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復活の呪文(2018u)

作者: 長矢 定

●登場人物

■ライル・ガービット(36)コスモ重工第五製造部、営業技術

□グリフィン・ハーグ(51)企業経営者、大富豪

◇シェリル・ハーグ(享年21)グリフィンの一人娘、旅客機墜落事故の犠牲者

◇リリア・リンゼイ(24)身代わり。ハブ空港内、時空転移展示ブース・アテンダント

□コリンズ(40代)認証システムの調査員

□ルイストン(50代)グリフィンお抱えの弁護士

□パターソン(40代)グリフィンの部下。経営戦略室


    プロローグ


 大きな葬儀会場には多くの参列者があった。

 幅広の祭壇には無数の生花が幾重にも並び、中央には微笑む女性の巨大な遺影が置かれている。一際打ち沈む夫婦の姿。参列者は若くしてこの世を去った女性を偲ぶ……

 二四世紀となった現代において、航空機は安全な乗り物としての地位を築いたはずだった。

 しかし、二〇〇人を乗せた旅客機は何らかの原因でコントロールを失い、一万メートルの上空から真っ逆さまに墜落し大地に激突した。激しい損傷、飛散した機体。細切れになった肉片を回収してDNA鑑定を進めると、幾つもの巨大企業を経営する大富豪グリフィン・ハーグの一人娘、シェリルのものが見つかった。

 まだ、二一歳の若さだ。

 世界有数の敏腕経営者、大富豪であっても一人娘の命を取り止めることなどできない。せめて大きな葬儀を執り行い、多くの人と共に娘の冥福を祈ることしかできなかった。




    一


 ガランとした広い部屋の中央には、特徴的な大型円形パッドが床と天井部に向かい合わせで設置されていた。

 どこからか騒音が響き、次第に大きくなる。パッドに挟まれた空間が目映く輝きだす。騒音と光りがピークに達し、唐突に弱まる。真っ白に輝いていた光りが薄まり、パッドの上には幾つもの座席が並ぶパレットが出現していた。凍ったように固まる人影がある。

 目映い光りが消えたのを切っ掛けに、座席に座る人の体が解けたように動き始めた。周囲を見回してからシートベルトを外し、立ち上がる。座席の周りに置いた手荷物を持ちパッドを降りると、扉が開いた通路に向かって歩き出す。

 ライル・ガービットは周囲の人の気配がなくなるまで目を閉じて座席に座っていた。時空転移の余韻を感じ取ろうと努力する。

 今の自分は、さっきまでの自分とは異なる存在だ。ただそれは、体内の細胞が日々新しいものと代わっていることと根本的には同じだ。

 先進科学技術によってその体は分子レベルに分解され、時空宇宙に拡散した。自身の存在が消失する。同時に拡散する物体の構成情報を具に記録し、通信回線を使用してそのデータを転移先となるハブ空港に送る。そこで構成レシピとして参照しながら、時空宇宙に散らばる素材を掻き集め元の形に再構成する。厳密にいえばこの体は、以前とは異なる組成だが、その本質は変わりない。ライル・ガービット当人であることは揺るぎない。

 微小世界で細かく複雑な処置を何度も繰り返すことになるが、その大半の作業を時と空間を超えた宇宙で行うため人間にとっては瞬時に場所を移動したことになる。申し分のない移動手段だ。

 ライルは長く息を吐き、目を開けた。ベルトを外し立ち上がる。体調によっては目まいが起こることもあるようだが、今回もその症状は現れなかった。足下の鞄を肩に掛けパッド降りる。最後尾から通路の先の入管審査へ進んだ。

 審査は生体認証により手早く済むはずだ。しかし、列の前にいた若い男性がカウンターに立った時、両側から数名の警備員が歩み寄り彼を取り囲んだ。別室に連れて行こうとする。驚き、戸惑い、抵抗する若者。警備員は彼の手荷物をチラチラと見て、気にしている。おそらく、構成レシピのデータに持ち込み禁止の品物が検出されたのだろう。一悶着の末、若者は開き直り別室へと歩いた。審査が再開される。

 ライルは入管審査を終え、トランジットエリアに出た。

 海に突き出した大きな半島に広大な敷地を有するハブ空港が造られた。その中核を成すのが時空転移だ。世界各地の巨大空港には転移パッドが設置され、網の模様のように繋がり多くの人が行き来をする。航空路線には幾つかの長距離航路も残っているが、ここを離発着する旅客機の大半は近隣の空港とを結ぶローカル路線だった。

 同じ便で転移してきた人たちは、それぞれの目的地に向かって散らばっていった。ライルは航空機を利用するのではなく、地階へのエレベーターに進む。ここからは列車移動になる。


 ライルは、高い塀で囲まれた広大な敷地を有する豪邸の前でタクシーを降りた。車体から離れるとドアが閉じ、無人のタクシーは走り去る。黒光りの鉄パイプが模様を描く門扉があったが、それは閉ざされていた。

 青空が広がり穏やかな日差しが降り注ぐ。頬を撫でる風が心地良い。ライルは大きく深呼吸をしてから門扉の脇へ進み、呼び鈴を押した。

「どちら様ですか?」とインターフォンが応じる。

「お約束をしていますコスモ重工のライル・ガービットです」

「はい、伺っております。どうぞお入りください」

 ガチャリと金属音がして門扉が動いた。一メートルほど開いて止まる。そこを擦り抜けた。

 緑豊かな庭園。真っ直ぐな道が延びる。どっしりとした邸宅までは距離があった。ライルが足を進めると、背後で門扉が閉じる。緊張から胸が高鳴った。

 ライルは美術品が幾つも並ぶ広い部屋に通された。遠慮気味に、重厚感が滲むソファーに腰を下ろし、じっと待つ。漂う威圧感に押し潰され、喉が乾いた。三六歳にもなってビビるとは、みっともない。しっかりしろ!

 凍りつくような時間が流れ、部屋のドアが開いた。恰幅の良い男性、グリフィン・ハーグだ。ライルは直ぐさま立ち上がった。生唾を呑む。

「ご苦労様です。わざわざ来ていただき申し訳ないです」

「いえ、とんでもない……」

 世界に名だたる敏腕経営者、幾つもの巨大企業を束ねているが五一歳の若さだ。ライルが勤めるコスモ重工も、彼の経営企業だった。その重鎮から突然、名指しで彼の邸宅に呼び出された。なぜ? 何用で……

「どうぞ、座ってください」

 グリフィンはライルの対面に立ち、片手を差し出して腰を下ろすようにと仕草をした。ライルは、グリフィンがソファーに座ってから自身も腰を下ろす。それに合わせてメイドが香りのよいコーヒーをテーブルに置く。勧められ、一口啜った。

「今日聞きたいのは、ガービットさんの仕事についてです。時空転移システムの営業技術ですよね」

 ライルは頷く。

 コスモ重工は、主に宇宙進出に関わる機器・設備、施設などを設計開発・製造設置する企業だった。その中で人員や物資を素早く移送する時空転移システムは欠くことのできない設備になる。重要製品の一つだった。

「あの……。私の仕事の何を知りたいのでしょうか」

「そうですね。主に行う作業は、どういった事になるのですか」

 ライルは、その眉を小さく歪めた。そんなことを聞いて何になるのか? 経営者の注目を浴びるような仕事ではない。しかし、素直に答えるしかなかった。

「営業技術という肩書きですが、仕事は技術関係の現場の何でも屋、といったところでしょうか。何か不具合が発生したら飛んで行って対処する。信頼性を保つために現場でのメンテナンスを行う……。数年前まで時空転移システムの設計開発部門にいましたから、納入製品の細々したことにも対応対処できると自信を持っています。時空転移に不具合が生じ移送が滞ると宇宙での活動に支障が出ますので、そうした問題を未然に防ぐことが重要になります」

 まあ、悪くは無い答えだと、ライルはホッと息をした。

 グリフィンが頷く。

「確かに重要ですね。しかし、それならば製品の保守・管理部門を新設し、そこで対応するのが望ましいように思いますが、営業技術の肩書きでそうした仕事を行っているのは、なぜですか」

