4.翌朝
準備に少し時間が掛かって夜になって始まった手術は2時間程で終わったらしい。というのも俺自身は全身麻酔で寝たままで起こされなかったのだ。
で、翌朝になって眼が覚めてから手術のことを由紀に聞かされたからだ。由紀は手術が終わるまで病院にいて、手術が終わった俺の顔を見てから帰ったそうだ。
なのに俺の眼が覚めたときは、日曜日の朝7時なのに既に由紀が病室の俺のベットのそばに座って居た。面会時間ってのは大丈夫なのか。ちなみに俺の病室は理由は知らないが個室になっていた。
「おはよう、勇人。傷の痛みはどう。」
俺の顔を覗きこむようにして潤んだ眼の由紀が言った。眼が覚めたばかりの俺はゆったりと由紀の顔を見つめていた。
由紀の口唇が俺の口脣に近いと思ったら、0距離になっていた。ビューラーで綺麗にカールされたまつ毛の生えた切れ長の眼はうっとりと閉じられていた。頬を紅く染めた蕩ける様な笑顔は朝から刺激が強すぎ大人の女性の色気に溢れていた。
「由紀、いつにもまして綺麗だよ。」
俺は眼を細めて手入れの行き届いた由紀の肌を眺めながら由紀の耳元で囁いていた。続いて右手で由紀の滑らかな髪を撫でた。そして由紀のこそばいような嬉しそうな顔を眺めながら手櫛でゆっくりといい匂いのする由紀の髪を梳かしていた。
幸せな時間が流れるのは早く、気が付くと時刻は朝8時になっていた。廊下から足音が聞こえてノックと共に看護師さんの声が掛けられた。
「望月くん、起きているかな。朝ごはんだよ。」
「はい、起きております。お世話になります。」
俺は丁寧な言葉使いを心掛けて看護師さんに返事をした。
「足の手術後だけど手は大丈夫だろうから、ご飯は一人で食べられるかな。」
看護師さんはサイドボードの上に朝ごはんの乗ったトレイを置きながら尋ねてきた。
「私が手伝いますので大丈夫です。」
俺が返事をする前に由紀がにっこり笑って返事をしていた。
「ええと、お姉さんじゃなくて、友貴くんがお姉さんのように慕っている担任の先生ですよね。それじゃ、すみませんが御願いしますね。」
看護師さんは朝早くから来ている由紀を少し奇妙に思っているようだ。疑問符付きの依頼をして部屋を出て行こうとした。
「そうだ。車椅子もってこようか。ベットに座ったままだと食べにくいだろうし、車椅子に座ったらサイドボードの高さもちょうど良い高さになるから食べやすいだろうしね。」
看護師さんは部屋を出る直前に、車椅子を持ってくることを提案してくれた。
確かにベットに座ったままだと由紀が手伝ってくれたとしても朝ごはんを食べるのも苦労するだろう。右脚はギブス固定をされているので下腿の部分さえどこかにぶつけたりしなければ膝は曲げても大丈夫なので椅子に座るのは問題ない。
「おねがいします。」と俺が言ったところで由紀が「じゃあ、私が取りに行きますね。」と言ってくれたので「桂木先生、すみません。ありがとうございます。」と担任の先生に対する感謝の言葉を述べておいた。
車椅子を看護師さんと一緒に取りに行って戻ってきた由紀はどこか機嫌が悪かった。むすっとした由紀はそれでも丁寧に俺を支えて車椅子に乗せてくれた。左脚を床につけて重心を載せて右脚は持ち上げたままで両手でベット柵と車椅子の持ち手を持って上半身を支えて御尻を横に動かして車椅子に座る。
由紀は車椅子に座った俺のギプスの巻かれた右脚をそっと足置きに乗せてくれた。それから洗面台の前に連れていってくれたので、顔を洗って歯を磨いて朝の身支度を済ませた。その後に朝ごはんを食べようと思ったら、由紀が朝ごはんの乗ったトレイを高く持ち上げて食べさせてくれなかった。
「なんで由紀が怒っているか分かる、勇人。」
由紀がストレートに俺に言葉を投げつけてきた。直前まで機嫌が良かったのに突然悪くなった由紀に戸惑っていた俺は何が悪かったが一生懸命に考えた。そのうちにひょっとしてこれが答えじゃないかというものを思いついた。というか、昨日手術後に見ていた夢の中に答えがあったと思い出したのだ。さらには昨日にもやらかしたことじゃないか。
