3.追憶 その1 出会い
「勇人くん、明日の水やり当番一緒によろしくね。」
帰りのHRが終わった後に、水やり当番の相方である桂木さんが笑顔で僕に声を掛けてきた。僕たちの小学校では学校の方針で、自分たちで出来ることは自分たちでしましょうということになっている。
小学校二年生になった僕たちは、クラス全員が理科の学習で朝顔の鉢植えを学校で育てている。その鉢植えに毎朝水やりをする二人一組の当番が順番で決められている。明日が僕と桂木さんの当番だった。
「こっちこそよろしく、桂木さん。」
僕は軽く返事をした。僕は桂木さんとあまり話をしたことはない。もちろん朝の挨拶ぐらい当然するし、連絡事項など必要なことについても会話はする。でもそれ以上の話をすることはなく、僕は桂木さんのことを良く知っているとは言えない。
知っているのは、明るくて男女問わず友達も多いようで、いつも誰かと一緒にいて、何をするのでも楽しそうにしていることだ。ただ僕は女の子より男子と一緒にいるほうが気楽だ。遊ぶのもドッチボールや鬼ごっこなど校庭で男子と遊ぶことが多い。教室で話したり中庭で遊んだりしている女子とは一緒に遊ぶことはほとんどない。
水やり当番のペアは家が近いもの同士で組まれている。先生の話として、いつもより早く登校してくるので、家が近ければ一緒に登校も出来るので少しでも登校中の安全が図れるだろうということだった。通学路にもよるけど、時間的に見回りの爺ちゃんや婆ちゃんが立っていない横断歩道なんかもあったりするからだ。
桂木さんの家は、僕の家の近くだ。なんで知っているかと言えば、僕の小学校には災害時の下校は集団でするという決まりがある。単独行動では危険でも集団で移動すれば助け合うことが出来るし安全な方へ逃げることも出来るというのが趣旨だ。
それで毎学期に1回、防災訓練の一つとして学校の先生も付き添って集団での下校訓練がある。40-50人の大集団で学校を出発して家が近くなってきたら数人の小集団に分かれて各々の自宅に向かう。先生は大集団が分かれて小集団になるまで一緒に行動して、30分は集散分岐点に残っている。
自宅に異常があったり家族が家にいなかったりして帰宅出来なかった生徒達も30分あれば集散分岐点に戻ってこれるからだ。そして帰宅できなかったそのメンバーを回収して再び学校まで連れ戻るためだ。
この大集団は当然のことながら同じ方向に帰る生徒を集めている。学年やクラスも関係なく編成されている。6年生や5年生がリーダーで4年生以下はリーダーの指示に従って行動する。僕は桂木さんと同じ小集団なので家が近いことは知っている。ただ正確な家の位置までは知らない。
「なんか桂木さんて呼ばれるなんてよそよそしいなあ。幼稚園からの付き合いなんだし由紀って名前で呼んでくれたらいいのにさあ。」
僕の返事を聞いた桂木さんは、呼び方が他人行儀だと軽く口を尖らせながら不満を言った。しかし名前で呼ぶほど仲良くないと思っている僕から出た、桂木さんに返した言葉は「え、ごめん。幼稚園一緒だったっけ。」だった。
小さい炎だった桂木さんの不満は、僕の言葉というガソリンを振り掛けられて大きく燃え上がって僕の身を焼くことになった。
「ひどい。一緒だったじゃない。確かにクラスは違っていたけど、家も近いし幼稚園から一緒に帰ることもあったじゃない。覚えていないなんて酷すぎない。」
かなりの御立腹の様子の桂木さんの言葉には険があり僕をぐいぐいと攻め立ててきた。だが僕の記憶の中には本当に桂木さんの姿はない。
桂木さんと小学校1年生のときにはクラスが違ったのは記憶にある。それ以前の幼稚園でクラスが一緒だったのを覚えているのは遊ぶことが多い男子ばかりだ。あと男子ならクラスが違っても覚えている子もいる。でも基本的に女の子と遊ぶことがなかった僕は女の子のことは全くと言って覚えていない。だから当然のこと桂木さんのことも記憶にない。
興味がないというよりも、僕は女の子が苦手なんだと思う。理由の一つは、僕の姉妹の存在だろう。特に二つ上の瑞希姉さんは何かと『女の子はね』と特別扱いを求めるのが口癖で、僕のなかではうざいという感覚しかなかった。関わりあえばあうほど迷惑をこうむってきたんだ。