 ライルはその問い掛けに思案した。

「商品市場が小さいからではないでしょうか」

「市場が小さい……」

「ええ、時空転移に関する目論みは、世界の各地に隈無く転移パッドを設置し、人々の日常的な短距離の移動にも利用してもらうことだったと思います。街中に点在するバス停のように、身近に転移パッドがあり、朝それを使って火星の職場に出向き、夕方に家族が待つ自宅へ帰る……。そのような未来の生活のイメージが広告戦略によって広がりましたが、残念ながら思惑通りには進みませんでした」

 グリフィンが険しい顔付きで唸った。

 ライルは一呼吸置いてから話しを続ける。

「問題としては、転移パッドの普及に伴う社会不安、犯罪増加への懸念などがあります。転移パッドは世界中に繋がります。密輸や密入国など犯罪の温床に成りかねない。国の統制が乱れ、人々は混乱する。効果的、決定的な犯罪防止手段があればよいのでしょうが、それがない状況では転移パッドの導入に尻込みをしてしまう」

「時空管理機構が転移パッドの不正使用を監視するはずだが……」とグリフィンが口にする。

「時空管理機構の監視は、時空転移の検出可能な物理現象に目を光らせている程度です。たとえば、未登録の場所で転移が起きたら不正使用と判断できますが、転移した物が密輸品なのか、不法入国者なのか、といった情報を物理現象から掴むことはできません。そうした取り締まりは従来の手法に頼ることになりますが、人や物の出入り口が街中に幾つもあっては当局も悲鳴をあげるでしょう。治安維持の点からも転移パッドの普及には反対することになります」

「時空転移は、構成レシピのやり取りによって成り立っているはずだ。それは通常のデータ通信になる。不正の監視はできると思うが……」

「そうですね。ただ、構成レシピの移送は別の手段があります。たとえば、ポケットに入る記録メディアに情報を入れて国境を越す。それを転移パッドで実行すると、密入国者がゾロゾロと出てくる。それも不可能ではありません」

「いろいろな裏ワザを編み出す、ということか。厄介だな」

「ええ、そうした事情から地球上の転移パッドはハブ空港などの交通要所に設置され、不正使用を厳重に監視する設備や人員を確保します。そうやって犯罪を取り締まり、社会の混乱を避けていることになります」

「従って、市場が狭いということか」

「ええ、ですから転移パッドの保守・管理部門を新設するより、営業技術の肩書きで細やかに動く方が良い、という判断になると思います」

「なるほど……」とグリフィンは何度か頷く。

 時空転移を用いた新たな経営戦略を考えていたのだろうか。だとしても、グリフィンの表情から察すると芳しくないようだ。このために遠距離を飛んできたことになるのか……何か空しい。

 長考する経営者を前にしてライルは居心地悪そうに身じろぎした。コーヒーカップに手を伸ばし、ゴクリと飲む。

 その時、グリフィンが顔を上げ、鋭い目でライルを見た。

「時空転移の事情には明るいようですね」

 ライルはドキリとし、カップをテーブルに戻す。

「一応大学から、時空転移に関わっていますので……」と答える。

「やはり、あなたが適任のようです」

 何かの値踏みをしていたのか? 合格のようだ。

 グリフィンは体を揺すり、大きく息をした。

「実は……」と思わせぶりな顔をする。

「転移パッドを使った新たな試みを考えています」

「新たな試み、ですか」

「時空転移は、研究開発の当初からその運用に幾つかの懸念がありました。もちろん、ご存じだと思いますが、複製や構成レシピの意図的な修正の話です」

 ライルは、ぎこちなく頷いた。危うげな話しに踏み込んでしまったような気がする。この状況では逃げ出すことができない。

「人体複製にはいろいろな問題があるようですが、基本的に不可能なことではないようですね」

 ライルは目を丸くした。時空転移で構成レシピを得たら、それを何度も使えば同一人物の複製ができることになる。理屈の上では……。

「不整合が起きます。時空宇宙に散らばる物質を使い続けると歪みが生じる。宇宙の崩壊を招く危険な行為です」

「そうなるようですね。だったら整合性を保てばいい。すり替えですよ」

「すり替え?」

「単純な話です。転移を行い、再構成の段階で別の人物の構成レシピとすり替える。そうすれば宇宙の整合性を保ったまま複製人間が仕上がる。可能でしょう」

「ですが、元の人物が消失してしまいます」

「ええ、でも、複製した人間の役目が終わったらもう一度転移を行い、元の人物の構成レシピに戻す。これで復活します」

 ライルは顔を顰める。

「そんな身勝手な……。必ずトラブルが起きます」

「そうでしょうね。これは理屈の話です。実際に行うと間違いなく面倒なことになるでしょうね」と笑った。

 本気で複製人間を考えているのではないのか……。しかし、能力のある人物が忙殺に悩み、体が幾つあっても足りないなどと愚痴を言う時がある。複製を生み出し、仕事を分担するような時代が来るのだろうか?

「しかし……」グリフィンの顔から笑みが消えた。険しい表情になる。

「これを応用すれば、命を落とした人間の蘇りも可能でしょう」

 命を落とした人間……。若い女性の顔が頭に浮かんだ。ニュースにもなった葬儀、経営者の一人娘の死を知らない社員などいない。

「お嬢様の、蘇り……」とライルは呟く。

 グリフィンの表情から、これは本気だと感じ、ライルは身を震わせる。とんでもないことに巻き込まれた。

「しかし、幾つか問題があります」

「確かに簡単にはいかないだろう。知恵を絞らないといけない」

 ライルは実現不可能な事由を頭の中で探っていた。

「第一、お嬢様の構成レシピが必要です」

 亡くなっていては転移もできない。決定的だ。

「シェリルは、墜落する飛行機に乗る前、時空転移でハブ空港へ移動しています。構成レシピは一定期間保管されます」

 転移が完了した時点で参照した構成レシピは消去される。それが運用ルールだ。一方、転移元の施設では、転移先へ送付した構成レシピのオリジナルデータを一定期間保存することになっていた。そうする理由は、時空転移における人員移送の最初の試みの時まで遡ることになる。

 一〇〇年前、二三世紀の初期。時空転移は無機物に限定され、有機物を扱うことができなかった。有機体を転移すると植物は枯れ、動物も絶命してしまう。これは研究段階であった転移システムの不備が原因だったが、これを乗り越えるには多くの時間と努力、才能が必要だった。

 一つの成果を得て、動物実験を繰り返し、いよいよ人体で試す時期になる。最初の被験者は四〇代の女性。彼女の勇気と決断により人体試験が行われた。

 転移・消失……再構成。

 試験は成功したかのように見えたが、その直後から彼女の体調が著しく乱れる。時空転移が原因であることは明らかだが、どこに問題があるのかわからない。研究が始まる。

 長い時間をかけ、問題がはっきりしてくる。対応策もできた。ただ、体調が戻らない最初の被験者をどう救済するか……

 研究試験であったため、全てのデータをキッチリ保管していた。その中には転移を始める際の各種のセンサーが取得したデータ、被験者の生体情報であるアナログデータも含まれている。構成レシピを作るための基データだ。このアナログ生体データから改めて構成レシピを作成する。不備を対策したレシピだ。そしてもう一度、体調の悪い被験者を転移した。再構成の際に対策済みのレシピとすり替えて……

 この試みにより最初の被験者は健康を取り戻した。ただし、過去の基データを使用したため、体調を崩した時期の記憶はない。年齢もその年月、若くなっている。

 この経緯から二四世紀の時空転移においても、基データになるアナログ生体データを一定期間保管し不測の事態に備えていた。

「いえ、データの保管は厳重です。他の目的には使用できません。それに保管期限を過ぎています。既に消去されたでしょう」

 そのライルの言葉にグリフィンは口元を緩めた。

「それは問題ありません。シェリルの構成レシピは、私の手の内にあります」

「手の内にある? そんなバカな、有り得ない……」

「そんなことはありません。データの保管には人の手が介在します。難しい話ではありませんでした」

 ライルは唖然とする。グリフィン・ハーグの地位とお金、突出した経営戦略を実現するための常套手段を使ったということか……。背筋が凍った。既に抜けられない深い穴に嵌まっている気がする。

