中編
薄目を明けると、カーテンの隙間からこぼれる日の光が、視界に入り込む。
それが眩しくて、顔を腕で覆おうとした……だが、腕を動かそうとした途端、全身に激痛が走る。
その痛みでレイは思い出す。……そうだ、俺はルシファーに負けて、それから地上に落ちたのか。……意識を失う前の事を思い出し始めたレイは、いくつも疑問が頭をよぎる。
ここはいったい何処なんだ? ルシファーはどうなった?
何故、俺は今生きている……?
地上へ落ちていったのだから、わざわざ自ら止めを刺すまでもない。と思ったというのか? そんな筈は無い。重傷を負う事はあるだろうが、それでも天使はそのくらいでは死なないという事ぐらい分かっている筈。
それでも止めを刺しに来なかった理由は何なのか。どれだけ考えても、答えは出なかった。
こんな事を今考えていても仕方がないと、ゆっくり上半身だけを起こし、自分の体を眺める。
とても丁寧に手当てされていた。傷の治りは早いとはいえ、あの戦いで受けた傷ではこの手当てがなければ死んでいたかもしれない。
その後、レイは自分の居る場所を見渡す。
どこか良家の屋敷だろうかと思うほど、とても造りのいい部屋だった。
寝かされているベッドも、深く沈みこんでしまいそうな程柔らかいマットレスが敷かれており、とても寝心地がいい。
さて、どうしたものか……体を無理に動かせないので、何もできない。
もう一度寝ようかとも思ったが、眼が冴えてしまっているのでなかなか寝付くこともできない。
退屈を持て余していたところに、部屋の戸が開く音が聞こえた。
「あ! 気が付いたんですね」
誰かが駆けよってくるのが分かった。
声の主は、透き通るような白い肌に、腰まで伸びた艶やかな黒髪の、どこか儚げな雰囲気を感じる女性だった。
その女性は、レイの姿を見て安心したように胸をなでおろす。
「良かった……心配していたんです。もう、目が覚めないんじゃないかって」
「えっと、貴方は?」
「ああ、申し訳ありません。名乗るのが遅れました。私は黒咲真理亜と申します。一応、この屋敷の主をしております。真理亜とお呼びください」
そう言って、真理亜と名乗った女性は軽く頭を下げる。
「えっと、僕……いや、私はレイ、と申します……」
相手の丁寧な態度につられ、レイも思わず畏まってしまう。
「あの……傷の手当ては貴方が?」
真理亜は「いいえ」と首を横に振った。
「倒れている所を見つけたのは私です。傷の手当ては、知り合いのお医者様に来ていただいてお願いしました。かなりの大ケガでしたから、救急車を呼ぼうかとも思いましたが……込み入った事情もありそうだったので、やめておきました」
「……? お気遣い有難うございます。助かります」
正直、天使と人間の体の構造自体に大した差はない。
それでも、何故こんな大ケガをしたのか? と聞かれでもしたら、確実に面倒な事になっていただろう。ありがたい事は確かだ。
ただ、気になることが一つ。
何故、彼女はそんな配慮をしたのか……という事。
こんな大ケガだ、普通なら救急車を呼ぶだろう。だが、彼女はわざわざ気を遣ってそれをしなかった。
「あの、大丈夫……ではないですよね。そんな大ケガですもの。お医者様を呼びましょうか?」
考え事をしていたのが、顔に出ていたのだろう。それが、痛みを我慢しているように思われたのだろう。
「ああ、すいません。考え事をしていただけですから大丈夫ですよ」
「そうでしたか! それなら良かったです。……何かあったら言ってくださいね。出来る限りの事はしますから」
「それじゃあ、お言葉に甘えて、お水を頂いてもいいですか? 喉が渇いてしまって」
「いいですよ。今、持ってきますね」
その後、真理亜に手渡された水を飲むレイ。
「……あの、レイさん。一つお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「答えられることならいいですよ」
レイはもう一杯水を貰い、それを飲みながら、真理亜に耳を傾ける。
「あの、貴方は天使……なのですか?」
思わずレイは口に含んでいた水を噴き出した。
咳き込む彼を、真理亜は謝りながら背中を優しくさすった。
「あの……い、いきなり何を言いだすんですか。その、天使だなんて」
「ごめんなさい。でも、その……私、分かってしまうんです。相手の、考える事。だから……」
「いわゆる、エスパーってやつですか?」
