百 - 3
鎌から力なく手が離れた。糸の切れた人形のように上半身を項垂れさせた彼女は、しかしいまだ二本足で立っている。どうやら鎌が恥骨を上から抑えつける力によって、膝を曲げることができないようだ。
鎌にはなおも力が加わっているのか、ごりごりと骨を削る嫌な音が聞えてくる。
「うっ、うぅっ……----ッッッッ!」
ごきり、と音がしたその瞬間、ミアの胸から股関節までが完全に両断された。すでに消えかけていた命の灯が最後に燃え上がるかのように、彼女は涙と鼻水で歪んだ顔をあげる。
瞳孔が一瞬だけしぼまり、やがてぐりん、と上を向いた。
口の端から泡を噴き出しながら床に崩れ落ちた彼女の体からは、血と臓物が床に広がっていく。
すえた匂いが鼻につく。
「…………チッ」
ノーマッドは目の前で繰り広げられた惨状に小さな舌打ちをこぼした。
彼が静観していたのは、彼女の血を利用するためだ。透明な体に血液が付着すれば視認できる。勝機を見出すための狂気。彼は非情にも、彼女の不死性を利用しようと考えたのだ。代償は、彼女の苦痛。
ミアの苦痛に歪んだ顔を見て罪悪感に苛まれたが、彼は冷静に思考を切替え、返り血を浴びてはっきり姿を捉えることができるようになったミュータントを観察した。
体と頭は標準型ミュータントと変わらない。だが両腕が上半身と同じくらいある巨大な鎌になっている。さらに下半身も、標準型は木の幹のように細い触手が一つに集約されているが、目の前にいる固体は、腰のあたりから体が四つの足が生えていた。その足までもが、両腕と同じ鎌の形状をしており切っ先を床に刺して立っている。光学迷彩能力といい、攻撃的な個体だ。
ノーマッドはミュータントの姿からどんな動きをするかを予測し、頭を狙って撃った。ところがミュータントは四つの鎌状の足を高速で動かし、上半身をほぼ揺らさずに右に移動した。弾丸を躱されるも、間髪入れずに照準を合わせ、さらに三発連続で撃った。ミュータントは不安定そうな見た目とは裏腹に、機敏な動きで銃弾を躱し続ける。
鋭い足が金属の床に触れるたび、金属を引っ掻くような嫌な音が響く。ミュータントは壁に足を突き刺して天井まで登った。ノーマッドはさらに三発撃ち、そのうちの二発が、ミュータントの前足二つを粉砕した。ミュータントは残った後ろの足で天井にぶら下がっていたが、振子のように勢いをつけて、正面から飛び掛かってきた。
「もらった!」
相手は身動きの取れない空中。それも正面から向かってくる。逆さまのまま右腕の鎌を振り上げて来るミュータントは脅威だが、その刃が届く前に撃ち抜ける。冷静にミュータントの丸い頭部へ照準を合わせ、引き金を絞る。
炸裂音と共に弾丸が放たれたと同時に、ミュータントの鎌が視界から消えた。
「なに!?」
鎌は消えたわけではなかった。いつの間にかミュータントの左側へと振り抜かれていた。さらにミュータントの後方に、拳大の穴が二つ空いた。亜音速の弾丸を、切ったのだ。ノーマッドはとっさに後ろに飛びながら、引き金を絞る。だが、総弾数八発の愛銃はすでに弾が尽きており、空虚な撃鉄の音を響かせるばかりだ。
ミュータントの左腕がノーマッドの首に迫る。彼はとっさに目を瞑り、今度こそ本当に死を覚悟した。
ところが、いつまでたっても痛みがない。
不思議に思っていると、正面に重い何かが落ちるような音がした。
「ギュイギュイギュイギュイギュイ! ギュゥイギュゥイ、ギチチチチ、チ、チ……!」
突然、大量の虫が集まって鳴いているかのような音が聞こえて、ノーマッドは瞼を開いた。すると目の前で、返り血で真っ赤に染まったミュータントがもがき苦しんでいた。
床を両腕の鎌で引っ掻きまわし、切り裂いている。だがそれも徐々に勢いがなくなり、最後には床に倒れ、完全に沈黙した。
「死んだ、のか?」
ミュータントは蜘蛛の死骸のように足を閉じて動かない。軽く蹴ってみるが、反応はない。完全に死んでいるようだ。
