マイナス八~マイナス五
それからというもの、二人は顔を合わせるたびに競い合った。ある日を境に葵が義手を使うコツを掴み、伊佐武はもともと使っていた自分専用の筋電義手でなければ勝てなくなってきた。だがそれも翌週には追いつかれ、最終的にお互いの実力は完全に拮抗していた。
義手の扱いでは決着がつかなくなり、今度はリハビリ室ではなく病院の中庭で駆けっこをしたり、水を張った洗面器にどちらが長く顔をつけていられるかで競い合った。
入院患者にも関わらず、さらに伊佐武は人類の未来を左右する重要な存在であることから、二人はたびたび医師や看護師に叱られた。だが二人はいくら叱られても小競り合いを止めなかったのだった。
少なくとも伊佐武にとって葵はライバルで、絶対に負けたくない相手だから。だけど葵は目の前の勝負より、自分の横顔をじっと見つめていることがあることに伊佐武は気づいていた。
その視線の意味はわからない。ただ少し、こそばゆかった。
そんなこんなであっという間に三年という月日が流れ、2028年の四月になった。
いまだに伊佐武の持つ抗体は彼自身にしか作用せず、特効薬や予防薬の開発は難航していた。その日も血液を抜かれたり、さらには髄液までサンプルとして抜かれた伊佐武は、髄液を抜いた際に腰に刺された太い注射器の痛みにうんざりしつつ、病院の中庭にある桜の木の下のベンチで甚平のような水色の患者服を来て本を読んでいた。
初めて筋電義手を付けた頃と比べて少し大人びた彼の横顔に、中庭を舞う桜の花びらが張り付く。だが伊佐武は本に夢中で気づかない。
「伊佐武ぅー!」
「うおお!?」
突然、伊佐武の身体に何かがぶつかった。頭に三角巾を付け清掃用務員のエプロンをつけた葵が、体当たりするように伊佐武の隣に座ったのだ。
そしてそのままの勢いで首に手を回し、伊佐武の顔を自分の顔に引き寄せた。
「なーに読んでるのかなー? エッチな奴? 僕にも見せてよ」
葵はぐっと顔を近づけて悪戯っぽくそういった。シリコンカバーで覆われているものの、義手の固い感触に伊佐武は顔を顰める。
葵はもう両腕の傷も治っており本来ならとっくに退院できる状態だ。だが彼の両親はミュータントに襲われ既に他界しており、帰る場所がない。さらに彼の両親は本当の産みの親ではないため、もともと葵が住んでいた孤児院に送られるという話になった。
しかし、離れ離れになりたくない伊佐武と葵の抗議により、十三歳になった今年から非常時特例条例の更に特例で、葵は病院の清掃員として雇われることになった。実は、伊佐武のために非常時特例条例が一部改編されている。二人を離れ離れにした結果、伊佐武の脳波や精神的なストレスによる不調を防止する、というのが最大の理由だった。
「ちげーよ馬鹿。古い戦争の本。いや、戦争って言うか、抗争?」
「なにそれ? どんな内容なの?」
葵は伊佐武の首から手を離し、真剣な瞳を向けてくる。彼は、運動が好きな伊佐武と対照的に貪欲なまでに知識を得たがる少年だった。出会った頃はそれほど顕著ではなかったが、ここ最近は特に様々な本を読み漁っている。体を鍛えてばかりいる伊佐武は、知識で競い合う時に負ける回数が多くなり、近頃慌てて本を読み始めたのだ。
「んー、簡単に説明すると、アリゾナ州に住んでたナバホ族が、アメリカからニューメキシコにある収容所に入るように命令されるんだけど、反抗して戦う話」
「どっちが勝つの?」
「アメリカ」
「だよねぇ」
葵は特に驚きもしなかった。一部族が大国に勝てるなどと最初から思っていなかったようだ。
「だけどこの本はさ、どっちが勝つかを知る本じゃないっていうか。当時のアメリカの大佐、キット・カーソンって言うんだけど、この人がとんでもなく酷い方法でナバホ族たちを追い詰めるんだ。でも、それに屈しない強さを知るっていうかなんていうか」
「とんでもない方法って?」
「兵糧攻めとか、焼き討ちとか」
「酷い人だねぇ」
「それだけじゃない。降伏したナバホ族をアリゾナからニューメキシコの収容所に徒歩で移動させたんだ。五百キロだぞ。五百キロ」
いまいち反応が悪い葵に、伊佐武は右手を大きく開いて葵の鼻先に突き付けた。
「そんなに歩かされたの!? 五百キロっていうと、たしか、東京から大阪くらいあるよ!?」
葵は目を丸くして甲高い声をだした。その様子を見て、伊佐武はようやく満足して手をひっこめた。そして左手で強く握りしめた本の表紙を見つめた。
「そうそう。しかもニューメキシコの強制収容所には、ナバホ族と敵対していたアパッチ族ってのがいて、収容所に着いてからも過酷な生活が続いたんだ。この本はさ、そんな辛い過去、”ロングウォーク・オブ・ナバホ”を乗り越えた人たちの強さを知る本なんだよ」
「強さかぁー。僕は親も両腕もなくしたけどさ。でも流石にそのナバホ族みたいな生活だったら耐えられなかったかも。伊佐武はどう?」
「俺もわからない。でも、全力で戦うと思う。自分の理想や願いを叶えるには、戦って勝つしかないからな」
伊佐武が葵に顔を向けると、葵はハトが豆鉄砲を食らったようにきょとん、としていた。
「おい。どうした?」
「伊佐武って、いつから自分のこと俺だなんて呼ぶようになったの?」
「……いつでもいいだろうが」
てっきり自分の言葉に感動しているのかと思った伊佐武は、そこかよ!と心の中で叫んだのだった。
「え? あれれー? もしかして伊佐武君、かっこつけてらっしゃるのかなー? もしかしてかっこつけたい相手でもいるのかな~?」
葵がからかうような口調で囃し立ててきた。伊佐武自身にも、自分の呼び方を変えた理由ははっきりとわかっていない。
ただ、なんとなく自分のことを『俺』と呼んだ方が強くなれるような気がしたのだ。それは、今もなお時折伊佐武の夢に出てくる、かつて守れなかった幼馴染への後悔と苦しみから逃れたかったからかもしれない。
「よせよ。そういうの、嫌いだ」
葵の言葉に苛立っていたが、それ以上に悲しい気持ちが湧き上がってきて、強気に言い返すことができなかった。だが素っ気ない反応がかえって本気で怒っているのだと葵が受け取ったのか、彼はしゅん、と肩を落とし、「ごめん、言い過ぎたよ」と呟いた。
伊佐武は返事をせず、気まずい沈黙が流れる。春先のまだ少しひんやりとした風が吹く中庭に、風では拭いきれない重い空気が立ち込める。どちらかが離さなければこの空気は拭えない。先に口を開いたのは、葵だった。
「あのさ、こんな言葉、知ってるかな?」