マイナス八 - 2
【マイナス八 ー 2】
慌ただしい声で目を覚ました。視界に映るのは真っ白な天井と左に点滴台、右にクリーム色のカーテン。鼻を抜ける匂いは、父と母と同じ消毒液の香り。
「先生! 先生、こちらの患者さんは!」
「発症者は手の施しようがない! ストレッチャーに拘束して一部屋に集めるんだ!」
声のする方に顔を向けると、カーテンの隙間から銀色のスーツに身を包んだ医師が女性看護師に向かって聞き慣れない医療用語を伝えている。
伊佐武は二人の会話から、自分がどこかの病院のベッドに寝かされていることを悟った。周囲を見渡してみるが、ほとんどカーテンで仕切られていて見えない。ベッドの横には点滴台が立っており、透明な液体で満たされた管が毛布の外に出された自分の左腕に繋がれている。
ふと、カーテンの隙間から見える医師の背中に、『聖神クリストファー病院』と書かれている事に気づいた。
「父さん……?」
医師が伊佐武の声に気づいて振り返る。医師はゆっくりと近づいてきた。銀色のスーツがアルミホイルを丸めた時のような音を立てている。ヘルメットに嵌め込まれた透明なアクリル板の向こうに見えたのは、スキンヘッドの男だった。
その顔は、伊佐武の父に似ても似つかない。いかにもガテン系のいかつい顔立ちだった。
「ああ、伊佐武君! 目を覚ましたのかい!」
医師は見た目に反して温和な口調で話し始めた。外気を拒絶するアクリル板の下部が、男の声と共に白く曇る。
「気分はどうかな? どこか痛いところはないかい? 胸とか、お腹とか」
伊佐武の頭は靄がかかったようにぼんやりとしており、ジャスチャーを交えた医師の話しがほとんど理解できなかった。だが、気分はどうか、と聞かれていることはなんとなくわかった。
「頭が、ぼんやりしてて……なんだかはっきりしません」
「それは鎮痛剤が効いている証拠だよ。ああそうか、でも薬が効いているってことは、君は寄生されなかったということだね! ああ、主のお慈悲に感謝します」
医師は両手を合わせ、アクリル板ごしの額のあたりに押し付けた。
「き……せい……」
寄生。その言葉を聞いた瞬間、伊佐武の脳裏に様々な映像が流れる。
自宅を尋ねてきた真莉愛。彼女と共に食べた苺のショートケーキ。突然苦しみ、自分の服を引き裂いて異常な変貌を遂げた彼女の体。助けに来た父の、怒っているような悲しんでいるような顔。最後の記憶は、鉛色の軌跡を残して振り下ろされた鉈。
そこまで思い出した時、心臓が嫌なテンポを刻んだ。
右手は今毛布の下だ。
握ったり開いてみた。
動かしている感覚はする。
しかし、動いている感触が無い。
肘から先の感触が、ないのだ。
伊佐武は右腕をゆっくりと持ち上げた。
天井に嵌めこまれた照明に手を伸ばすように。
本来なら毛布がはだけ、中から右手が伸びるはずだった。
だがはだけた毛布から出てきたのは、包帯でぐるぐる巻きにされた二の腕。
二の腕までしか、なかった。肘から先がない。伊佐武の脳に、右手が無くなったことが認識された。途端に体が震えはじめる。怖い怖い。意味が解らない。なぜ腕がないのだと自分に問いかける。医師はようやく伊佐武の異変に気づいて顔を上げた。
「安定剤だ! 精神安定剤をもってこい! 早く!」
一人の看護師が病室から飛び出していった。医師は伊佐武の無くなった腕を押さえて、再びベッドに寝かしつけた。
「腕、僕の、腕が!」
「落ち着くんだ伊佐武君! 大丈夫。なにも心配いらない!」
「でも腕が! 僕の腕がないんだ! 僕の!」