「後は、すり替えを上手く行うことになります」

「すり替え……」

 本当にやろうとしている。それは間違いない。しかし、倫理や規律を無視する暴走行為だ。ひとりの人間を抹殺することになる。罪は重い。

 グリフィンは悲しげな表情で口を開いた。

「シェリルは二一歳の若さで突然命を奪われました。哀れです。妻はこの現実を受け入れることができない。元気な娘に一目だけでも会いたい、そればかりを口にします」

「一目だけ……」

「ええ、元気な娘と一時を過ごせば、満足するでしょう」

 それは違う、方便だ。蘇った娘を手放すことなどできない。

「報酬は弾みます。手を貸してもらえませんか」

 ダメだ。お金の問題ではない。しかしこれを断った時、自分の身はどうなるのか? 危うい企てを知った男を野放しにするだろうか。敏腕経営者の周囲には不穏な噂も少なくない。妻と子に魔の手が伸びることになりはしないか……




    二


 広大な敷地を有するハブ空港。

 近くの海浜地区には様々な商用施設が立ち並ぶ。どれも大規模な施設だ。その要所を鉄道とバス、船が結んでいた。

「リンゼイさん、ですよね……」

 空港地階にある駅のホームで、リリア・リンゼイは一人の中年男性に声を掛けられた。心の声とは裏腹に、笑顔をつくって振り返る。どこか見覚えのある顔……。おそらく展示ブースで接客した人だ。身分証に書かれた名前を見たのだろう。ぞんざいにはできない。会釈をした。

「コスモ重工のガービットです。転移パッドの教習でお会いしましたよね」

 リリアはハッとした。

「先生、ご無沙汰しています」

 ライル・ガービットは困惑の笑みを浮かべる。

「その先生というのはやめてください。教習会の講師をしただけですから」

 リリアも心の底から笑った。

「すみません、ガービットさん。今日は、どうされたのですか」

「ちょっとした打ち合わせですよ。リンゼイさんは上がりですか」

「ええ、事務所に寄ってから帰るところです」

「深夜勤務ですか」

「はい」と頷く。

「大変ですね」

 その労いにリリアは笑みを返す。ハブ空港は二四時間運用だ。彼女の仕事もそれに合わせた勤務体系になる。

「幾らか慣れました……」

 ホームに列車が入ってきた。二人はそれに乗り、座席に並んで座る。

 リリアが就いた仕事は、宇宙事業に関わる巨大企業の未来を見越した広報・周知活動だった。

 ハブ空港の時空転移エリア、幾つか設置された転移パッドのなかで一番小型のパッド施設を改修し、展示ブースも整備された。時空転移を活用した未来の街を紹介し、防眩ガラス越しに転移の様子を見ることもできる。

 そのパッドは時空転移を導入した初期に設置されたもので、それを収める施設の造りもこぢんまりしていたが、小型故に近年の大量移送に対応しきれず運用実績が低下していた。そこで時空転移の広報・周知に活用することになった。

 特例として海浜地区に設置された仮設転移パッドへの専用路線として運用を限定する。空港から商用施設の中心地へ瞬時に移動でき、人気の巨大テーマパークにも素早く行くことができる。利便が格段に良い。

 今回ライルは、仮設転移パッドの設置とシステムの立ち上げ、初期段階の運用に関わった。その流れでリリアを含む新しく採用されたアテンダントの技術的な基礎教育に講師として加わることになる。その教え子となる彼女たちは今、運良く転移チケットを入手できた人々を案内し、ブースに来た人の素朴な疑問に笑顔で答える忙しい日々を送っていた。

 この広報活動には、時空転移の更なる普及を狙うコスモ重工の思惑がある。敏腕経営者グリフィン・ハーグの新たな戦略として経済界からの注目も集めていた。

 列車が走り出す。

 二人も空港から専用転移パッドを利用すれば商用地区の目的地に素早く行くことができる。しかし、広報・周知の設備であることから関係者がこのパッドを利用することはなかった。二〇分を掛け、各駅停車の列車で移動する。

「どんな様子ですか」とライルが尋ねた。

「みなさんの関心は高いですね。ハブ空港という場所柄もあるのでしょうが、移動時間を短縮したいという願いが根強いようです。自宅の近くのパッドから目的地まで一気に飛ぶ、という時代の到来を待ち望んでいますね」

 ライルは何度か頷く。そうした願望が社会に広がれば、時代が動くことになるだろう。広報・周知活動が実を結ぶことになる。

「少し前にブースに来た人に聞かれたのですが、個人の家にパッドを設置できるのはいつ頃になるのでしょうか」

 その問い掛けにライルは顔を顰めた。

「いつ、ですか……。難しい質問ですね」

「電話のような使い方ができるのではないか、と仰っていましたが……」

「電話?」

「ええ、最初に通知が届く、どこの誰が訪問したいと言っている。それに応じるか、応じないか判断することができる。通知される相手によって出る出ないを判断できる電話と同じです」

「電話、ですか。しかしそれでも、密輸や密入国などの不正な利用を阻止できませんからね……」

「それは利用者の素性を徹底管理するしかありませんね。犯罪者の利用を除外する。善良な市民が便利なサービスを受けられないのは割が合いません」

 そう考える人もいるが、些か問題だ。

「不正利用の抑止にもなります」

 ライルは唸った。

「営業技術の私には、難しい話ですね」と苦笑いをする。

「すみません。私にとっても難しい話なんですが、ブースにいらっしゃるお客さんが、いろいろなことを仰るので混乱してしまいます。でも、便利なものがすんなり使えないのは、やっぱり変ですね」

「それだけ社会が複雑ということなんでしょうね。複雑だから便利を求める。しかし複雑で混乱しているから、あちこちに歪みが生じる。上手くいかない……」

「そうですね……」

 リリアは視線を落とし思案する。

「商用地区に仮設仕様の転移パッドを設置することになったのも、この鉄道会社の反発があったからだと聞きましたが、どういうことですか」

「この鉄道会社というより、在来交通機関の世界的な業界団体ですよ。近隣への時空転移の導入を阻止しようと動いていますからね。彼らにとっては死活問題に成りかねない。今回の計画が特例になったのも、そうした背景事情があるからです。大型の常設パッドではなく小型の仮設パッドを使い、問題が発生したら直ぐに撤去する、という取り決めで折り合いをつけたんですよ。まあ、我々としては業界団体の主張より利用者の要望が圧倒的に上回ることを期待することになりますね」

 リリアは頷きながら聞いていたが、その頭の中は仕事で感じる様々な疑問が次々と浮かんでいた。

「あの仮設パッドって、今回の計画のために新しく造ったものなんですか」

「いえ、あれは火星屋外用として商品化されているものを流用したんです」

「火星屋外用……」

「ええ、施設の建設現場で使われます」

「どんなふうにですか?」

 ライルはビクリと顎を引いた。

「どんなふう……。火星のどこかに新しい拠点を造ることになったとします。まず、在来手法で仮設パッド一式を運び、それを現場で組み立ててから建設資材や機材、作業に従事する人員を送ることになります」

「屋外に設置する?」

「一番最初に運びますからね、建物なんてない。火星の荒れ地に設置します。わかりやすく言えば、野ざらしですよ」

「野ざらし……。バックヤードの設備は大掛かりなもののようですが、運んで組み立てるのも大変なのでしょうね」

「空港の設備は規模の大きなものですが、仮設パッドの設備はコンパクトに仕上げていますよ。設備の本体は長さが五メートル、幅と高さが二メートルほどのコンテナの中に収めました。それと制御コンピューターがありますが、これはそれ程大きなものではありません。直径三メートルほどの円形パッドが一対、あと別に動力源が必要ですが、これだけあれば転移が行えます。もっとも、組み立てに少々手間が掛かりますが……」

「コードを繋ぐだけではダメなんですか」

 そのリリアの言葉に、ライルが笑う。

「面倒なのはパッドの組み立てです。平らな場所に下部パッドを置き、転移の影響を受けない位置にぐるっと支柱を立てます。その上で水平材を組み、鳥かごのような骨組みを造り天井部にもう一つのパッドを取り付けることになります。建設機材が手薄ですし、火星環境のため気密服を着用し人力で組み立てることになりますので厄介なんですよ。仮設という意味合いは、そこにありますね」

「ガービットさんが、その組み立てをやるのですか」

「いえいえ、私は組み上がってからシステムを始動させるのが役目です。基本的な確認をして、自己診断やセルフテストを重ねてから実際の運用を始めることになりますが、まず最初に転移パッドを移送することになります」