なんで我が家での決まり事、ゴミ捨ては子供たちの役目なのに、姉さんのゴミ捨て当番まで僕がひきうけなきゃならないんだよ。二つ下の妹の颯希はそこまでじゃないけど、瑞希姉さんと一緒になると口うるさい女の子に化けてしまう。
なんで女の子ってああなんだろうか。だから二人が一緒のときには僕は極力近づかないようにしている。なので学校でも女の子にはなるべく近づかないというのが僕の無意識の行動にあるようだ。
「ごめん。幼稚園で一緒だったことを本当に覚えていないんだ。ごめん。桂木さん。」
僕は正直に話して謝ったが、正直であることは何の効力も持たなかった。桂木さんはぷんぷんと怒ったままで僕を睨んでいた。でも睨んでいるうちに桂木さんの眼にわずかに涙が浮いてきた。僕は女の子の心をきずつけて泣かしてしまったんだと分かった。
そのときお父さんが僕によく言っている言葉が頭に浮かんできた。
「女の子にはやさしくするんだよ。泣かすなんでもってのほかだからね。」
僕は桂木さんを泣かしてしまったことで狼狽えてどうしていいか分からなくなってしまった。
しかしお父さんの言葉には続きがあった。
「それでも何かで女の子をきずつけるようなことがあったら、ひたすら謝るんだよ。許してくれるまで止めたらだめだからな。」
なんで僕はひたすら桂木さんに謝り続けた。
一所懸命に謝り倒して謝り倒した結果、これから僕は桂木さんを由紀と名前呼びすること、逆に由紀は僕のことを勇人と呼びすてにすること、宿題を必ず手伝うこと、由紀に困ったことがあったら僕は必ず助けること、出来る限り一緒に毎日登下校して由紀の自宅まで送り迎えすること、を約束してようやく許してもらえた。
あとから考えたらなんでそこまでということもあったが、女の子の涙は武器だということを身に染みて理解した小学二年生の5月だった。で、このときから由紀のことを桂木さんと呼ぶと機嫌がむちゃくちゃ悪くなるようになった。
翌朝、いつもより早く眼が覚めた僕はお母さんが準備してくれた朝ごはんを急いで食べた。そして学校に行く準備をして忘れ物がないかを確認して家を飛び出した。お母さんからは水やりって早くから行かなくちゃならなくて大変ねえと感心された。
でも、それだけじゃないんだ由紀を迎えに行かないとダメなんだ。遅くなったりしたらどうなるか分かったもんじゃないんだ、という理由をお母さんに言うのも少し恥ずかしく、適当にそうだよと誤魔化した返事をして出掛けた。
昨日はあれから、掃除当番だった由紀を当然のことのように手伝わされた。ゴミ捨てまで付き合ったあと、由紀のランドセルを持って一緒に下校してきた。そして僕の家から歩いて1分程の距離にある由紀の家をここだと念入りに教えられたのは記憶に新しい。確かに至近距離にあった。なのに家の場所を知らなかったと言ったときの由紀の悲しそうな顔を見た僕は胸が痛んでしまった。このうえに家が分からなくなったとかだったらどんなことになるか想像も出来ないよ。
由紀の家に着いて呼び鈴を鳴らすと由紀が玄関脇の窓から顔を見せた。
「おはよう。」
僕は由紀に少しひきつった笑顔で挨拶をした。昨日のこともあって僕は由紀に少しいやだいぶ苦手意識を持っているようだ。少なくとも親しみをもつようなことにはならなかった。
だけど由紀はじーっと僕の顔を見ているだけ。僕は顔に何かついているのかと思って手で顔を触ってみたけど何もついていなかった。それでも由紀は僕の顔を見つめていた。由紀が挨拶を返してくれない理由が分からず困った僕はどうしたらいいかわからなくて眼をパチパチしていた。
何か言わなきゃと思って考えていたら、由紀がようやく口を開いて、「おはよう、勇人。」とにっこり笑った。けど僕にはとても笑ったようには見えず般若の顔に見えた。でもそのおかげで理由はなんとなく察することが出来た。
「おはよう。由紀」と改めて挨拶すると、由紀の顔が般若から天使の笑顔に変わった。真剣に女の子って怖いと思った。名前ひとつで世界がひっくりかえるんだ。賢くなったよ。
