百 - 3
【百 ー 3】
呆然と立ち尽くすノーマッドの眼下には、通路を照らす赤い非常灯よりもさらに鮮烈な赤を放つ液体が床に広がっている。鉄の匂いが漂い、床に散らばった銀色の髪が血を吸って微かに曲線を描いている。さらにその隣には、直前に「守ってね。お願いよ」と言った少女の首と胴が分断された死体が転がっていた。
「まぁ…………これは仕方がないな。やるせないにもほどがあるが……」
ノーマッドはミアの死体を放置して歩き始めた。少し時間がたって水分が蒸発した血液は、靴に短い糸を引いてぷつんと切れる。ノーマッドはミアの命を奪った侵入者用のレーザー装置に近づき、義手で握りつぶした。配線が千切れ、電気の通っていたケーブルから青白い火花が一瞬散ったが、すぐに沈黙した。
ノーマッドはちらりとミアを見下ろした。何度見ても同じ景色が広がっている。
「短い付き合いだったが、そんなに悪い旅じゃなかった。旅というより散歩だったが……どちらにしろ、成仏しろよ」
彼は再び前を向き歩き始める。悼む気持ちはあれど、立ち止まる理由にはならないのだ。
「なおん」
ノエルは、すでに床と同じ温度になったミアの顔を小さな赤い舌で舐めていた。
「いくぞノエル。ミアはもう動けな――――」
――――待って。
ノーマッドはぴたりと口と足を止めた。ゆっくりと後ろを振り向く。そこにはミアの死体と、死体の隣で行儀よく座ったノエルがいるだけだ。
「気のせいか? いや気のせいに決まっているがな」
ノーマッドが再びミアから視線を外したその時。
「置いてかないで。お願い。待ってよ」
はっきりとミアの声が聞こえ、勢いよく振り返る。しかし何度見てもミアは話せる状態ではない。
「は、はは……俺はな、幽霊は信じないたちなんだな、これが」
ノーマッドはミアの顔が見えるように回り込んだ。首は綺麗に横一線に切られたためか、器用に床の上に直立している。虚ろな目を開いたまま、だらしなく口を開けて死んでいる。
ミュータントでさえ首と胴切り離されれば死ぬ。この状態で生きていたら、ミュータント以上の化物だとノーマッドは思った。
それでも確認せずにはいられない。青白いミアの顔に、ゆっくりと手を伸ばした。小刻みに震える義手の指先がミアの睫毛に触れかけたその時、虚ろだった金色の瞳がぎょろりと動いてノーマッドの視線と重なった。生首の口が開き、血の飛沫を飛び散らせる。
「お願いだから待ってよおおおおおおおおおおおおおお!」
「うおおおおおおおおおああああああああああああああ!」
ノーマッドは全力でミアの頭を蹴った。それはもうワールドカップのPK戦のような勢いで鼻をへし折らんばかりに鉄板が入ったブーツのつま先で容赦なく蹴り飛ばした。
ミアの頭はずしゃ、と骨と肉が潰れる音を出して通路の奥へと転がった。
「いったあああああああい!」
生首が転がりながら叫んでいた。二回ほどバウンドして停止したミアの頭は、横向きに倒れた。顔がノーマッドを向いている。またしても口が動き出した。
「痛いじゃない! 無抵抗な女の子の顔面を蹴り飛ばすなんてどういうつもりなの!?」
これが首が繋がっている女の子が言ったのならまだ同情の余地もあっただろう。今の状況では不気味にこそ思えど、その抗議に同情の余地は無い。
「なんで生きてる!? なんで首だけで生きているんだお前!?」
「わかんないわよそんなの! 生きてるんだから生きてるんでしょ!? それより体が動かせないの! お願いだから助けて!」
「助けてといわれてもな……」
「なおおぉ」
足元にいたノエルが鳴いた。見るとノエルは、ミアの胴体側の断面を舐めている。その断面には、ミュータントの触手とは違う赤色の触手らしき物が何本も蠢いていた。あまりの気持ち悪さにノーマッドは顔を顰めた。
「お前の胴体、とんでもなく気持ち悪いことになってるぞ」
「レディの体を見て気持ち悪いだなんて失礼ね! そうだ! 首を胴体に戻せばくっつくんじゃないかしら!」
ミアの提案に、ノーマッドは全く乗り気ではなかった。幼い頃ミュータントの寄生生物に蝕まれ、右腕を犠牲にして生き残った彼は、自分には寄生生物の抗体を持っていると記憶していた。なので仮にミアがミュータントだとしても、触れたところで寄生される心配はない。しかし、栄養失調のミミズが蠢いているような首の断面に嫌悪感が湧いてきてミアの体に触れたくなかった。
「嫌だ、触りたくない。生理的に……無理だ」
「なんでよー! ねえノーマッド、お願いだからやるだけやってみてよ!」
ミアの頭が遠くで懇願し、通路に声が反響した。ノーマッドは気が重くなりながらも、床に横たわるミアの体を起して、壁に寄り掛からせた。
首の断面は今も、小さな糸ミミズのような触手が蠢いている。