「転移パッド? パッドは組み立てましたよね」

「仮設パッドは小さいですからね。大きなものを移送できませんし、作業効率も悪い。最初に小さなパッドを組み立てて、それを使ってより大きな転移パッドの資材を移送することになります」

「より大きなパッド……。何か面倒ですね」

「そうですね。でも、結果的にそうする方がスムーズに建設作業が進みます。大きなパッドと作業ドックを並べて造り、スッポリと気密します。ドックは全体がエアロック室の機能を持ちますので、作業は軽装でできます。気密服では動きづらいですからね。幾つかの資材パーツを順に移送し、ドックで組み立ててから外へと運び出します」

「なるほど」とリリアが頷く。

「そうなると鳥かごの仮設パッドは用済みですから、メンテナンスをしてバラして別の建設予定地に運ぶことになります。火星では、ようやく観光事業が動き出しましたからね。幾つかの観光施設の計画が組まれています。この先の一〇年で観光地化が大きく進むでしょう」

「ようやく? やっぱり、何か障害があったのですか」

「ええ、まあ。もっともそれは火星側の問題ではなく、地球との関係性の話です」

「地球との関係性? どういうことですか」

「ご存じないですか……」

「知りませんが……」とリリアはきょとんとした。

 ライルは瞬間的に顔を顰めてから話しを始める。

「火星は魅力的な場所です。雄大な景観が広がりますし、新しい体験もできます。実は、火星旅行の費用は割安なんですよ。時空転移の運賃は距離の影響を受けません。構成レシピのデータ通信に信頼できる回線を確保しなくてはなりませんが、それは大きな問題ではありません。転移パッドを設置すれば、ランニングコストとして必要なのは、電力とメンテナンス費用ぐらいでしょうか。遠くに行くからといって燃料費が嵩むことはありませんね。移送時間も、二つの惑星が近付く会合の時期だとデータ通信に五分程度、太陽の向こう側にあっても二〇分程度ですからね。ロケットでの移動とは比べものになりません」

「でも、転移パッドの設置にお金が掛かるのでしょ?」

「そんなに高額なものではありませんよ。一機分の旅客機を購入するお金があれば、標準的な大きさのパッドが設置できます」

「えっ、そうなんですか。だったら、あちこちに設置できるじゃないですか。ここの空港だけでも一日何機の旅客機が離発着しているのか……。すごい数でしょ。だったら地方の空港にもパッドを置けばいいのに」

「そうですね。お金の問題じゃない、ということですよ」

「じゃ、何が問題なんですか」

「ここの商用施設へ転移パッドを設置するときも在来交通機関が反発しました。地球が絡むと厄介な問題が出てくる。たとえば、火星の観光地化を進めようとすると地球の観光業界が反発をする。魅力的で割安な火星に観光客を取られてしまう、と反対し圧力をかけてくる。政治的な問題になってしまいます」

「政治的な問題……」

「ええ、地球の観光業を守ろうとする。火星の開発が、地球の経済や人々の暮らしを圧迫するのは困る、問題だ、ということになり、政治的圧力が加わって火星の事業が滞ってしまう。それを克服するのに時間が掛かりました」

「それで、ようやく、ですか」

 ライルは頷き、話しを続ける。

「火星で一番高い山はオリンポス山です。麓から山頂までの高低差が一〇キロメートル以上の独立峰です。その麓と山頂の両方に展望施設を造る計画が進んでいます。麓の展望室には天井まで広がる大きなガラス窓をはめ込み、雄大な山形を眺むことができるでしょう。その後で山頂の展望施設に転移し、高みからの眺望を楽しみます」

 リリアはその景観を想像する。ただ、それは彼女だけでなく、同じ車両に乗り合わせた周囲の乗客もライルの話に耳を傾け、イメージを広げていた。

「火星の大地を引っ掻いたようなマリネリス峡谷にも、谷底までの高低差が一〇キロメートルほどの場所があります。そこに突き出た橋のような展望遊歩道を造る計画も進んでします。迫力の断崖が長く延びる景色を眺めながら遊歩道を進み、真下に広がる谷底を覗き見ることになりますね。その後は、谷底の施設に転移します。下から断崖絶壁を見上げるだけでなく、天井部がガラス張りの車両で絶壁に接近するツアーも計画されています」

「一〇キロの断崖……」

 リリアは目まいを感じたように呆然としていた。ライルは更に話しを続ける。

「そうした観光施設を充実させ、一般旅行者の定員も増やしていきます。これまで状況調査の段階が長く続き、旅行者定員も少なく設定されていたのですが、それもようやく解禁され、滞在施設も広げることができるようになります」

「旅行者定員が少ないのは、火星環境が厳しく多くの人を受け入れることができないからだと思っていましたが……」

「それは宇宙船を使って移動していた初期の頃の話ですね。時空転移によって大量の物資を送ることが可能になり、火星の施設は拡充しています。それに伴い旅行者定員も増やすことが可能でしたが、外圧があり、思うように増やすことができませんでした。火星観光地化への反発ですね。環境や施設の問題ではありません。火星の施設は十分広いですし、快適ですよ」

「そうなんですか……」

「観光地化が進めば、火星との転移路線も増えるでしょう。ハブ空港と火星を結ぶ便も開設されるかもしれませんね」

「空港から火星へ……」

「ええ、技術的には現時点でも問題はありませんからね。後は運用面の話になります」

「そんな時代になるのですか」

「既に計画は動き出しています。一〇年後には、火星は一般の人たちにとっても身近な場所になっているはずです」

「知らなかったわ。そんなことになっているんですね。そうしたニュースがどうして伝わってこないのかしら?」

 ライルは眉を寄せた。

「情報統制とまでは言いませんが、制約があるのは確かでしょう。地球側で従属関係を確立したいと考える人は多いですからね。火星が地球の支配圏を離れ、独自の社会を築くことになるのを怖れているのかもしれません」

「独自の社会……」

「ええ、月は完全に地球の支配下にあります。火星開発に関わる人たちは、火星を月のようにはしたくない、と考えます」

「月は、地球に支配されているのですか」

 ライルが頷く。

「実質的にいって、支配されていますね。離れることができない。この海浜地区が大規模な商用施設として整備される前に、何があったかご存じですか」

「ずっと前から商用地区ではなかったのですか」

「ええ、違います。この一帯は大きなプラントが幾つも並ぶ、一大コンビナートでした。海浜工業地帯です」

「工業地帯……」

「様々な大量の工業製品を世に送り出していましたが、環境汚染・破壊が深刻となり、そのまま操業を続けることが社会問題になったんです。その解決策として工場移転が決定します。移転先は月面、月の裏側に大規模なコンビナートを幾つも造る計画です。これにも時空転移が欠かすことのできない移送手段になりました」

「月の裏のコンビナート。聞いたことがあります」

「地球上から月の裏側は見えませんからね。一般の人にとっては馴染みが薄いのですが、地球で必要となる工業製品を月面で賄っています。完成品を時空転移で地球に運び、金属製品の廃品などはまとめて月に送り、分別・再生処理をした後に原材料として利用します。月は地球の工場なんです。完全な従属関係にありますね。それを横目で見て、火星を月のようにはしたくない、と思います」

 リリアは頷く。その気持ちが何となく理解できた。

「火星は、どんな場所になるのですか」と素朴な疑問を口にする。

「もっと自由な社会ですよ。火星で暮らす人々を監視したり、管理することはありません。昔の人の生活のように伸び伸びと自由に暮らすことになり、人間本来の姿を取り戻すことになります」

「人間本来の姿……」

 リリアはその意味を理解できず、眉を顰める。

 列車が商用地区の目的の駅に到着した。二人はホームに降りる。改札を出て、話の流れから転移パッドの施設に立ち寄った。

 それは目の前にあるテーマパークの人気アトラクション施設のような外観だった。未来を感じる。そこにもリリアの同僚のアテンダントが立ち、カフェスペースが備わった見学室と展示ブースが併設されている。リリアも勤務シフトによって、こちらの施設で働くことがあった。空港の展示ブースが旅行者向きに二四時間開いているのに対し、商用地区側ではビジネス指向の強い展示に仕上がっており、夜間は営業していない。転移パッドの専用路線も、人の出入りが多い時間帯に運用する。

