えている。しかし既に過去の物となりつつあった。東京には真莉愛のことを想起させるものがないことや、葵との生活が、徐々に痛みを癒していったのだ。
だからこそ、テレビの向こうで燃え盛っている炎や、地面に横たわっている人の姿を見ても、それがどこか非現実的な世界の出来事に見えていたのだった。
そんな彼の隣の席に、葵がふらりとやってきて椅子に座った。
「ふぅ疲れた。なにか面白いテレビやってるの?」
葵は両手に持っていた、紙コップの片方を伊佐武の前に置いた。
「お疲れ。今は、特にやってないな。いつも通り暴動関連ばっかりだ」
素っ気なく答えた伊佐武は、葵の置いた紙コップを手に取り口に運んだ。
冷たいお茶を口に含むと、暑さと湿気でのぼせかけていた頭が冷えていく。
「ふぅーん。ところで伊佐武ってホモなの?」
その瞬間、伊佐武はマーライオンのようにお茶を吹き出だした。葵は眉一つ動かさず、冷静にテーブルの中央に置かれていた布巾を使って伊佐武が汚したテーブルを拭き始めた。
「な、な、何言ってんだお前⁉ そんなわけないだろうが!」
「そっか、よかった。最近の伊佐武、あからさまに僕と視線を合わせないし、無理やり合わせようとすると顔が赤くなるからさ。勘違いしちゃったよ」
「どんな勘違いだよ……ありえないだろ……そんなの」
「本当にありえないの?」
葵に肩を掴まれ、力づくで顔を突き合わされた。
長い睫毛に守られた茶色の瞳がまっすぐ見つめてくる。伊佐武の心臓が高鳴っていく。
「あ、ありえない、だろ?」断言できず、疑問形になる伊佐武。
「そう思ってるのは、伊佐武だけかも」葵はそんな彼に、さらに顔を近づける。