馬、忌日へ至る
「ねぇ、君。こんなところでなにやってるの?」
まさか「こんなところ」で誰かに声をかけられるとは思わなかった。
場違いに明るい、弾んだ声。ひとつにまとめたポニーテール、今時珍しい涼し気な白のセーラー服。ヒラヒラとした紺色のスカートを押さえた黒目がちな目がこちらをのぞきこんでいる。
人と話すのはひさしぶりで、とっさに声が出なかった。出たとしても何と言っていいか分からない。
「分からない」
俺はこんなところでなにをやっているのだろう。
ここに来るまでのことは、何も思い出せない。
裏野ドリームランド。
閉園してから八年が経過した廃墟のなかで、なにをするでもなく座りこんでいる。
錆ついたゲート口を通り、名前も知らない枯れたツタが絡まった鉄柵のあいだを通り抜けた先。
ひび割れた広場に残る小さなメリーゴーランド。
かつての花壇に腰をかけ、遠く山々の間に沈んでいく夕陽を見ている。
「ふーん?」
真っ赤な世界の中、首にかかったストラップを弄りながら彼女はつまらなさそうに言った。玩具のようなカメラ。どこかで見たようなポラロイドカメラが首からぶらさがっている。
「そっちは」
そう尋ねると、よくぞ聞いてくれましたと言って彼女は首からかけていたカメラを掲げた。
「私は写真を撮りに!」
「……ひとりじゃ危ないぞ」
「君まで、そういうこと言うんだ」
君までと頬を膨らませたからには、すでに誰かの助言があったのだろう。どこか危なっかしい彼女を一人にはしておけない気がした。
「何を撮りに来たの」
立ち上がった俺を見て、彼女は大きな目を瞬かせた。黒々とした瞳の中には驚きと、そして喜びがあったように見える。
「夏と言えば怖い話。怖い話といえば都市伝説! これは、私の知り合いが友達から聞いた話なんだけどね」
「間接的に二人通すと、いっきに胡散臭くなるな」
「ここのメリーゴーランド、夕方になるとひとりでに回りはじめるんだって。そして、上には死んだ人の霊が乗っているらしいんだよね。精霊馬に乗るみたいに。北高新聞部として、近場の怖い話は見逃せないネタなわけですよ。うんうん」
「ふーん」
「怖くないの?」
「精霊馬ってあれだろ。キュウリとかナスとかにつまようじの足が生えてるやつ」
「うん」
「それを想像して、どうやって怖がれって言うんだよ。ひとりでに回るっていうのも、どうせ電気配線の故障とかだろ」
「夢がないなぁ」
俺の話は途中で遮られた。そんなこと、起こるわけがない。そう言おうとしたことが起こったのだ。がたん、と大きな音がして眩いばかりの光が舞台の上にあふれている。
「そんな馬鹿な」
「シャッターチャーンス!」
彼女は、彼女だった。驚くこともなくカメラマンと化し、ミシミシと音をたてて動き始めた回転木馬にむかって何枚もシャッターをきっていた。舌のように吐き出された写真を振り、できあがった作品を観て満足そうに頷いている。
「光加減がいい感じ」
「もっと他に……怖いとか、驚いたという感想があると思うんだが」
「こんなに綺麗だと、怖いとは思わないなぁ」
「それは」
彼女はそう言うが、突然無人の遊園地で動き始めたメリーゴーランドに恐怖を感じるのは当然のことだと思う。
「ねぇ、乗ってみようよ!」
「正気かよ!?」
「正気も正気。でも、次元の狭間とかに連れてかれちゃったらゴメン」
「馬鹿かっ」
そして無鉄砲な提案に対して恐怖を感じるのも当然のことだった。引きずられて、廻る舞台の上に立つ。彼女はよじよじと白馬の上に跨っていた。ああ、スカートがめくれて……。俺の心配をよそに、のぼりきった彼女は馬の上で得意げに胸をはった。
「予行演習に必要なのよ」
「予行演習って何する気だ」
彼女は答えず、質問を重ねた。
「君は、乗らないの?」
「パス」
「馬丁みたいだね。おっと、そのまま。一緒に撮ろう」
「嫌だ」
「もう撮った」
自撮り、というのだろうか。あきらめた俺は彼女と一緒に何枚か写真を撮る。
「やだ、変な顔ー」
「遠慮って言葉が無いよな。お前って」
ケラケラと彼女は笑った。その間にもメリーゴーランドはぐるぐると廻り続けている。
「無音だと雰囲気出ないっていうか、ちょっと不気味だよね」
「音楽の大切さが分かる」
「馬と、ライトと……スピード出せそうな曲が欲しい」
「普通オルゴールとか、明るいメルヘンな曲だろ」
いつのまにか得体の知れない女子高生に対して気軽に会話している自分に気がついた。彼女のもつ安心感、友好的な態度がそうさせたのかもしれない。
「飽きた」
五回は回った頃だろうか。真面目な顔して彼女は言った。
「超常現象に対して失礼だぞ」
「そいっ」
馬から飛び降りた彼女はじっとこちらを見上げている。
「なに?」
「やっと笑った」
にっと歯をむき出して彼女は笑う。
「からかうな」
「ごめんごめん……あーっ、スカートに土ぼこりついてる!」
ひゃあと悲鳴をあげる彼女を見て、やっぱり俺は笑っていたのだと思う。
「じゃあ日も沈むし、そろそろ帰るね」