 二人はカフェスペースで休憩をした。

「私、アテンダントの仕事をしていますが、まだ、転移の経験がないんです。だからブースに来た人の質問に答えるのが心苦しい時があります……」とリリアが言う。

「心苦しい? 何が」

「たとえば、転移はどんなふうに感じるのか……。私は乗ったことがないので体験者から聞いた話をイメージして答えていますが、申し訳ない気持ちがあります」

 ライルはなるほどと頷き、コーヒーを啜った。

 それがリリア・リンゼイを選んだ理由だ。彼女はその不満を業務報告書にも綴っている。仕事に前向きに取り組む真面目な女性だ。

 確かに講師として、採用されたアテンダントに時空転移の技術的な解説を行ったが、一人ひとりを区別できるまでの深い付き合いではない。ライルは、グリフィン・ハーグの配下の人物からリリア・リンゼイの名前を聞き、顔写真を見てもピンとこなかった。

「教育期間中にアテンダントが乗る機会があったのですが、ただそれは、来賓が利用する際に空席がある場合に随行員として乗るもので、アテンダントの全員は体験できませんでした。私もあぶれた一人です……」

 彼女を誘い入れることができるのか? その役目を上手く熟す自信はなかったが、彼女は予想以上に仕事熱心で、話しが弾み助かった。ここまでは上出来だろう。

「休日に、どこかのハブ空港まで飛び、戻ってこようかと考えましたが、往復の空席が取れず断念しました。それに料金が高い……」

「そうですね。地球での時空転移の料金体系は、在来交通機関の料金から割り出されていますからね。割高なんです。本当は、もっと安くしても運用できるのですが……。この点は宇宙の方が進んでいますね。生活基盤の一つとして時空転移での移動が組み込まれていますから。地球では贅沢品の扱いになってしまいます」

「地球で時空転移が普及するには、幾つもの壁があるようですね……」

 もし、今日の試みが上手くいかなかったら、グリフィン・ハーグの一派は次にどんな手を打つのだろうか。手荒な行為に及ぶのだろうか……

 だが、迷い、躊躇する時期を過ぎている。自身も一味の一人だ。やるしか、ない。

「実は、来月にこのパッドの定期検査が予定され、私が担当することになります。営業が終わった夜中にやるのですが、検査の終了時に最終確認となる転移を行います。通常は何か物を載せて時空宇宙に飛ばしてから再構成して確認します。結果的にはその場から一ミリも動かないことになりますが、時空転移に変わりはありません。もしよかったら、そこで体験してみますか……」

 リリアはその提案に喜ぶ。

「ただ、他の人には話さないでください。別に規則違反ではないのですが……」

 リリアの顔に警戒感が出た。

 この人、私を狙っているわ。真夜中にこんなところに来て、絶対危険よ。いけないことを考えているのは間違いない。でも……




    三


 商用地区の中心地。多くの人で賑わうこの場所も夜が遅くなると周囲の建物の明かりが消え、人通りも無くなる。しかしその夜は、いつもは暗くなっている施設の一つから明かりが漏れていた。

 リリア・リンゼイは、ガランとした広い部屋の壁際に一人で立っていた。その部屋の中央には円形の転移パッドがある。一台の作業車が無骨なロボットアームで座席が取り付けられたパレットを持ち上げ、運び、直径三メートルほどの円形パッドの上に静かに置いた。アームの握りを放し、折りたたむ。無人の作業車は仕事の出来映えを値踏みをするようにその場に留まっていたが、やがて向きを変え、そそくさとバックヤードに戻っていった。

「どこでもいいですから、座ってください」

 天井のスピーカーから男性の声が響く。時空転移システムの営業技術者であるライル・ガービットだ。彼はバックヤードの中に仕切られた操作室にいて、モニターの映像で転移室の様子を見ていた。

 リリアはその指示に従って中央のパッドへ歩み寄り、パレットに上った。パッドに合わせた円形パレットには三列の座席が設置されている。中央部に四席が並び、背もたれを合わせて反対向きに三席、もう一方に通路となる場所を設けて端の部分から中心に向けて二席設置されている。小型の転移パッドでは一度の移送の定員は九名だった。もちろん、立って定員を超えて乗っても支障はないが、転移後に目まいを感じ倒れる人もいる。利用客にケガがないよう、九人が座席に座りシートベルトを締めることが運用のルールだった。

 リリアは中心部に近い座席に座り、ベルトを締めた。怖くはない。ただ、緊張から胸が高鳴っていた。

 ライルは彼女が座席に座ったのをモニターで確認した。そこで体が硬直する。指先が震えた。

 こんなことをしていいのか……

 土壇場で心が乱れる。決意が揺らいだ。

「始めたまえ」

 背後に立つ恰幅の良い男性が威圧的な低い声を出した。グリフィン・ハーグだ。その後ろには信頼の厚い配下の男が何人か並んでいる。事の顛末を見届けるつもりだ。

「ガービットくん、始めなさい」グリフィンがもう一度、言う。

 ライルは忘れていた呼吸を再開した。大きな息と一緒に躊躇を吐き出す。

 コンピューターを操作し、実行を指示した。騒音が聞こえ、大きくなる。転移パッドの上が輝き始め、明るさが増していく。モニターカメラの前にある防眩ガラスが光を遮断した。パッドの上の座席パレットやそこに座るリリアの姿が光と同化し判別できない。騒音が鼓膜を激しく震わせた。唐突に弱まる。パッドの上の輝きも薄まっていく。だが、そこからリリアの姿とパレットが消えていた。パッドの上には何もない。時空宇宙に散らばっていた。

 ライルは考えることをやめ、反射的にコンピューターを操作した。事前に用意した一連のコマンドが順次実行される。それは通常の運用法ではない。時空転移システムの設計者であったライルは、製品開発時の評価試験用に幾つかの実行制約条件を取り除いて組み込んだコマンドを使用する。通常運用ではできないことが、できるようになる。

 再び騒音が大きくなり、何も無いパッドの上が輝き出す。時空宇宙に散らばる素材を掻き集め、再構成する。ただし、そこで使用する人体の構成情報は直前に取得したリリアのものではない。旅客機墜落事故の前に時空転移したシェリル・ハーグの構成レシピとすり替え、再構成することになる。

 騒音が弱まり、光が薄まる。

 パッドの上に座席パレットがあり、人影が見えた。グリフィンがモニターを覗き込む。

「シェリル……」

 グリフィンが転移室への扉に駆けていった。システムが完全停止して扉が開くとパッドに向かって駆け寄る。

「シェリル!」

「パパ……。パパなの? どうして……」

 グリフィンはその問い掛けに答えることなくパレットに上り、身を低くして座席の娘を抱きしめた。

「どうしてパパがいるの? 他の利用者はどうしたの? ねえ、何があったの?」

 グリフィンは娘を抱きしめたまま何度も頷く。その目は涙で濡れていた。

「よかった、また会えて……」

「痛いわ、パパ。放して。どうしたのよ」

「ちゃんと説明する。ちゃんと説明するから……」

 そう言ったグリフィスは、そのまましばらく娘を抱きしめていた。

 ライルはその様子を見て大きく息を吐く。その時、善行と悪行の狭間で揺れる心に別の感情が生まれた。それは一種の達成感、満足感。時空転移で死者が蘇ることを実証したのだ。

