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2.救急病院にて

救急車のストレッチャーに乗せられた俺は、救急隊員が電話で交渉を開始しているのをぼんやりと聞いていた。俺の脚は早急に全身麻酔下に洗浄と骨接合術が必要だ。それが可能な麻酔科医と整形外科医が居る病院を探している。


午後早めの時間でもあり夜間帯よりは交渉は難しくはないだろう。ただこの雨で交通事故も多発している可能性がある。既に同じような緊急を要する患者を受け入れた病院なら断られることもあるだろう。だが救急病院を熟知するベテランの救急隊員は受け入れ可能な病院を10分と掛からず探し当て受け入れの承諾を得ていた。


受け入れ先が決まるまで事故現場に救急車は停車したままだった。寝ている俺のそばに同乗した由紀はその間何かを言いたげな様子で救急隊員をチラチラと見てそわそわと落ち着かずにいた。何故早く病院に向かわないのかと尋ねたかったのだろう。早く向かってほしいと言いたかったのだろう。その気持ちは分かるし有り難い。俺のことを心配してくれているのも分かって嬉しい。


その反面、由紀の精神的な負担が大きいことも気になった。世間的にも現実的にも俺と由紀は教え子と教師の立場だ。たまたま一緒にいて事故にあったが、教え子が怪我をして教師が無傷というのでは何かと言うやつが出てくる可能性がないとも限らないだろう。


そして俺に万一何か問題が生じれば由紀に責任が飛ぶ恐れもある。なにせ授業で使用する画材を一緒に買いに出かけた途中で事故にあったのだから。俺は由紀を護るために暗くなりがちな見通しを全力で打ち払う覚悟を決めていた。


救急車は受け入れ先が決まらないうちには発車出来ない。適当に走っていて受け入れ先が逆方向だったら余計に時間のロスになるからだ。焦っても停車したままで行先を決める以外にない。受け入れ先が決まって発車しますという救急隊員の声を聴いた由紀は傍目からもほっとした様子だった。


他の車に道を譲ってもらいながら走行し、左程の時間も掛からず救急病院に救急車は到着した。病院に滑り込んだ救急車は、後ろハッチが安全確認の後に揚げられた。俺の乗ったストレッチャーは引き出され、ガタガタしますよと声を掛けられながら救急室へ移送された。鍛え上げられた救急隊員と白衣を着た医師や看護師に抱えられて救急車のストレッチャーから救急室のストレッチャーへと移された。そのときの衝撃が右脚に響き、痛みで俺の口から呻き声が漏れた。


救急隊員の簡潔で要点が押さえられた事故と外傷の概要の説明を受けた医師は俺の診察を開始した。俺は、頭を含めて一通りの診察が終わって右脚以外には急ぐ問題点がないと判断された。レントゲンと採血などの検査の指示を出され、骨折の治療のためには入院が必要であることが説明された。そしてストレッチャーに乗せられたまま病棟へ連れて行かれた。医師からは検査結果が揃ってから家族に病棟で病状と今後の方針について説明するから一緒に話を聞くようにと言われた。


病棟に行く前に俺は着ていた服をすべて剥ぎ取られ病衣に着替えさせられた。肉体年齢は12歳でも精神年齢が24歳である俺としては羞恥プレイにしかならなかった。看護師さん達は俺がどう思っているかは関係なく淡々と作業をこなしていった。同時に右脚の傷も洗浄消毒されたが、焼けバシでえぐられる様な痛みに顔面は蒼白となり脂汗がだらだらと流れた。


医師は出血が止まっている傷を詳細に観察しながら、感染は怖いが綺麗な傷だから今日手術をして繋げてしまおうと呟いていた。若いしすぐに骨は直るだろうしねと俺の顔を見ながらにっこりと笑って言った。が、痛みに悶えている俺にとっては端的に言って何の慰めにもならなかった。


同乗してきた由紀は救急車から降りた時点で事務員に声を掛けられ手続きをするために受付に案内されたようだった。病棟へ連れていかれる時に、保険証が財布の中にあることを思い出した。俺は自分で財布から保険証を取り出して救急室に居た看護師さんに由紀に届けてもらうように頼んだ。