「送って行く」
世界はオレンジ色から紺色へと色を変えていた。山裾に広がる淡い陽の光がわずかに彼女の顔を照らしている。
「へーきへーき。君、西高でしょ。山越えることになるし、私、自転車で来たし。ここでお別れ」
「……そうか」
下心がなかったと言えば嘘になる。もっと彼女と一緒にいたいと思っていたが出てきた西高の名前に驚いた。
「私、藤井アヅサ」
顔を上げる。
「俺は、南ユミチカ」
「知ってる。ユミなのに剣道部。西高の主将で今年の地区大会では堂々の三位入賞。私、新聞部だからさ。対戦校の有力選手はちゃんと調査してるんだ。一目みて、すぐに分かった。黙っててごめんね」
「そう、か」
やけに気恥ずかしくて、頬をかく。
「やだ。いまの可愛い」
「止めろ」
「じゃあ、またね。ユミちゃん。暗くなる前に帰らないと危ないよ」
それはこっちの台詞だ。
あのさと声を上げた俺に、自転車のサドルを跨いだアヅサがふりかえる。
「『また』って言ったけど、こんどはいつ会えるんだ?」
真剣な問いかけ。彼女は何度目になるかも分からない、歯をむき出しにする例の笑みを見せた。
「また来年っ!」
「ながっ!?」
【一年後】
「夏の北高女子って、やっぱりいいよなぁ」
「親父、お口チャック」
山のふもとにあるバスの停留所。今にも壊れそうな青いプラスチックのベンチが、二人分の体重を支えミシミシと音をたてていた。俺はといえば携帯ゲーム機の画面と睨み合っている。
「今はブレザーだけどさぁ、昔は『夏と言えば北高女子のセーラー服、いとをかし』と言われていてだな」
「はいはい」
真夏のアスファルトが焼けた匂い。坂道の急勾配。うるさい蝉の声。
「その中でも母さんは一番だった。もうあれこそ真夏と青春の女神って感じでな。ババア、ババアと言ってたお前は知らないだろうが、母さんもかつては清涼飲料水のCMに出てきそうな美少女でな」
「はーいはい」
「そこの坂道をポニーテール揺らしながら自転車に乗って通学して。父さん、ぞっこんでした。同じ部活に入って、登下校一緒にしようと企みました」
「北校新聞部ストーカー事件だろ。それで藤井のおじさんに一方的に竹刀でぼっこぼこにされたっていう……」
「よーし、話題を変えようかー」
黒い喪服を着た親父の隣で、俺は聞かないふりをして話を聞いていた。
初盆だった。
一年前、おふくろの葬儀から俺がとつぜん飛び出しても、親父は何も言わなかった。ただ帰って来た俺に背中を向け淡々と「ごめんな」と言っただけだった。
いつも明るい親父が泣いているところを見たのは、それが初めてだ。
乳がん、と宣告されてすぐだった。この間まで台所に立ち俺の弁当を作っていたおふくろは、四カ月で髪が全て抜けおち、五カ月で俺の半分ほどの体重になり、六カ月で帰らぬ人になった。
それでも趣味のカメラを止めようとはせず、病室にポラロイドカメラを持ち込んでは知り合いや友人と記念撮影をしていた。だけど俺はどうしてもダメだった。何度頼まれても、おふくろと一緒の写真をとらなかった。とれなかった。
仏頂面の俺とやせ衰えたおふくろが並んだ写真なんて、そんなもの記憶に残してたまるか。会えば、写真をねだられる。そう思って病室のおふくろを避け続け、死に目に会えなかった。
「そうそう。この山のてっぺんに、昔、遊園地があったの覚えてるか? あそこ、母さんと父さんの初デートの場所だったんだぞー。お前が生まれてからも何回か行ったな。お前、小さいのに大人ぶっちゃって大変だったよー。『メリーゴーランドなんて、女の子の乗り物だもん』とか『写真とられるの嫌』とかごねてさぁ」
「覚えてねーなー」
「その割には、毎回じーっと物欲しげにメリーゴーランド見てんだよ。帰ろうって言えば半べそかいて、石みたいに黙りこんで。最後には花壇の前に座りこんでだなぁ」
「覚えてねーなー」
「それ見た母さんが『よし、乗るかっ』ってお前を抱えて、閉園の曲が流れてんのにメリーゴーランドにむかって物凄い勢いで戻っていった時は笑ったぞ」
「おふくろを止めるのが、親父の役目だろ」
「そうだけど、父さんのブレーキはささやかな一般車用だからさ。母さんみたいな好奇心の大型車両が本気になれば、誰にも止められないんだよ。無敵のアヅサ号は特急だからなー」
坂の下から、排気音と共にバスがやってきた。俺たちは揃って立ち上がる。
「会いたいなあ」
バスに乗り込みながら親父が言う。
「なぁ、ユミチカ。母さんさぁ。盆提灯と精霊馬の代わりにメリーゴーランドでも使って、盆以外でも還ってきてくれないかなぁ」
「どうだろうな。おふくろだからな」
親父の呟きに、俺はそっと視線を外した。鞄の中に入った一枚の写真。メリーゴーランドと制服を着た俺の写真。おふくろのアルバムから見つけたそれを、親父に見せたらどんな反応をするのだろう。涼しげな音をたてて自転車のベルが通りすぎていく。
「スピードが出せそうな曲でもかければ、自転車でやって来るんじゃないか」