百 ー 2
その後も二人の言い合いが続き、ミアが落ち着いたのは一時間後だった。ようやく出発できる状況になったものの、ノーマッドはこの先どうなることか不安でたまらなくなった。
彼はもう三度目になる見慣れた銀の扉の前に立ち、右手の義手から刃を出した。後ろからミアの「お~」という気の抜けた声に戸惑いつつも、鮮やかに扉を両断する。斜めに両断された扉の奥には、壁に埋め込まれたPCやモニタが大量に並んだ部屋になっていた。
ほぼすべてのモニタは映っており、子供部屋の監視映像や温度変化がわかるサーモグラフィーが映し出されている。さらに心電図や湿度、酸素濃度まで表示されていた。厳重にミアを管理していたことが伺える。さしずめここは、監視室だ。
主な電灯は消えており室内は薄暗い。部屋の隅に取り付けられた青い間接照明が室内をぼんやりと照らしている。ノーマッドは床を這う配線の束に躓かないよう気を付けて足を踏み入れ、この部屋のトップが座っていたであろう室内に唯一鎮座しているデスクに近づいた。そっと鼠色のデスクの表面を手で払うと、ふわり、と埃が舞い上がる。
「わあ、なんだかよく変わらないけどすごいわ! とってもメカニカル!」
ミアはいまだに子供部屋の中から興味深そうに自分の監視室を眺めている。どうやら子供部屋から出ることに躊躇しているようだ。そんな彼女の足元に、ノエルが近づいていった。
「にゃおおおん」
ノエルが励ますように鳴いた。ミアはにっこりと笑い、ノエルの脇に手を添えて抱きかかえた。
「行こうノエル! 人類にとっては小さな一歩だけど、私にとっては偉大な一歩を踏みだすのよ!」
そういって彼女は銀色の扉をまたいで、監視室にぴょん! と足を踏み入れた。彼女の銀髪が、間接照明で青く照らされる。
「隣の部屋は青かったわ!」
「馬鹿なこと言ってないで速くこっちへこい」
ノーマッドは呆れたように言い放ち、デスクの上に置かれていた一冊のノートを手に取った。そのノートには『レイン・デマンド計画』と題されている。
(雨乞い……計画?)
「はぁーい! うふふ! 外の世界の床って不思議だわ! とっても冷たい! あと……あと……ふぁ、ふあっくちゅん! えへへ! 埃っぽくて不潔!」
ノエルを抱きかかえたミアがぺたぺたと足音を立てて楽し気に駆け寄ってくる。ノーマッドはそんな彼女を尻目に手にしたノートを捲った。細かな文字がびっしりと書き込まれたノートは、見たこともないような化学式や単語がつらつらと並んでいる。
とあるページに『抗寄生生物薬の進捗』と書かれていたことから、どうやらこのノートはミュータントや寄生生物に対する特効薬の資料なのだとわかった。世界が終わった今になってこんなものを読んでも仕方がないことだが、ミアを監視する部屋に置いてあった事が気になった。じっくり読み始めようかと思った矢先、ミアが配線に足を引っ掻け、「ぷぎゃ!」と叫びながら転んだのが目に入った。彼女が転ぶ瞬間、ノエルは「にゃん」と鳴いて華麗に腕の中からすり抜けていた。
「足元に気を付けろ」
「言うのが遅いわ、ノーマッド。ってきゃあ! また見たでしょ!」
尻を丸出しにして床に這いつくばっていたミアは慌てて座りなおし、服の裾を引っ張って下半身を隠す。けれど深いスリットが入った患者服は体を隠すにはあまりにも脆弱で、細い太ももが左右から顔を覗かせていた。
「なにをだ?」
ノーマッドはノートに顔を向けつつ横目でしっかり見ていた。だがここで見たと言えば面倒になると思い、シラを切ることにしたのだった。
「え!? あ、別に!? なんでもないわ!」
「とりあえず、外に出たら服を探すか」
そういってノーマッドはノートを閉じ、リュックサックにしまった。
「やっぱり見てた!? ねえ見たんでしょ!?」
「お前の尻なんて見てない。興味ない。あと小さい」
「見たんじゃない! ノーマッドのエッチ! ていうか、小さいってなによ失礼ね……大きさより大事な物とかあるでしょ! 少女時代は人生に一度きりなのよ!」
顔を真っ赤にして文句を言うミアを無視して、ノーマッドはデスクの一番上の引き出しを開けた。すると中から、赤い塗料が塗られたカードキーが出てきた。
カードキーの顔写真には、無精髭を生やした男が映っている。髪を一本も残さないように反り上げた頭部や右目に付けた眼帯は非常に迫力がある顔だ。顔写真の横にプリントされた名前は、土間臥牙丸。
「顔も名前もいかつい男だな。だがこいつ、どこかで」
ノーマッドはこの男に見覚えがあった。記憶を振り返ると、過去に彼が所属していた対ミュータントの特殊部隊、『MSTU』に入る頃に見たような気がした。
「ねえねえノーマッド! これパソコンっていうんでしょ? 私知ってるのよ! こうやってかちゃかちゃターン! ってやるんでしょ!」
ミアが鼻息を荒くしながらキーボードを叩き、最後にエンターキーを勢いよく押した。
「おいよせ。ついさっきも強引に機械をいじったら大変なことに――――」
――――がこん。ぷしゅぅぅぅっ!