「ごめん、由紀。桂木先生って呼んで悪かった。由紀のことは由紀って呼ぶ約束したよな。」
俺の答えを聞いた由紀は少し機嫌が直ったようで、
「そうだよ。昔の約束をわすれないで。由紀のことは由紀ってよんでね。いい、学校でも由紀って呼んでよ。桂木先生なんて呼んだら一生口を利かないからね。」
しかし、それは少し無茶だ。
「待ってくれよ。立場ってものがあるだろ。由紀は仮にも教師で俺の担任。それを由紀って呼び捨てにしたら、いろんなところから何て言われるかわかったもんじゃないだろう。」
「なんで由紀って呼んでくれないの。ひどいじゃない。好きだって言ってくれたんじゃないの。それともあの言葉は嘘なの。」
何かいまにも泣きそうな顔をした由紀が朝ごはんの載ったトレイを高い高いしているのは、見ているとシュールだった。しかし状況は俺にとって危機的で笑うところではない。火薬庫に火がつけば朝ごはんがトレイごと俺を目掛けて飛んでくるだろう。
「いや、好きなのは本当だよ。嘘なんかじゃない。由紀に告白出来てなかったことを死んでからどれだけ悔やんだか。昨日由紀に告白出来てものすごく嬉しかったんだよ。」
俺は必死に由紀に弁明した。
「なら勇人は由紀の彼氏になってくれたんじゃないの。由紀も勇人のことが大好きなんだし、両想いでしょ。彼氏彼女なら由紀って呼ぶのは、何も変なことはないじゃない。」
なにやら由紀の言っていることが怪しくなってきた。何がなんでもどんなシチュエーションでも由紀と呼ばないと許されないようだ。どうしたらいいんだ。由紀が暴走している。おかしな論理を持ち出して強引に由紀は、名前呼びを迫ってきた。しかしここは俺たちの未来のためにも粘らないとダメだ。
「わかった。由紀って呼ぶ。でもさすがに呼び捨ては無理だから、誰かがいるときには由紀先生で手を打ってくれ。」
俺は妥協案として、由紀とは呼ぶが先生という尊称は付けることは認めてもらうように御願いした。
「もちろん二人きりのときには学校でもどこでも由紀って呼ぶから。頼む。」
「じゃ、それで我慢する。その代り、由紀は勇人のことを、勇人って呼ぶからね。もちろん学校とかで誰かが居たら友くんって呼ぶようにするけどね。」
それでも油断して漏れたら破綻しそうな案だったが。
「こんど友くんのお母さんに出会ったら、恋人が出来ましたって報告しようかな。その恋人ってのは実は息子の友くんですって。」
由紀の顔が小悪魔になって嬉しそうに楽しそうに倫理的にアウトな発言をしていた。
第三視点で見て、小学校の担任の女性教師が小学校6年生の男の子と恋人になるというのがどう見られるか、少し考えれば分かるもんだろう。犯罪行為と言われる以外ないだろう。逆に男性教師と女子生徒なら世間的に一瞬のうちに死刑を宣告される話だ。
妄想の世界に出発しているらしき由紀の顔は楽しそうで、見ている俺としては俺が死んで12年間のことを思い出し、由紀が嬉しいのならいいかと受け入れることにした。
「まあ、半分冗談っぽく言えば大丈夫かも知れないだろうな。そのうち俺がもう少し大きくなったら本当のことにしてしまえばいいだけだしな。」
半ば諦めも入った俺の言葉を聞いた由紀は
「それってプロポーズしてくれるってことだよね。」
と更に迷宮の奥に沈んでいった。
俺たちの恋を問題なく成就させるのは、10号位の金魚掬いのポイでピラニアを掬うくらい難しいことじゃないだろうか。だが、すべてを打ち払って俺たちの恋は成就させてみせよう。死んでも蘇るくらいの気概で。
とそこで最後の部分が口から声として出ていたらしい。
「本当のことで冗談ではすまないから、死んでもなんて二度と言わないで頂戴。御願い。」
夢から覚めたような由紀が、いまにも泣きそうな顔をしながら訴えてきた。俺は由紀の辛いを過去を呼び覚ましてしまったようだ。冗談ではすまないことをした。
胸が詰まるような思いをした俺はトレイをサイドボードに置かせてから、由紀を抱き寄せて口脣を口唇に合わせた。じっくりと触れ合ったあと、「悪かった。」と謝った。俺の真剣な謝罪は由紀の心に届いたようだ。由紀の顔に仄かな安堵の色が浮んだ。