「お姉さん?に届けたらいいんだよね」

頼んだ看護師さんは由紀よりは少し年上に見える。いかにも仕事が出来ますというオーラが出ている綺麗なセミロングの女性だった。白衣を着てマスクをしている看護師さんは全員美人に見えてしまうと思う。この俺の個人的な感想は余計なことだし由紀には伝えないほうがいいだろう。今の俺には由紀が最高だというのが一番大事なことだ。


由紀のことは何と説明したら良いか、というか由紀が何と言っているかが分からない。なので単純に手続きに必要な保険証がここにあるので届けてほしいとのみ看護師さんには告げた。その看護師さん視点ではお姉さんという認識になっていたらしかった。確かに12歳差というのでは母子では無理があるし、恋人というと今の外観年齢では犯罪になりそうだし、年の離れた姉弟が一番無難な設定だろう。


「ものすごく心配していたね、涙流してお姉さん。愛されているわねえ。弟くん。」

だが続いて少し笑いながら看護師さんに言われたセリフに俺は少しドキッとして胸が高まってしまったのは事実だ。さっきの事故で由紀との距離は縮まったが、由紀の思いがどれほどであるかは正確には理解が出来ていないのかも知れない。


検査を受けてから病室に入った俺は再びストレッチャーから病室の自分のベットに移されるという苦行を経験したのちようやく解放された。ナースコールの位置と使い方を説明されたあと、検査結果が揃って家族が到着するまで自由にしていたらいいよと看護師さんに言われた。


と言われても右脚はガーゼが当てられ包帯はまかれているが添え板で固定されており動かすことは禁じられている。歩くことも出来ず話相手も居らず携帯すら何処かに行って手元にない状況では自由になるものが何もない環境でしかなかった。仕方なく俺はしばし昼寝をして休憩することにした。


「友くん、友くん」

囁くような声と共に、耳に息が掛けられていることに気が付いた俺の意識は現実に浮上してきた。眼を開けると慈愛と心配に彩られた由紀の顔が至近距離に見えた。


「良かった。眼を覚まさないんじゃないかと心配したんだよ。」

由紀の眼は潤み涙がこぼれそうになっていた。どうやら何度も声を掛けられたものの意外と疲れていたのか、あるいは事故の衝撃が精神に負担を掛けていたのか、俺はなかなか起きなかったらしい。声を掛けても起きない俺に動揺した由紀はナースコールに手を掛けて押す寸前だったようだ。


「心配掛けてごめん。ぐっすり寝ていたみたいだ。でも御蔭で元気が取り戻せたみたいだ。それに無事な由紀の顔が見れて安心したよ。」

俺は泣きそうなっている由紀をあやすように笑顔を見せて答えた。由紀の泣き顔は見たくないな。笑っている顔がいい。何度目かの決心と共に俺は右手で由紀の髪をゆっくりと撫でた。


昔から髪を撫でられるのが好きだった由紀は、俺に髪を撫でられたことで昔を思い出したのか、ニマっとした安堵した笑顔になり、友くん大好きだよと言いながらやわらかい口唇を俺の口脣に押し付けてきた。


心が温かくなり唇が離れたあとも、由紀の笑顔を見ながら満ち足りた気分になっていた。ふと壁に掛かった時計が目にはいり、時刻が16時になろうとしていることに気が付いた。既に事故から二時間以上が経っていた。そのとき廊下から俺に病室の説明をしてくれたこの病棟の担当の看護師さんの声が聞こえてきた。


「友貴くんは、お姉さんと一緒におられますよ。」

その声に対して答えた声は俺の父親のものだった。しかし案内をしてくれた看護師さんの言葉に対して疑問と不審の音色がこもった返事だった。

「お姉さん?私たちには娘はいますが、友貴にとって姉ではなく妹なのですが。」


妹が俺と一緒に居るのか、妹なのに姉と勘違いされているのか、俺には父親の頭が疑問符で占められている姿が見えていた。由紀のことを俺の姉と思っている看護師さんは何の疑問も持たずに(由紀)が俺のそばにいると話したのであろうが、父親の返事を聞いて混乱した様子であった。妹には絶対見えないあの女性(由紀)は一体だれなんだろうかと。