「ううぅ……痛い……」
「ミア!」
不審死を遂げたミュータントはそのままに、ノーマッドは床に内臓を撒き散らしたまま倒れているミアに駆け寄った。
彼女は上半身の半分以上を切り裂かれていたが、既に胸から臍の上辺りまで傷が治っている。一度完全に死んでいたように見えたが、いつの間にか息を吹き返したようだ。
下腹部から股間にかけては今も裂けているため、そこから飛び出した内臓が傷の修復を阻害している。ノーマッドは彼女を抱きかかえ、壁に寄り掛からせて座らせた。
ライトで照らすと、ミアの足の間から、大量の血と充血した腸がはみ出している。
「痛い、痛いよぉ!」
「落ち着け。今、戻してやる」
飛び出した内臓が治癒を邪魔している以上、体内に戻すしかない。ノーマッドは左手で腸を掴んだ。瞬間。ミアの体がびくりと震え、背中を逸らせてノーマッドの肩を掴んだ。
「んああああう! 痛い! 痛いいい!」
ミアの獣のように絶叫が硬質な壁に反響する。
「我慢しろ、いま戻してやるから!」
ノーマッドは暴れるミアの肩を右手で押さえつけた。押さえ方は知っている。過去に、自分もこうしてベッドに押さえつけられたから。
「ああ! ああああ! 無理無理無理! 死んじゃううううう!」
ノーマッドは熱を持った内臓をを、ミアの足の間から奥へと押し込んだ。しかし絶叫しているミアの腹筋に押し戻され、上手く入らない。
だがこのままにしておくわけにはいかない。強引に体内へと押し込んでいく。
「おい叫ぶな! 腹の力を抜け!」
「いやああああああああ! 抜いて! 抜いてよおお! 苦しいからぁあああ!」
「クソ! しょうがない……無理やり押し込むぞ」
ノーマッドはミアの身体を壁に押し付けた。そして強引に左手をねじ込んだのだった。
「あああああ! うあああああああ!」
腕に絡みつく内臓は煮込んだトマトスープのように熱く、柔らかい。押し込む力を緩めると内臓が出てきてしまうため、傷が治るまでミアの中に手を入れておくしかなかった。
ミアはノーマッドの肩から手を離し股に挿し込まれた左腕を爪が剥がれるのも構わず両手で握りしめた。神経の通った腸を握られ、さらに体の中に手を挿入されるのは想像を絶するほどの苦痛なのだろう。
「もうダメェ! 死んじゃうからぁ! ああああ! ああああああ!」
華奢な少女とは思えないほどの力で腕を握られるが、ノーマッドは手を抜かない。抜けばまた内臓が出てきてしまうからだ。
ノーマッドの左手に内臓の熱とは違う暖かい液体がかかった。アンモニアの臭いが漂い始める。ミアは失禁していた。だがそれはつまり、膀胱までは治ったということである。
次第に肘まで挿入された彼の腕に、内臓や手とは違う、うねるような圧迫感が加わった。それが癒着し始めた下腹部の肉だと悟り、ノーマッドはゆっくりと腕を引いた。
親指の第一関節が出口付近の強い締め付けを超えると、ミアの体液で濡れた手が、ぬるん、と引き抜かれた。
「あんっ! はあっ……! はぁっ……! う、うぅ……」
ミアはしばらく浅い呼吸を繰り返し、その後膝を抱きしめて丸くなった。震えながら嗚咽を漏らしている。足の間からしばらく血を流していたが、やがて止まった。
ノーマッドは彼女にかける言葉が見つからなかった。
体を切り裂かれ、さらに内臓を体内に押し戻される痛みなど、およそ人体に与えうる苦痛の中でもトップクラスだろう。そんな痛みをまだあどけなさが残る少女に味合わせてしまった罪悪感で、気持ちが沈む。
「……チッ。面倒をかけやがって……」
思わずノーマッドの口を突いて出たのは、謝罪ではなく悪態だった。守ると言っておきながら、二度も死なせてしまった自身の不甲斐なさを、彼は文句を言うことで誤魔化したのだ。
ミアは右手でノーマッドのマントを掴み、赤く腫らした金色の瞳で見上げてきた。
そして彼女は、ぎこちなく笑ったのだった。