マイナス八~マイナス五
【マイナス八~マイナス五 - 1】
東京医療大学付属病院は、流石は国内一の病院と囁かれるだけのことはあり身体的な障害を抱えた伊佐武のあらゆる要望に迅速に答え、さらになれない片腕生活をサポートする設備が充実していた。ただ一つ、寂しさを除いて。
伊佐武の血液に寄生生物への抗体が発見されてからというもの、彼は日に数度の診察。それと、少ない時間ながらも勉強の時間をとらされている。
そんな彼は今、潔癖すぎるほど白い壁紙で覆われたリハビリ室で、義手を付けた他の人たちと一緒に高機動型筋電義手のリハビリに明け暮れていた。
積み木を図面と同じ形に立てたり、容器に入ったおはじきをつまんで隣の容器に移す訓練。大半のリハビリ参加者は思うように義手を動かせず、顔を顰めたり、悪態を付いている。だが伊佐武は違った。手術から一ヶ月が経過した彼は、すでに義手の扱いに馴れ、順調にリハビリを進めている。
彼の腕についている筋電義手は体外着脱式、所謂従来型ではなく、傷口に基礎を埋め込み神経と回路をダイレクトに接続する神経接続式と呼ばれる最新型なので、ほとんど生身と同じ感覚で動かせる。そのため他の義手や筋電義手の人たちよりも上達が速い。
この神経接続式が実用化されたのはつい最近で、2020年頃までは体外取付式の筋電義手すら一般にはあまり普及されていなかった。今でも神経接続式は世界に数千個しかない入手困難な代物である。そんな貴重品がすぐに用意できたのは、名医である両親の力に他ならない。
誇らしげな気持ちを胸に、今日も彼は黙々とおはじきをつまんでいた。
「あ……」
伊佐武の隣でリハビリをしていた男の子がおはじきを床に落とした。両腕が肘から義手になっている彼は、上手くおはじきを掴むことが出来ず苦戦しているようだ。
伊佐武は自分のパイプ椅子の下に転がったおはじきを義手で掴み、男の子に渡した。
「はい、これ」
「あ、ありがとう」
男の子はぎこちない動きで左手を皿のようにして、伊佐武からおはじきを受け取った。その後、右手でおはじきを掴もうとするが、上手く掴めない。
手首の関節を上手く動かせていないため、肘でつまむ位置を合わせようとしているからだと伊佐武は気づいた。手首に対して肘の可動範囲は大雑把なので、細かい位置を調整するのが難しいのである。
「手首を使った方がいいよ。例えばほら、肘を机に置いて練習すればコツを掴めるかも」
「……うるさいな」
「え?」
親切心からアドバイスを言った伊佐武は、男の子の冷たい発言に面食らってしまった。この時彼は、初めて男の子の顔を見た。
羊のように癖のある茶色の髪が右目を覆い隠し、露わになっている左目は涙ぐんでいる。唇を震わせ必死に涙がこぼれまいと我慢しているようだ。
伊佐武は一瞬、女の子と見間違えそうになった。白い肌と赤い唇。そして大きな明るい茶色の瞳は、そう思わせるには十分すぎるほど可愛らしい。だが彼の首に下がったカードケースに入れられた患者証明書には青い文字で御剣葵と書かれていたことから、正真正銘男なのだとわかった。この病院では、青文字は男、ピンク色は女に分けられている。
葵は伊佐武に憎々し気な視線を投げかけていた。正確には、伊佐武の義手にだ。
「それ、最新式の筋電義手でしょ? 世界に数千個しかないやつ」
「え? あ、うん。そうだけど……」
「お金持ちなんだね。それとも知り合いが医者? どっちにしたって、そんなに良い義手を付けて得意げな顔するなんてフェアじゃないよ」
伊佐武にはなぜ葵が怒っているのか理解できなかった。しかし、「フェアじゃない」などと言われ挑発されたことだけは理解できた。負けん気の強い伊佐武はふつふつと頭に血が上り始め、葵を睨み返した。
「文句あるなら、勝負しよう」
「勝負?」
葵は伊佐武の提案が予想外だったらしく、口をぽかん、と開けていた。
垂れ目がちな彼の表情がますます女の子のようにみえる。
「うん。僕が君と同じ義手をつけて、制限時間内にどっちが多くおはじきを移動させられるか勝負するんだ」
「ふぅん、面白そうだね。でも君、体外取付式もってるの?」
「病院に誰でも使っていい義手が置いてあるはずだよ。ちょっと看護師さんに聞いてくる」
伊佐武はそういって、リハビリ室の隅でパソコンのキーボードを叩いていた女性看護師に駆け寄った。院内共用の義手が届いたのは、それから十分後だった。
「本当にやるつもりなの?」
伊佐武がフリーサイズの義手を、黒いマジックテープのバンドで自分の腕に括りつけていると葵が尋ねてきた。その声は、少々不安気だ。
「もしかして、負けるのが恐いのかな?」
伊佐武は嘲弄気味に言い返した。最初に挑発してきたのは葵だ。だから遠慮することなどない、と彼は思っていた。
「まさか」
葵もまた自分が挑発されていると悟ったのか、再び眉間に皺を寄せて睨みつけてきた。
その後伊佐武は、右手の感覚を掴むために少しだけ練習した。けれど、勝手が違う義手は思うように動かせない。おはじきを何度も取りこぼし、床に落とした。それもそのはず、体外取付式は本人の感覚と義手の設定を入念に擦り合わせなければ自然な動きができない。病院の共用物である義手が伊佐武の感覚と一致するはずがなかった。
伊佐武は、自分の感覚に義手を合わせるのではなく、義手に自分を合わせることにした。
「ほら、やっぱりうまくいかないじゃないか」
「黙って、みてろ、よ」
練習を初めて三十分後に初めておはじきをつまみ、隣の容器に移すことができた。葵はそんな伊佐武を見て、目を丸くしていた。
「そんな……僕だってまだ上手くつまめないのに」
「ふぅ……。どうする? やめとく?」
伊佐武は既に勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。葵はそんな伊佐武の態度にむっと唇を尖らせ「いいや、やる!」と言い返したのだった。
看護師に時間を計ってもらい、三分間でどれだけ多くのおはじきを移せるか勝負が始まった。最初の勝負は二人とも三個ずつで引き分け。
もう一度勝負すると、葵は三つだったが、伊佐武はぎりぎりで四つ目を移すことに成功した。
「もう一度だ! 三回勝負にしよう!」
「いいよ。次も僕が勝つけどね」
葵の提案に、余裕たっぷりな態度で答える伊佐武。次の勝負では、伊佐武が二回連続でおはじきを容器の外に落としてしまい、伊佐武が負けた。
「これじゃあ一勝一敗一引き分けで決着がついていないじゃないか! もう一度やろう!」と、今度は伊佐武が言い出した。葵は俄然乗り気だったが、時間を計測していた看護師が手を打ち鳴らし、伊佐武の検査の時間だと伝えた。
二人の少年は全く同時に眉根を八の字に下げて顔を見合わせると、今度は途端に目尻を吊り上げ、「決着をつけるのは次に会う時までお預けだ!」と、声を揃えて叫んだのだった。