体を抑えつけようとする医師の腕。けれど伊佐武の体は自分の意志に反してがたがたと震えた。震えが、止まらなかった。怖い。ただ怖かった。本来そこにあるはずの腕が。父と母、それに真莉愛と何度もつないだ手がない。かつてないその恐怖は伊佐武の許容できる範囲を超えて耐えがたい恐怖と混乱を招いた。
しばらくして看護師が病室に戻り、澄んだ黄色の薬液が入った注射を伊佐武の左腕に繋がれた点滴に注入した。薬液がゆっくりとチューブの中を流れていく。やがて伊佐武の腕に届いた。しばらくして、過呼吸気味だった息づかいが安定していく。伊佐武の呼吸が整ったことを確認し、医師は手を離した。
「落ち着いたかい?」
「はい……」
伊佐武はいまだに自分の右手が無くなったことを受け止めきれてはいなかった。思考を遮る靄が一層濃くなり、夢と現の狭間にいるような非現実感によって無理やり安静な状態になっていた。落ち着いた、というよりも気力を削がれたような状態だ。
「本来なら眠らせるのが正解なんだが、今は時間が惜しいんだ。すまないね」
「大丈夫です」
なにが大丈夫なのか、理解なんてできない。ただ反射的に答えてしまった。そんな彼の前で、医師は親指と人差し指を立てて見せつけてきた。
「君には二つの選択肢が用意されている。一つは、このまま腕の治療に専念して傷が治るのを待つこと」と言って、医師は親指を折りたたんだ。
「そしてもう一つは、新しい手を付けることだ」
医師は人差し指で、伊佐武の右手を指さした。
「義手?」
「似ているが、違う。高機動型筋電義手、と呼ばれる特別なものだ。人の身体には絶えず微弱な電気が流れている。特に筋肉を動かすときには特定の信号パターンがある。この義手はその電気信号を読み取り、小型のモーターで関節を動かす。所謂ロボットアームということさ」
「ロボット……アーム……。マキナ・ロワイヤルみたいな?」
伊佐武には医師の説明はほとんど理解できなかった。だがなんとなく、彼が好きなソーシャルゲーム『重工機神マキナ・ロワイヤル』にでてくるロボットをイメージすることはできた。
伊佐武の答えに、医師はにこやかな表情で口を開いた。
「そう。その通りだよ伊佐武君。君の腕はゲームに出てくるロボットのようになる! だがそのためには、傷が治ってしまう前に手術をしなければならない。今ならまだ、末端神経への認識を脳が覚えているからね。やがて脳が、手がないことを正しく認識してしまうと、この筋電義手は正常に動作しない可能性が高いんだ」
つまり、医師は伊佐武に手術を受けるかどうかを聞いているのだ。伊佐武を眠らせなかったのは意思確認のため。正常な思考を保てない伊佐武には、事態の切迫さがいまいち理解できなかった。彼はただ、大好きなロボットの腕が手に入るのなら欲しいと思った。
「欲しい、です。ロボットアーム」
「ならすぐに手術室に向かおう! 安心したまえ、手術するのは君のお父さんとお母さんだ。あの二人は当院で、いや世界でも最高峰の外科医であることはこの土間巍々丸が保証しよう!」
医師は早口にそういうと、カーテンの外にいる看護師に伊佐武を連れていくように指示を出した。そして二人の看護師がベッドに近づいてきて、入れ替わるように医師が離れた。
「もしもし、神崎先生ですか。ええ、伊佐武君が今しがた目を覚ましまして……。ええ……精神安定剤を投与しました。……そうです承諾しました。これから手術室に向かいます」
病室内の壁に取り付けられた内線で医師が話している。あの受話器の向こうにいるのはきっと、父さんか母さんだろうと伊佐武は思った。ぼんやりとした意識のまま天井を見上げていると、ベッドがゆっくりと動き出し、天井が上に流れていく。未知の感覚に、不安を感じた。