「キモい……本当にキモいな……触ったら絡みつかれそうだ」
「なにー!? なんか言ったー!?」
「何も言ってない」
「のんびりしてないで、はやく私を拾って付けてよぉー!」
ミアに急かされ、ノーマッドは彼女の首を拾って体の元へ帰って来た。
「じゃあ、乗せるぞ。準備はいいか?」
「うん。というか、準備のしようもないしね。はやくつけて」
「その前にこれを見てくれ」
ノーマッドはミアの頭を反転させて、わざわざ胴体側の首の断面を見せてみた。これは単なる好奇心。どんな反応をするのか楽しみだ。
「いやー! なにこれキモい!」
「ふふっ……。さて、つけるぞ」
口元を引きつらせて顔を青ざめさせる彼女を見て、ノーマッドは満足げに口元を緩めたのだった。
「え、なんで今見せたの?」
ミアの質問の答えは返ってこず、代わりに濡れたスポンジ同士を押し当てたような、湿った音が微かに聞こえた。ミアの傷口から赤い触手が一瞬大きくはみ出し、首の断面に絡みついた。しかし、すぐに傷口が消えてなくなった。
首の傷が消えると同時に、短くなった髪が一気に伸びて、再び彼女の背中を銀色の髪が覆い隠した。ミアは両手を確かめるように、顔の前で握ったり開いたりを繰り返していた。
「痛た、くっついた瞬間体がびりっとしたわ……。でも治ったわ! あと髪も伸びた!」
「嘘だろお前、一体なんなんだ?」
「わからないけど、とりあえず治ったんだからいいんじゃないかしら?」
能天気なミアにノーマッドは呆れてしまった。ミュータント以上の再生能力に、人と同等の知能。明らかに彼女は異質だった。
ノーマッドは顎に手を当ててすっかり考え込んでしまった。このままミアと行動を共にして大丈夫なのか、と。もしも彼女がミュータントなどよりもよほど恐ろしい化物だったとしたら、一緒に行動するのはあまりにも危険だ。いっそここで処分した方がいいのではないかと考える。
「なおぉぉぉ」
「えへへ、ごめんねノエル。心配させちゃったね」
思考を巡らせる彼の傍ではミアがノエルを撫でている。
----少なくとも攻撃的ではない……か。
「治ったならいくぞ」
「あーんまってよノーマッドー!」
しばらく様子をみることにしたノーマッドは、復活したミアと共に通路の奥に進み始めた。真っ直ぐ進んでいくと、通路が左右に別れたT字路に突き当たった。正面の壁には、『↓:焼却炉管理室』、『エレベーター:↑』と書かれたプレートが掛けられている。
「エレベーターってあれでしょ? 上下に動く箱のことでしょ? 私乗ってみたい!」
ミアがノーマッドのマントを引っ張りながら、右の通路を指さした。その先には、ミアの部屋にたどり着く前に見たエレベーターと同型の扉があった。扉の横の矢印が刻印されたボタンは点灯していない。
ここが最下層だった場合、あの扉の向こうには上の階から落ちてきた何十体ものミュータントがいるはずだと思ったノーマッドは、なにも言わず焼却炉管理室へ向かって歩き始めた。
「ああん! なんでエレベーターに乗らないの! ノーマッドの意地悪!」
「あのエレベーターは動かない。上の階で見たが、ケーブルが切れて箱が落下していた」
「ええー。そうなのー? 本当ー?」
「にゃおん」
ノエルも焼却炉管理室に向かうことに賛成なのか、ノーマッドの前を歩いていく。
「ほら、ノエルもこっちがいいって言ってるぞ」
「嘘! ノエルは猫だもん! しゃべらないわ!」
「……そうだな」
T字路を左に進んでしばらくすると、厳重なロックがかかった扉が行く手を塞いでいる。
扉には三本の閂がされているが、電気で制御されているらしく、取っ手らしきものは見当たらない。暗がりをよく見ると、右側の壁にカードリーダーが付いている。
ノーマッドは監視室で拾ったカードキーをリュックサックから取り出し、カードリーダーに通した。すると扉から、短い電子音に続いて、大量の空気が漏れ出る音がした。
そして扉に取り付けられていたモーターが回転し、全ての閂が壁に押し込まれていった。
扉が微かに開いた。隙間から見える室内には赤い非常灯すら付いておらず、真っ暗でなにも見えない。ノーマッドは義手の手首の内側に取り付けられたライトを点灯した。
隙間の向こうから気配を感じる。かつてノーマッドが戦場で感じた、脳みそを炙られるような不快感。彼の脳裏に、様々な映像と感覚がコマ送りのように思い浮かんだ。
蒸し暑い南国の空気。
茶色い木箱に詰め込まれた色とりどりの果物。
自分以外の三人の兵士。そのうち二人を貫く肉色の槍。
最後の仲間に手を引かれ、腐ったトマトを踏みつぶしながら市場を駆け抜ける。後ろには気配がある。
いくつもの気配が迫ってくる。そして――――。