その後も、俺は涙の滲む由紀の顔をじっくり見つめていた。あまりにも見つめていたので、由紀が少し照れて、「じゃ、朝ごはんたべさせてあげるね♡」といってスプーンを手にとって「あーん」と俺に迫ることになった。
由紀好みの御飯と味噌汁を基本とした朝ごはんを最初から最後まで由紀のお手伝いで俺は完食した。完食後には、洗面台の前に車椅子を移動させてもらって食後の歯磨きを行った。俺が歯磨きをしている間に由紀はトレイを下げにいった。
廊下から「食事はどれくらい食べられましたか。」と尋ねてくる看護師さんに対して、「全部たべさせましたよ。」と少しずれた返事を返している由紀の声が聞こえていた。それでも看護師さんの記録には10割摂取と記載されるんだろうから問題ないと言えばないだろう。
トレイを戻した由紀が部屋に戻ってきて言った。
「そういえばさっき寝ているとき、なんか幸せそうな寝顔だったよ。」
にっこり笑った由紀が嬉しそうに呼び掛けてくる。一瞬夢のことが思い出され般若の笑顔かとドキドキしたが、普通に天使の笑顔だったのでほっとしたのは内緒だ。
「うん、前世の夢を見ていたんだよ。懐かしかったな。」
「いつくらいのときのことを見ていたの。」
「水やりを一緒にやったときのことだな。」
「ああ、あの勇人がひどいことを言ったときのことね。」
「まってくれ。あのとき俺は滅茶苦茶謝って由紀は許してくれただろう。」
「もちろん許してあげたわよ。でも女の子はね、細かいことが大事なんだよ。」
含み笑いをしながら由紀が意味深に言った。
「なんだか瑞希姉さんみたいなセリフだなあ。」
「瑞希姉さん、ああ勇人のお姉さんの。」
「姉さんは元気しているかな、あと颯希や俺のお父さんやお母さんなんかも。」
前世の家族のことを思い出すと俺は切なくなって涙が出てきそうだった。俺の声も心なしか震えて続きの言葉が口に出来なかった。それを見た由紀は黙って俺のそばに近寄りぎゅーっと抱き締めてくれた。言葉はなかったけど俺に取って安らぐ時間だった。
前世に思いを馳せて不安定になった俺は、由紀に抱き締められてしばらくして現世に落ち着くことが出来た。
「ありがとうな、由紀。」
「どういたしまして、いつでも抱き締めてあげるから言ってね。そうだ。夏休みに一緒にみんなに会いにいこうよ、勇人。」
「そうだな。家族みんなに会えるといいな。それに由紀と一緒なら行けそうだな。遠いから俺一人だと俺の両親を説得するのは難しいかも知れないけど、命の恩人の由紀が一緒と言ったら大丈夫だな。」
俺の命の恩人ということになっている由紀は複雑そうな顔をしていたが、俺と一緒に旅行が出来るのならいいやという結論に達したみたいだった。
「それに、前世の家族の他にも会いたい人達もいるしなあ。みんな元気にしているかな。」
俺は前世で付き合いのあった人たちを思い出して、もう一度会って話がしたい気持ちが膨れ上がって抑えきれないようになっていた。
「由紀も長いこと実家にはかえっていないし、勇人の家族にも会ってないから直接は知らないけど、由紀の家族からちょこちょこ知らせはあるんで勇人の家族は元気にしているみたいよ。」
「長いこと戻ってないのか、由紀。どれくらい。」
「大学に入ったときからだから6年目になるかな。勇人が死んだ街に居ると勇人が死んだのを思い出すのが嫌で嫌で帰らなくなったんだよ。だから大学も遠いところを選んで職場ももっと遠いところを選んだんだ。」
「そうだったんだ。俺のせいですまん。でもそれで今の俺が由紀に出会えたのなら運命の糸が前世から切れずに繋がっていたんかも知れないな。」
なんとなくセンチメンタルに俺が赤い糸の話をしたときに由紀はハッとしたようだった。
「なんでか、こっちに就職したいと思ったんだよね。由紀は運命なんてものは信じてないけど、勇人が呼んでくれて勇人に巡り合えたのなら本当に幸せだよ。」
非科学的なことは信じない由紀らしい言葉だったが、俺と再会できたことは素直に喜んでくれているようだ。
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