看護師さんと父親の会話を聞いた俺は交差した糸が絡んで解けなくなる前にほどくことにし、俺から声を廊下に向けて放った。

「ああ、看護師さん済みません。桂木さんは血のつながった姉というわけではなく、姉のように慕っているが正しい表現です。誤解するような話をして申し訳ないです。」

俺の声を聞いた看護師さんと俺の両親が早足で病室に入って来た。そして由紀の顔を見た俺の母親の言葉で俺と由紀の人間関係が正着し、誤解が正された。


「まあ、桂木先生じゃないですか。友貴がいつもお世話になっております。」

母親は頭を下げた。由紀は家庭訪問で俺の家に来たことがある。父親は顔を合わしていないが、話好きな俺の母親は由紀を捕まえて30分以上も話込んでいた。内容は主に俺のことではなく若くて綺麗な由紀に恋人がいるかどうかという、由紀にとっては家庭訪問って意味知ってますかと言いたくなるような状況だったのを俺は覚えている。


そういえばあの時、由紀は自分は恋をする資格はないので私に恋人は居ませんと言っていたな。そんなことは言わずに新しい恋をすれば良いと思ったが、理由は考えるまでもなく前の俺が原因だったんだな。


家庭訪問のときのことを思い出しながら、ふと由紀の顔に視線を移すと、なぜか由紀は微妙に口を尖らせた不満げな顔をしていた。いまの今まで笑顔だったものが、急に変わったわけがすぐに思い当たらず俺は何か地雷を踏んだのだろうかと人知れず汗が背中を流れるのを感じていた。不満げな由紀を見つめていると由紀の唇が僅かに動いて声にはならないが「恋人」と言ったのが俺の眼には分かった。


どうやら姉のように慕っているという表現をしたことが実の姉ではないと言ったことよりも問題で、更には桂木さんと呼んだのが他人行儀で一番の問題のようだった。この場で恋人宣言が出来るわけもないことを分かってほしいと切に思った俺は目線で「あとでゆっくり話をしよう。」と由紀に伝えた。目線の意味を理解してくれたのか由紀の不満げな顔は速やかに四散して穏やかなしかし生真面目な先生の顔になった。


「いえ、こちらこそ今回は御迷惑をお掛けしました。」

由紀が、母親と初対面の俺の父親に向けて言葉を返した。

「いや、事故のとき、とっさに担任の桂木先生が俺をひっぱってくれたから、軽傷で済んだんだよ。感謝こそすれ、わびを言われる筋合いなんかないよ。」


俺は事態を都合よく進めるために早口で事実と異なる真実を両親に向けて飛ばした。俺の言っていることが理解できないという由紀の胡乱な視線を感じた。だが、由紀の立場を悪くする意志も意図もない俺は、強引に事故のときに由紀が俺を庇ったことで俺は軽傷で済んだ、というストーリーを組み上げ、この場にいる全員の共通認識にしようとした。


「そうだったんですか。それは本当に申し訳なくありがとうございます。」

由紀と初対面である俺の父親は、俺の言葉を咀嚼すると由紀の方を向いて深々と頭を下げた。その姿は息子を護ってくれた担任に対する敬意と感謝に溢れた父親そのものだった。


俺は若干の心の痛みを感じながらも終わり良ければすべて良しという理由にもならない諺を正義の盾として事態の収拾を図った。その場に案内してくれた看護師さんも色々な疑問が残っているようではあったが、一応状況を受け入れてくれたようだった。


「皆様、お揃いと聞きました。」

ちょうとタイミングよく主治医が、足音をほとんどさせずに、笑顔で病室に軽やかに入ってきた。背は高く頭はスポーツ刈りにしている痩せた整形外科の先生だ。手には検査結果の資料の束を持っている。その先生は救急室で俺の傷を丹念にチェックしてくれた医師でもあった。


「今日のうちに手術を行いたいですし、麻酔のことも含めて、病状説明と今後の方針を説明させて頂きたいのですがよろしいでしょうか。」

先生の登場を契機として俺と由紀の関係や事故の際の話は一旦横に置かれた。別室に移動した俺たちにはこれからの話が進められることとなったのだ。


俺の手をしっかりと握った由紀も、なりゆきでか当然のように話を俺の横で聞いていた。俺の命の恩人に模された由紀に対しては誰も何も言わなかった。そして横から見た距離がかなり近い由紀には満足そうな笑みが浮かんでいた。


誤字脱字や文脈異常や矛盾を御指摘頂ければ幸いです。

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