百 - 1
【百 - 1】
廃墟は死体と同じだ。
人で例えるなら肉である壁や床は雨に削られ、風にさらわれ、時の流れと共に砂に変わって朽ちていく。その過程はバクテリアに分解される死体に似ている。余計な物が削ぎ落され、骨なり骨組みなりがいつまでも形を残すのも同じだ。むしろ壁や床は腐っても、悪臭を放たないだけマシと言えるだろう。
どこかの山奥でひっそりと死んだ人もギリシャのパルテノン神殿も同じ死体。魂の所在だとか、生きてきた証だとか、積み上げてきた歴史だとか、そんなものになんの価値があるというのか。全ての生産性と有用性を失った時点でそれはもはや死体なのだ。
だからなんだと言われれば、今現在、東京は死体の山だということだ----。
※ ※ ※
骨と内臓を剥き出しにして息絶えたとある廃墟群に一人の青年が訪れた。らくだ色のマントを羽織り、目深にかぶったフードから切れ長の黒い瞳を覗かせている。
彼の名はノーマッド・ワーカー。本名ではない。かつての世界が滅び、新たな秩序が産まれたこの世界を放浪する自分を皮肉ってこの名を名乗っている。名乗り始めたのがいつの頃だったのかは、すでに忘却の彼方へと追いやられ思い出すことはできない。
つい先日まで積み木で遊んでいたはずが、いつの間にか積み上げるのは酒の空き缶ばかりになるのと同じ。気づいた時にはもう過去の自分と共に世界は滅び、ノーマッドになっていた。
彼は歩く。灰色の砂が舞う廃墟群の中を、一歩進むごとに小さな砂塵を巻き上げながら目的の廃墟に向かっていく。粉塵と化したコンクリートとアスファルトが混じった匂いが鼻につく。靴底を捉える砂の下には幾多の死体が埋まってる。まるで生者を飲み込もうとするかのように。
そんな亡霊の幻想が脳裏をよぎるも、彼は崩れかけたビルの入り口で立ち止まり、ビルを睨みつけた。
視線の先にはもれなく全ての窓が粉砕された正方形の建物が鎮座している。周囲を埋め尽くす灰色の廃墟よりも、建物としての形を保っている分いくらかマシな姿だ。
ぴゅう、と埃っぽい風が吹いて、ノーマッドのマントがはためいた。左半身が露わになり、上下に着込んだ黒いウェアと、マントと同じらくだ色のガンホルダーが外気にさらされる。ガンホルダーには、大きな銀色の銃が収まっていた。
マントの端を掴んで再び風と共に舞う埃から身を護る。彼が視線を下げると、正面玄関の上部に掲げられた金属板が目に入った。金属板には『――――付属大学病院』と書かれている。
前半の文字は掠れて読むことができない。だがノーマッドにとっては取り留めない問題だった。少なくともここは、その昔多くの人々の命を救った施設、病院だとわかったからだ。
病院には多くの患者を養うために大量の保存食料が備蓄されている。ショッピングモールと同じくらい重宝する場所だ。さらにここはかつて日本で最も人口が多い、首都と呼ばれていた場所。かなりの収穫があるはずだ、と彼は期待していた。
「ふっ」
大量の缶詰を想像すると、口元が緩む。たとえ窓硝子が割れて壁は今にも崩れそうな程亀裂が走っていても、彼には財宝が詰まった宝箱のように見えていた。同時に、自分の命を脅かす深淵の入り口にも見える。財宝には、恐ろしい番人がつきものだ。
「全ての人間は、生まれながらにして知らんことを欲す、か」
独り言ちて黒いリュックサックを背負いなおし、骸となった病院へと足を踏み入れた。
院内は外観同様荒れ果てていた。埃っぽさはあるものの、夏の熱さを残す外よりも幾分か涼しい。照明は当然のことながら全て消えており、薄暗闇が広がっている。空中に漂う埃が入り口から差し込む光を浴びて煌いている。
入り口の正面にあるはずの受付は崩れた天井の土砂に飲まれて原型を留めていない。だが積もった土砂の右奥の壁には、院内の地図が張られていた。ノーマッドは地図に近づき、黒い革の手袋をつけた左手で砂埃を払った。