 マッドサイエンシストの心境は、これなのかもしれない……




    四


『警邏211、海浜中央病院に身元不明の女性が救急搬送された。対処を請う』

「211、了解。海浜中央病院に向かいます」

 そのやり取りを聞き、運転席の警察官が車のコントロールを半自動にし、巡回コースからパトカーを外した。夜の街を病院に向かう。

「身元不明って、どういうことでしょうか」

「それを調べに行くんだ。そうだろ」と先輩が言う。

 そう言われ運転席の警察官は肩を竦めた。


「身元不明の件ね……」

 四〇歳前後の女性医師が警察の制服を目にして言う。小柄だがキビキビした動きでエネルギッシュな印象だ。

「二〇代前半の若い女性よ。酒に酔い運ばれてきたわ。急性アルコール中毒ね。容態は心配ない。今は眠っているわ」

「飲み過ぎ、ですか」

「そのようね」

「身元がわからないそうですが、一人で飲んでいたのですか」

「そうなんでしょ。それは、ここではわからないわね。とにかく生体認証で身元を確認したの。何か病歴があるかもしれないでしょ。でも、認証に引っ掛からなかった……」

「どういうことです?」

「どうって、未登録ってことでしょうね。事情はわからないけど、日常生活にも困るはずだわ」

「そうですね……。生体認証システムの故障ではないのですか」

「そう思って、私で試してみたの。でも、間違いなかったわ。他にも病院スタッフで何人か試してみたけど、認証システムに問題はないわ。彼女、未登録なのよ」

「そうですか……。でも、しばらく眠って酔いが覚めれば事情が聞けるでしょう」

 騒ぐほどのことではない。警察官はそう思う。

「でもね、彼女に名前を聞いたらシェリル・ハーグだって言うの。この先の大きなお屋敷の一人娘よ。知ってるでしょ」

 彼女の父親は、大富豪で世界的に有名な敏腕経営者だ。この辺りで知らない者などいない。

「いや、彼女は亡くなっているでしょ。旅客機墜落事故の犠牲者だ。大掛かりな葬儀はニュースにもなった」

 女医は目を細め、口を開いた。

「一応、認証システムで死亡者のデータベースにアクセスしてみたのよ。ヒットしたわ。シェリル・ハーグだって……」

「そんな、生体認証が亡くなっている人と一致したんですか」

「認証システムがそう言ってるの。彼女にも問い質してみたわ。すると、復活の呪文を知っているって笑うのよ。酔っ払ってるし、いい加減なことを言っているのだと思うけど、さあ、どうする?」

「どうするって……」

 二人の警察官は困惑し、顔を見合わせた。


 朝になるのを待ち、グリフィン・ハーグのお屋敷に連絡を入れ、事情を説明する。向こうも戸惑っているようだ。ところが、午後になると遠方からハーグお抱えの弁護士が現れ、酔っ払いの女性をどこかへ連れていく。結局、警察が彼女から事情を聞くことはできなかった。


 コリンズは、全世界に展開する情報管理機関で生体認証システムの不具合調査部に勤めていた。ここには、日々、様々な調査依頼が舞い込んでくる。巨大システムに生じた些細な不具合の実体を探り、その原因を明らかにするのは膨大な労力を費やす仕事であった。その結果が利用者側の小さな勘違いであることも少なくない。しかし、システムの信頼性を保つには欠かすことのできない業務と言える。

 その日、コリンズの手元に届いた調査依頼も奇妙なものだった。

 病院に緊急搬送された女性の生体認証が死者のデータと一致したという。これでは病院関係者も戸惑うだろう。

 コリンズは、認証システムの中核に直結するコンピューター端末を操作し、膨大な量の認証履歴から該当するデータを探った。確かに、病院からの生体認証が死者のデータと一致したという履歴が残っていた。他に同様の事例は見当たらない。この一件のみの不具合だ。

 一番心配なのは不正なデータの改ざんである。コリンズは、その死亡した女性の生前の生体情報記録に改ざんの痕跡がないか慎重に探った。しかし、怪しげなものは見つからない。データの内容は保証されている。

 病院に設置された生体認証端末の故障ではないか。それについて調べてみると、病院側もその可能性を疑い、翌週に端末の検査・メンテナンスを行っていた。その報告書も確認する。端末の検査で不具合は見つかっていない。正常に動作していたという結論だった。

 コリンズは、溜め息混じりの息をする。

 厄介だ。この事例をどう片付ければいいのか……


「生体認証は、世界の多くの人たちの日常生活に関わります。その信頼性を保証するために、この一件の真相を突き止めなくてはなりません……」

 コリンズは五〇代の弁護士ルイストンに、そう語った。

「もう一度、その女性に生体認証を行っていただき、改めて不具合の原因を調査しようと思い、病院の近くにあるグリフィン・ハーグさんのお屋敷にお願いしたところ、この件は弁護士のルイストンさんに問い合わせるようにと言われました。お手数ですが協力をお願いできませんか」

 ルイストンが所属する弁護士事務所は、緑に囲まれたハーグのお屋敷から遙かに離れた大都会にあった。コリンズの勤め先からほど近いビジネス街だ。そこでアポをとり事務所に出向くことにする。ルイストンに割り当てられた個室には洗練された調度品が並び、コリンズはゆったりとした造りのソファーに座ってルイストンと向かい合っていた。

「認証システムには私もご厄介になっていますので、信頼性の保証は重要だと思いますが……」そう言ってルイストンは低く唸った。

「これは、彼女のプライベートな問題ですからね」

「プライベートな問題、ですか……」

 コリンズはその意味を測りかねた。

「しかし、正しい生体情報がないと日常生活にも困るでしょう」

「それも彼女の問題です。生体認証への登録は、別に強制ではありません。個人の自由ですからね。快適な暮らしや利便性を求めて多くの人が登録している、それが実態ですよ。生体認証に加盟していない国や地域もありますし、加盟している国の中にも管理社会を嫌い未登録のまま生活している人もいます。彼女にどうこう言うのは筋違いでしょう」

 コリンズは言葉に詰まった。それを言われると辛い。

 ただ、グリフィン・ハーグ一派が危ういことに手を出している、という印象が強くなる。酔っ払って病院に運ばれた女性の身柄を引き取りに、こんな遠くから弁護士が飛んでいったのだ。それ一つとっても怪しく感じる。何を企んでいるのか……

「その女性と会って話しをすることはできませんか。直接お願いをしたいと思います」

 ルイストンは渋顔で首を横に振った。

「ご勘弁ください」

 コリンズは溜め息をつく。

「ご協力いただけない、ということですか」

「申し訳ありません」

 これ以上、何を言っても埒が明かないだろう。引き下がるしかなかった。




    五


 シェリルは入出管理審査の列に並んだ。

 前に並んだ人たちはスムーズに審査をパスし、次々とその先の通路を歩いていく。

 シェリルの番だ。生体認証を行う……

「シェリル・ランドー様、どうぞお進みください。よいご旅行を」

 スタッフの女性が笑顔で言う。パスした。ランドー、まだ馴染みのない名だ。

 シェリルは小さく頷き、通路を進み、ガランとした転移室に入った。中心部に大きな円形の転移パッドがあり、それに合わせた座席パレットが載っている。審査をパスし転移室に入った人たちが指定の座席に座っていた。シェリルも自分に割り振られた座席に腰を下ろし、ベルトを締める。ホッと息を吐いた。

 全ての利用者が座席に着くと通路との扉が閉じ、転移室は密室となる。アナウンスが響き、騒音が聞こえてきた。徐々に大きくなり、周囲の空間が輝き出す。意識が薄れていった……

 騒音が遠のいていく。頭がふわりとした。いや、全身が軽く感じる。地球重力の三分の一、火星だ。

 シェリルは周囲を見回した。転移室の造りに大きな違いはない。火星訪問を歓迎するような文字も見当たらなかった。パレットの座席に座っていた人たちが次々と立ち上がり、手荷物を持って開いた扉の先を目指す。シェリルもベルトを外し立ち上がった。

 広いエントランス。その中心に女性の銅像があった。

 シェリルは壁際に並ぶ通信端末の空いている一つに向かう。地球から遠く離れた火星では馴染みのサービスが利用できない。設備の使い方も違う。戸惑いつつもライル・ガービットへの通信を行った。

「ガービットさん、シェリル・ハーグです。覚えていらっしゃいますか」

「シェリル・ハーグ……。まさか、どうして火星にいるのですか。いや、どうやって火星に来たのですか」

「生体認証に別の人物として登録しました。今はシェリル・ランドーです」

「別の人物……。どうやって?」

「会って、詳しくお話しします。ガービットさんにお願いがあって火星に来ました」

「お願い……」

「今、どちらにいらっしゃいますか。会って話すことはできますか」

「今は、仕事で現場にいます。オリンポス山の麓の展望施設建設現場です」

「オリンポス山……。私が行くことはできますか」

「いえ、現在は工事関係者しか入れません。旅行者として火星に来たと思いますが」

「ええ、一般旅行者での渡航です」

「それではダメですね。それとも何か裏ワザをお持ちですか」

「いいえ……」

「では、申し訳ありませんが夕刻まで待ってください。私の方から連絡します。シェリル……、何でしたっけ?」

「ランドーです」

「シェリル・ランドー、覚えました。旅行者向けの短期宿泊所に連絡を入れます」

「わかりました。お願いします」

 通信を終え、シェリルは人が疎らなエントランスをフラフラと歩いた。壁に嵌め込まれた大きな展望窓に引き寄せられる。初めて見る風景。ピンク色の空と殺風景な赤茶けた大地が広がっていた。