準備が出来ていた由紀はすぐに家の外に出てきた。それからふたり並んで僕が左で由紀が右の位置で学校までの10分くらいの距離を歩いていった。通学路になっている道路の右側を歩いていくので、車の通る危ない道路側を僕が歩く形になる。で、その時から登下校だけじゃなくて、お出かけするときにも僕と由紀の立ち位置は常に同じで固定されていた。
いつもの登校時間より30分早いこともあって登校している小学生はほとんどいない。部活の朝練があるらしいジャージ姿の中学生が歩いている姿をちらほら見かけただけだ。そんないつもと違う登校風景のなか、歩いている僕と由紀の二人の間に会話はなくて、もくもくと歩いていた。
僕は何か話さなきゃとは思ったけど由紀とは共通の話題がない。そもそも女の子とどういう話をしたらいいんだ。男子ならゲームの話でもサッカーの話でも出来るけど、女の子は何に興味あるんだ。
僕は頭の中で瑞希姉さんや颯希がどういう話をよくするか思い出そうとした。けれども横にいる由紀の存在が、早く話のネタをみつけなきゃというプレッシャーになって焦って具体的な内容はひとつも思い出せなかった。
「昨日はよく寝られたかなあ、由紀。」
結局僕の口から出た言葉は超ありふれた意味のないものだった。
それでも由紀は返事を返してくれた。
「よく寝られたよ。今日は朝早いから早く寝たしね。勇人はちゃんと寝られた。」
そのときの僕にはわかっていなかったんだけど、人と会話するのに別に特別な話題は必要ないんだ、話をしているうちに話題なんかいくらでも湧いて出てくる。重要なのは相手と相手が話す内容に興味を持っているかどうかだ。
「うん、寝られたよ。でも朝ものすごく早く眼が覚めたんだ。たぶん水やりのことが気になっていたんだと思う。」
「え、早くってどのくらいなの。私は目覚ましを掛けて、いつもより30分早く起きたけど。」
「二時間くらい早く眼が覚めたんだ。でも外がまた暗くて起きるのには早すぎたから、しばらく布団でゴロゴロしてた。それでも、いつもより一時間くらい早くに起きたんだ。お母さんが早いってびっくりしてたよ。」
「へえそうなんだ。でも水やりのことが気になっていたってのは、由紀が一緒ってのが気になってたってことなんかなあ。」
なにやら話が逸れて僕が由紀を気にしていたことになりつつあった。でもそこでそうじゃないよというと虎の尻尾を踏むことになるのは学習していた。
「そうだよ。昨日約束したからね。間違っても遅くなって由紀に迷惑をかけるわけにはいかないからね」
僕は由紀が気になっていたけど迷惑を掛けたら悪いからだと路線変更を図っておいた。
実際のところ僕は基本的には目覚ましが鳴らなくても眼が覚める体質なので、寝坊で学校に遅刻したことはない。たぶんに習慣的なものにすぎないんだろうけど、お得な体質で助かっているのは事実だ。
僕の男友達には朝が苦手で起きられなくてお母さんに布団をひっぺがされて無理やり起こされるんだというやつもいる。朝ごはんを食べる時間がなくて何も食べずに家を飛び出してくるというやつもいる。朝ごはんは大事だよと言っても、朝は寝る時間のほうが大事だと返されてどうにもならない。
「ところで朝ごはんは何食べた、由紀。僕はパンに紅茶だよ。」
由紀のことに話題が戻らない前に別の話に持っていく。
「そうなんだ。勇人んちはパンなんだ。私の家は御飯に味噌汁だよ。やっぱり朝ごはんは米じゃないと食べた気がしないんだよ。」
「え、由紀はパンは嫌いなの。」
「嫌いじゃないけど、なんかお腹が空くというか、給食まで持たないというか。」
「そうなんだ。腹持ちが悪いってことかな。」
なにげない会話にしか過ぎないけど、会話ってそんなものだろう。でもその会話の中から相手のことが分かってくるもんだ。由紀の朝ごはんは米、と僕の記憶領域にしっかり刻みこんでおいた。なんでか知らないけど忘れたらひどい目にあいそうな気がしたのは内緒だ。
そんな調子で特に変わった話をすることもなく、てけてけと歩いていると小学校に着いた。ちなみに朝はさすがに由紀のランドセルは持っていない。でも 帰りは持たないとだめだろうか。
誤字脱字、文脈不整合など御指摘あれば感謝です