水色とピンクで色付けされた地図には、残念ながら食料備蓄庫の場所は一般人向けの地図には書かれていないようだ。それでも注意深く地図を見ればおおよその目星はつく。まず目をつけたのは二階の食堂。当然食材を扱う場所なのだから最初に思いつく場所だ。けれどそんなわかりやすい場所にある食料は、世界が滅亡して最初の二、三日で強奪されていることだろう。
他に思い当たるとしたら非常時用保存食料備蓄庫。むしろこちらのほうが本命で、災害時など食料の供給が途絶えた際に使う保存食の倉庫だ。ノーマッドは地図を見ながら怪しげな場所にいくつか目途を付けた。
一つは隣の棟である入院患者病棟の一階にある空白のスペース。もう一つは丁度ノーマッドが立っている上の階。地図には“倉庫”とだけ書かれている場所だ。彼はまず現在地から近い二階の倉庫から調べることにした。
受付の右手にある緑色の椅子が並んだ待合室を通る。定規を当てたように並んでいる八列かける二十行の椅子は、かつてこの病院がそれほどまでに大勢の患者の来訪があったことを容易に想像させる。埃の積もり具合や損壊した様子からして、もう長いこと人が座った形跡はない。役目を全うすることのない、これもまた、骸。
薄暗さと静寂が支配する空間を不気味に感じ、ノーマッドは目を逸らす。
幸い二階へ続く階段は待合室の南側にあり、天窓から差し込む光で比較的明るい。段がところどころ大きく欠けているが、ノーマッドは冷静に足元を確認しながら登っていく。
彼が一階と二階の中間にある踊り場にたどり着いたその時。
からら……、と上の階から小石が転がってきて、立ち止まった。
マントの下で銃を握る。一切瞬きをせず、二階を睨みつける。階段上の右側から、小さな黒い影がゆっくりと姿を現した。
「にゃあおん?」
影から現れたそれは、赤い首輪を付けた一匹の黒猫だった。猫はしばらく上から見下ろしてきたが、軽やかな動きで階段を降りて、ノーマッドのブーツに顔を擦りつけてきた。
「……悪いが、お前にくれてやるほど食料に余裕がないんだ」
ノーマッドは警戒を解いてマントの下から左手を伸ばし、猫の頭を撫でようと身を屈めた。手が触れようとしたその時、猫は途端に牙を剥き「ふしゃあ!」と鳴いて一階へと走り去ってしまった。
伸ばした手はふわふわの黒毛のかわりに無色透明無味乾燥な空気を撫でる。彼は一瞬固まったが、背筋を伸ばして何事もなかったかのように階段を登り始めたのだった。しかし小さな声で「次に会ったら食ってやる」、と呟いた。負け惜しみにも近いその言葉は踊り場の割れた天窓から入り込んだ風に攫われ、誰に届くこともなく掻き消されたのだった。
歩きづらい階段を登り切ると、すぐ左手にお目当ての倉庫があった。
うっすらと錆の浮いた鉛色のドアには、掠れた文字で”非常時用保存食料備蓄庫”と書かれている。さっそく扉を開こうとノブを握って回すと、扉は難なく開いた。その軽さにノーマッドは嫌な予感がした。
恐る恐るドアノブを手前に引いて扉を開け放す。そこに広がっていたのは、駄菓子のようにありきたりでつまらない現実だった。
「クソッ!」
室内には空の段ボールが三つほど床に散らばっている以外は、錆びた金属製の棚が並んでいるだけだ。両の壁際と中央に立つ棚は床から天井まである大きな物だが、何一つ乗せていない。食料はすでに奪われた後だったのだ。
こんな世の中なのだから、当然こんな光景も当たり前。それでも微かに期待していた分、腹立たしいことこの上ない。
「となると可能性があるのは入院患者病棟の空きスペースか……? だが倉庫とも書かれていなかったからな……」
確証がなくとも可能性があるのなら行くしかないだろう。マント越しに背負っている、大きさの割に軽いリュックサックがそう言っているような気がした。
念のため近くにあった食堂にも立ち寄ったが、あるのは空のペットボトルや刃が錆びついたナイフのみ。使えそうなものはないと諦めて入院患者病棟を目指すことにした。
食堂から二階の中央廊下へ差し掛かった時、廊下は完全な暗闇に包まれていた。ノーマッドは警戒して一度立ち止まった。
----からん……ころん……。