 料理は酷いけど景色は最高ね……

 旅行者向けのレストランで食事をするシェリルは、そう思った。天井まで繋がる大きな窓の向こうには青い夕焼けが広がっていた。地球では見ることのできない色合いだ。

「口に合いませんか」

 対面に座るライルが、シェリルの料理の残り具合を見て言った。

「素晴らしい景色に見惚れて、お腹も一杯です」

 その応えにライルは笑う。彼女と会った時から感じている沈鬱感を振り払いたかった。

「地球から運べば、どんな料理でも提供できるのですが、独立意識の高い火星ですから必需品の全てをこの星で賄おうと奮闘しています。旅行者にもその意気込みを感じてもらおうと、一般的な火星食を出しているのですが、評判は良くないですね」

「火星で暮らしてしる人は、毎日これを食べているのですか」

 とシェリルはひとかけを口へ運んだ。不味いわけではないが、味気ない。食事というよりは義務的なエネルギーと栄養の補給作業だ。

「毎日、毎食、似たようなものを食べています」

「ガービットさんは慣れたのですか」

「そうですね。他に食べるものがありませんし、何日か食べ続け火星環境に馴染めば気にならなくなりますよ」

 シェリルは動きを止めてガービットを見詰めた。

「パパの仕打ちなんですか」

「えっ、何ですって?」

「パパがガービットさんを火星に飛ばしたのですか」

 ライルは笑った。笑うしかない。

「すみません、ご家族がいらっしゃるのに……」

「あなたが謝ることではありませんよ。それに単身赴任は特別なことではありません。火星に私の仕事があるからここに来ることになったんです」と微笑む。

 ライルは仕事で火星に何度か足を運ぶうちに、この地の自由闊達な雰囲気に憧れ、ここで暮らしたいと望むようになっていた。しかし、子どもの将来を第一に考える妻が、火星での生活を受け入れることはない。ライルにとって火星への単身赴任は、降って湧いた幸運なのかもしれない。火星滞在が長くなると三倍の重力になる地球へ帰るのが辛くなる。そのまま火星定住を決断する人も少なくない。このまま済し崩し的に火星に留まり、やがては離婚する……。そんな予感があった。

 二人の会話が途切れ、それぞれが想いに耽り食事を進めた。


 窓の外では暗闇が広がっていた。食後の合成コーヒーを一口啜り、ライルが口を開く。

「では、伺いましょうか。どうして火星に来たのですか」

 ミルクティーを一口飲んだシェリルが顔を顰める。その味に驚いたのか、話しをすることに嫌悪したのかはわからなかった。

「私がお酒に酔ってしまって病院に運ばれた話を知っていますか」

「いえ、知りません。あなたを転移した後、直ぐに火星赴任が決まりましたから」

「そうでしたか……。私、あの家にずっと閉じ込められていたんです。外に出ることを禁じられていました。でも、狭い場所に閉じ込められていることに我慢できなくなったんです」

 そう言うが、大邸宅だ。敷地も広い。それを狭いと言うのだから、お嬢様として可愛がられ育ったのだろう。

「それでこっそり抜け出して、繁華街でお酒を飲みました。何軒もお店を回って……。それで体調が悪くなり病院に運ばれたんです。でもそこで、生体認証にかけられ騒ぎになってしまいました。死んだはずの女性と一致したからです」

 ライルが頷く。騒ぎになるのも当然だ。だから邸宅から出ないようにと注意されていたのだ。

「ママはあの家で、ひっそりと二人で暮らしていくことを望んでいました。でも、私はそんなのイヤ。あの家に隠れているぐらいなら死んだ方がいいわ。けれど私の死は、もう一人の女性の死も意味することになるのでしょ?」

「そうなりますね……」とライルが答える。

 シェリルの身代わりとなったリリア・リンゼイのことだ。リリアの体を時空宇宙に飛ばし、彼女の代わりにシェリルを再構成した。すり替えだ。時空転移パッドを操り、シェリル・ハーグを蘇らせたのはライルだった。この一件にどっぷりと浸かっている。

「私は死んだ人間よ。一人の女性を犠牲にして蘇ったの。本当は、生きる資格の無い人間なんだわ」

 ライルは彼女の話に戸惑った。言葉を返せない。

「パパは、たぶん自身の力を確かめたかっただけなのよ。こんな無茶なことも実現できると自分の力に酔っているの。私のことなんてどうでもいい。誰も私のことなんて考えていないわ。私、あの家から逃げ出したかったの。きれいサッパリと精算したいのよ」

「精算……」

 彼女のその言葉の響きが、ライルの心に引っ掛かった。

「パパにせがんだわ、前のように自由に動き回りたい。もう一度、認証登録することはできないかって。そしたら一つの方法を考えてくれたの」

 それを考えたのは信頼の厚い彼のブレーンだろう。

「どんな方法ですか」と彼女に話しを促した。

「パパの船を使ったわ。夜中に、人目に付かないようにこっそり乗り込んで、何日もかけて海を渡ったの。それで、生体認証に加盟してない小さな国に入ったわ。その国は人口減少に悩んでいるので、新たな国籍取得に寛容なのよ。幾らかのお金と簡単な手続きで国籍が取れたわ。後はその書類を使って生体認証の加盟国に入り、新規の認証登録をしたの。私の過去のデータは死者のデータベースにあるから、生きている人の二重登録などの審査には引っ掛からない。シェリル・ランドーとして登録できたわ」

 ライルは低く唸った。

「なるほど……。それで、どうして火星に来たんです?」

 シェリルは深刻な顔で頷く。

「精算したいのよ。精算すべきでしょ。このまま生き続けても息が詰まるわ」

 ライルは疑問に思う。生体認証に登録できた。お金もあるだろう。世界のどこかに行って好きなことができる。自由に生きることができるはずだ。だが、精算したいと言う。身代わりとなり抹殺された女性への罪の意識なのか。息が詰まるというのは、どういうことなのだろう? 死んだ人間は、どうやっても死んだままなのか。生き続けることはできない、生命力や気力が失せていくのか……

「私はいいから、身代わりになった女性を復活させて。ガービットさんには、それができると聞いたわ」

 リリア・リンゼイの構成レシピは、すり替えの際に保存していた。同じ手順で行えば、シェリルから本来の生存権利者であるリリアを蘇らせることができる。それは、ある意味真っ当な行いだ。ただその時は、目の前の女性が消失することになる。

「あなたの存在が消えて無くなることになります」

 シェリルは黙ったまま頷く。全てを承知し、覚悟ができているということか……

「お父様のグリフィン・ハーグさんは、ご存じなんですか」

「火星にいることは知らないはずよ。地球のどこかで羽を伸ばしていると思ってるわ」

 ライルがまた唸る。

「私の独断では、できません」

 そう答えたライルに、シェリルは表情を曇らせた。

「ガービットさんもパパの手下なのね……」

 そう言って彼女は、冷えたミルクティーをゴクゴクと飲み干した。




    六


「シェリルは、どこにいる?」

 三日後、グリフィン・ハーグが火星に来た。強引に予定を組み替えて来たためか、機嫌が悪そうに見えた。

「宿泊所です。まだ寝ていると思いますが……」とライル・ガービットが答える。

 グリフィンは、それに頷く。二人はエントランスに出ると、近くの壁にある立入禁止のプレートが付いたドアを潜った。

 真新しい施設。そこは地球の海浜地区に設置した転移パッドの施設を真似て造られていた。見学室にはカフェスペース、展示ブースもあるが中はまだ空っぽだった。火星に新しく建設する展望施設の完成に合わせて用意した観光用転移パッドで、その運用はまだ先の話になる。ただ、海浜地区のものより大きな転移パッドは使える状態になっていた。