言い終わる前に、壁と一体化していた扉が音を立てて開いた。扉の向こうは非常灯で赤く染まった通路が伸びている。
「そんなところに扉があったんだ……。ところで、ノーマッドはなにを言おうとしてたの?」
「いや……なんでもない。よくやった。ナイスだミア」
ノーマッドがミアの頭を撫でると、彼女は誇らしげに笑った。なぜかノーマッドは照れくさくなり、マントをはためかせて振り返り、通路に歩き始めた。
「さっさといくぞ」
「あーん! 待ってよノーマッドぉ―!」
ミアも慌ててノーマッドの後ろを追いかけた。
彼女が操作していたパソコンは黒い背景に小さな白い文字がいくつも羅列されている。画面右隅には、2133年9月18日と表示されていた。
ノーマッドとミアは細長い通路に出た。通路はどこまでも、赤い照明が点灯している。
大の大人が二、三人ほど余裕を持ってすれ違えそうな薄暗い通路で、ミアはせわしなく辺りを見回しながら壁や床をぺたぺたと触っていた。
「あまりうろちょろするな」
「だって珍しいんだもの」
「怪我したらどうする」
「ノーマッドって、なんだか偉そうで嫌だわ」
ミアに言われ、ノーマッドは小さくため息をついた。
「頼むから俺の傍を離れるな。いざという時守れない」
口に出した瞬間、ノーマッドは自分が彼女を守ろうとしていることに気づいた。
もともと自分の身を守るだけだと決めていたにも関わらず、ほんの二時間弱のやり取りで心を開きそうになっている。これではいけない。この世界で他人の面倒まで見る余裕などない、とノーマッドは自分に強く言い聞かせ、心の奥底から湧き上がる”守りたい”という衝動を押さえた。
「ふーん」
ノーマッドの葛藤も知らず、ミアはつまらなそうに返事をした。
「なんだよ」
「別になんでも」
「にゃおん」
「いい加減、大人しくしてくれ」
「にゃおん!」
「わかったわ」
あっさり了承したミアは、ノーマッドの前を歩き始めた。
「急に聞き分けがよくなったな。どうしたんだ?」
「狼さんが私を守りたいらしいから、守りやすくしてあげようかなって思ったのよ」
ミアはくるりと後ろを振り向きながら笑った。
「ねえノーマッド。お願いよ。この世界から、私を守ってね」
出会ってから幾度目かの彼女のお願いには、これまでにはない穏やかさがあった。
「チッ。言っておくが俺は、自分が危険だと思ったら見捨てるからな」
「ノーマッドってツンデレなのかしら。私に萌えて欲しいの?」
「お前は本当に妙な事ばかり……ん?」
ノーマッドの視線は全歩を歩くミアに向いていた。だが視界の端に、奇妙な突起物を捉えた。壁から突き出しているそれは、丁度ノーマッドの胃の辺りと同じ高さ。つまりミアの首の位置と同じ高さだ。ミアは後ろ向きに歩いていて、その突起物に気づいていない。
ノーマッドが手をのばすも、止めるのは間に合わない。彼女が半歩踏み出せば突起物の延長線上に入る。
「----にゃおん!!!」
先ほどからたびたび鳴いていたノエルが、一際大きな声で鳴いた。
同時に乾いた電子音が聞こえて、赤い照明に照らされた通路が白い閃光に包まれた。ノーマッドは不意に襲ってきた強烈な光によって目の前が真っ白になった。
「ミア!? おいミア! 大丈夫か!?」
徐々に目がなれてきた。何か焦げ臭い匂いが鼻につく。心臓が大太鼓のように脈打っている。
「ノ……マッド……」とミアの掠れた声が聞こえた。
ぼやけた視界の中で、白い何かが床に散らばっているのが見えた。それが髪だと認識できた次の瞬間、どさっ……、となにか重いものが床に落ちる音がした。
「ミア……?」
視界に映る球体。それは床にばらまかれた髪と同じ色をしていた。
続いて球体の横に大きな黒い影が物体が倒れてきた。それは床に倒れたままぴくりとも動かず、真っ赤な液体を流している。鉄の匂いがするその液体がブーツの先端に触れた頃。うっすらと視力が戻ってきた目が二つの満月を見た。
視力を取り戻した彼は、それが……首と胴を分断された、ミアの体だと認識した。
「ミアアアアアアアア!」
照明の赤と鮮血の赤に彩られた細長い通路に、絶望に染まった叫び声が響き渡る。
彼の足元に転がるミアの頭部は、虚ろな目で、自分を見つめ返していた。