 グリフィンもこの新しい施設には何度か足を運んでいた。一段高くなったパッドに腰を下ろす。

「意思が固いということか」

「少なくとも、私の説得には耳を貸しません」

 グリフィンが長い息を吐きながら唸った。

「我が儘に育ててしまったようだ……。私が話しても聞き入れないだろう。結局は、命を捨てると思う。シェリルの思うようにやってくれないか」

「えっ、お嬢さんの存在が消失してしまいます」

「仕方ないだろう。本人がそれを望んでいるんだ」

「しかし……」

「あの娘は、墜落事故の以前から私たちの目の前から消えていたんだ。事故の犠牲になったのも必然だったのだろう。シェリルの存在は、この世界からとっくに消えていた。正しい状態に戻るんだ、悪いことではない……」

 その諦めの境地にライルは驚いた。シェリルが蘇った時、涙を流して抱きしめていた父親と同一人物とは思えない冷淡さだ。

「ただ問題は、シェリルとすり替わった女性の存在だ。彼女の復活が世間に広まると厄介なことになる」

「火星に留めるのは、どうでしょうか。ここは地球から隔離された世界です。暮らしていくのに認証システムを使うこともありません。そこから足が付くことはないでしょう。この観光転移パッドのアテンダントを任せるのがいいと思います。きっと興味を持つはずです。ある程度の期間、ここで暮らせば火星の低重力に体が馴染み地球へ帰ることが辛くなります」

 良い提案だと思う。それ以上の残酷な仕打ちにはしたくない。

 グリフィンは静かに唸り、吟味した。

「いずれにしても、その女性次第だな。よし、さっさとやってくれないか。この問題をこれ以上引っ張りたくはない。それよりも……」

 グリフィンは立ち上がるとパッドに上がり、その中心にどっしりと立った。

「それよりも永遠の命だ……」そう言い、ニヤリと笑った。


「パパから連絡があったの?」とシェリルが尋ねた。

 ライルがそれに頷く。

「何て?」

「望み通りにしてあげてくれ、と言われました」

 シェリルは全身から力が抜けるような息をした。強張っていた表情が和らぐ。

「良かった。これで元通りね」

 世の中には死に急ぐ若者がいる。それぞれに深刻な事情があるのだろうが、社会の都合を受け入れた大人にそれを止めることはできない。ただ、嘆くだけだ。

「いつ、できるの?」

「あなたの決断次第です」

「じゃあ、これからは?」

 そんなあっさりでいいのか? 疑問と空しさを脇にやり、ライルは小さく頷いた。

 シェリルは表情を硬くした。

「では、お願いします……」

 覚悟はとっくに出来ている、ということか。ライルは肩を揺らし息を吐いた。こっちは尻込みをしてしまう。

「どうすればいいの?」

「宿泊所を引き払ってください。三〇分後にエントランスの中央にあるエミール・シャルティの銅像のところで会いましょう」

 それを承知し、彼女はゆっくりと頷いた。


 銅像の女性は、時空転移に初めて挑んだ人物だった。彼女の決断がなければ、火星への進出は実現しなかっただろう。シェリルはその女性の遠くを見詰める目、表情に強い覚悟を感じた。

 ガービットが現れた。

「こちらに来てください」

 そう言って人が疎らなエントランスを歩き、壁の立入禁止のドアを開けた。シェリルはその中に入る。

「ここは?」

「観光用に新設した転移パッドです。運用はまだ先ですが、パッドは使えます」

 距離があるため地球の監視・管理は届かない。厳しい火星環境において時空転移での移動は生活基盤の一つだ。緊急避難が想定されるため臨機応変、素早い対応も課題になっている。従って時空転移の運用についてルーズな面があった。そこをグリフィン・ハーグが突き、火星で時空転移の新しく有用な使い方を試みる。ライルが火星赴任となった本当の理由は、そこにあった。

 転移室のパッドの上には座席パレットが載せてある。

「座席のどこかに座ってください。直ぐに始めます」

 シェリルはそれに頷き、パッドに歩く。ライルは、もう余計なことは考えず作業を進めることにした。バックヤードに向かう。

 仕切り壁の操作室にはグリフィン・ハーグがいた。転移室を映すモニターをじっと見ている。

「よろしいですね?」

「ああ、やってくれ……」

 ライルはコンピューター端末の前に座り、マイクのスイッチを入れた。

「始めます」

 その声が転移室に響き、モニターに映るシェリルが頷いた。

 ライルがコンピューターを操作する。騒音が聞こえ徐々に大きくなる。パッドの上が輝き出す。防眩機能が働き、シェリルの姿が光と同化した。分子レベルに分解した彼女の体は、時間と空間を超越した宇宙に散らばる。

 騒音が遠のき、光りが弱まる。パッドの上には何もない。シェリルの存在は消失した。

 再び騒音が大きくなり、光りが強まった。時空宇宙の素材を掻き集め、一人の女性を再構成する。厳密にいえば、直前に散らばった人物とは組成や分量が異なる。些細な不整合だ。それでもこれが積み重なると、宇宙のバランスが崩れる危機的な状況に陥ることになる。しかし、その問題が表面化するのはずっと先になるだろう。今は、そうした細かいことには目を瞑ることにする。

 音と光りがピークに達し、脱力したように弱まった。モニターに映るパッドの上に、パレットと座席に座る一人の女性の姿がある。

「そのまま座っていてください。直ぐに行きます」

 ライルはマイクを使ってから椅子を立った。じっとモニターを見詰めるグリフィンを残し、転移室に向かう。

「ガービットさん……」

 歩み寄ってくる男性を目にして、リリア・リンゼイが呟いた。

「何か変です。頭がフワフワしますし、体も浮いているような感じです」

「気分は悪くないですか」

 ライルはパレットに上がり、片膝を付き、彼女に尋ねた。

「気分は悪くないですが、体が変です」

「大丈夫ですよ、心配ありません。後で詳しく説明しますが、ちょっとした事情があって別の場所に転移したんです」

「別の場所?」

「ええ、ここは火星です。体が浮いているように感じるのは、重力が小さいからです」

「火星……。どうして?」

「ちょっと込み入っていますので、ゆっくり順序立てて説明します。立ちましょう、まず何か飲みませんか」

 ライルが手を貸し、二人は立ち上がる。パッドを降り、出口に向かって歩いていった。




    エピローグ


 騒音が遠のく……

 パレットの上に一つだけ設置された重厚な造りの椅子に座っている。

 壁の大扉が開き、一人の中年男性が現れた。

「初めまして、経営戦略室のパターソンです」

 グリフィン・ハーグはパッドの側に立った男に頷いた。

「何年が経ったんだ?」と椅子に座ったまま尋ねる。

「半世紀です。これは二度目の復活になります」

「二度目……。少なくとも復活計画は半世紀持ったということか」

「はい」とパターソンが返事をする。

「どういう状況なんだ?」

「大きな問題を抱えています。ハーググループの一角が経営崩壊の危機にあります。主な原因は、時代の変化に乗り遅れたからだと考えていますが、組織が大きいため素早い動きがとれません」

「肥大化による老朽か……」

「早急な対処が必要ですが、これには活力に溢れる若い経営トップが必要だと、先代が決断されました。後はよろしく頼む、と伝言を承っています」

 グリフィンは薄笑いをする。

「何歳だったんだ?」

「先代は七八歳でした」

 七八か……。経営の危機に直面し気力が萎えたのだろう。そのための復活計画だ。この決断に間違いはない。それも広い意味では自分自身の判断だ。経営に命を捧げると決めたのだから逃げるわけにはいかなかった。

 五〇代前半のグリフィンが立ち上がる。年老いた経営トップが消失し、活力ある若い体で復活した。

「詳しい説明を頼む。戦略を立てよう」

「はい。ご案内します」とパターソンが姿勢を正し、頭を下げた。

 パッドを降りたグリフィンがパターソンの前で立ち止まった。

「シェリルはどうしている?」

「シェリル……」

「私の娘だよ。半世紀なら、まだ生きている年齢だ」

「すみません、私は存じ上げませんが」

 経営には関わっていないということか。あの我が儘娘のことだ、どこかのリゾートで羽を伸ばしているのだろう……

 グリフィンはニヤリと笑い、扉が開いた通路に向かって歩みを進めた。


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