真理亜は頷いた。
……だが、彼女の目は明らかに泳いでいる。
「なら今回は外れですね。俺はただのスカイダイバーですよ」
「ええっ、そんな! だって昨日……」
大方彼女は、自分が墜落していくところを見かけたのだろう。それで天使なのではないかと思ったに違いない。……と、レイは考えた。
「昨日は酷い嵐だったでしょう? そのせいで、パラシュートが途中で外れてしまったんですよ。でもまあ、気か何かがクッションになってくれたお蔭で、大怪我で済みましたけど」
「……そうでしたかあ。せっかくこの歳で自分はエスパーだ。なんて、恥ずかしい嘘まで吐いたと言うのに……」
レイは余裕の笑みを浮かべ、彼女に向けて指を振る。
「嘘を吐くなら、もう少しマシな嘘を吐きましょうよ。そんな幼稚な嘘で正体をバラすほど、俺も間抜けじゃないですよ……黒咲さん?」
真理亜は、レイから体を背けて笑いを堪えているようだった。
「あの、真理亜さん?」
「……その言い方、まるで自分は隠している正体があるって言っている様なものだと思いますよ?」
「あっ」
調子に乗って墓穴を掘ってしまった。と、後悔する頃には遅かった。
「あの、そう言う意味で言ったつもりはないんです。あの……」
でしょうね。と彼女はクスクスと笑いながら言う。
「大丈夫です、誰かに言うつもりはありませんから。それに、エスパーではないですけれど、貴方が天使だって事分かってますから」
「いやその……それは僕が大丈夫じゃないというか……あの、どうして……」
「天使だと知っていた理由は、後で教えますから。今はゆっくり休んでいてください」
そう言って、彼女は食事を持ってくると部屋を出た。
してやられた……レイはベッドに潜りこんで不貞寝を始めた。
*
翌日。立って歩く程度なら問題ない程度に回復したレイは、元々来ていた服がボロボロになっていたため、真理亜の父の洋服をしまっていたクローゼットの中から服を取り出して、それに着替えた。
「良かった。やっぱりサイズは同じくらいでしたね。よく似合ってます」
「ええ、まあ……確かにピッタリですけど……似合ってると言われるのも、複雑」
レイの着た服は、全身黒色だった。
ただ、これは彼が黒の服を好んで選んだ訳ではなく、クローゼットに入っていた服全てが黒だったのだ。
聞いた話では、彼女の父はどうやらあまりファッションに興味がなかったらしく、黒であれば、どんな時でも当たり障りはないだろう。という事で好んでいたとの事だった。
ただ真理亜は、自身が生まれる前に父が亡くなったそうで、母から聞いた話でしかない
から本当の事かは分からないと言っていた。
「いいと思いますよ? チョイ悪の天使ってカッコいいと思います」
笑みを浮かべながら、彼女はそう言った。
「あの、そろそろ教えてください。どうして……」
「天使だと分かったかって事ですね。もう、動いても大丈夫そうですか」
「激しい運動でなければ大丈夫です」
「流石ですね。では、ちょっと付いてきてください」
そして、レイは真理亜に付いて屋敷を出る。
窓から外を眺めて思っていたことだが、実際に歩いてみると、この屋敷の庭は結構な広さがあった。
屋敷も外から見てみるとそれなりに大きいものだと分かった。一人で暮らすには広すぎるほどに。
屋敷の裏手には、真理亜が花を栽培しているというビニールハウスがあり、その更に奥には、木々の生い茂る森があった。
「ここから先は、あんまり人を案内したことがないんです。まあ、この家は街から離れているので、そもそも人が来ること自体あまりないのですが」
「特別ですよ?」そう付け加えて、真理亜は森の中を進んでいく。
そして、森を抜けた先に辿り着くと……そこには、見渡す限り一面に花が咲き誇る花畑があった。
「凄い……綺麗だ」
思わず、そんな言葉が出てしまう。それ程に、美しい光景だった。
「でしょう? 私のお気に入りの場所なんです……でも、貴方に見せたいものは、もう少し先にあるんです」
そう言われて、真理亜に連れられレイは花畑の中心まで行くと、そこで見た光景で全て全てを察する。
そこだけ、何かが落ちてきた後のように花が折れていたのだ。
よく見れば、人型のようにも見える。……だが、人が落ちてきたとして、いったいどこからだろうか。登れるような高いものはこの付近にはない。
もし、空から落ちてきたとしても、クッションになるような木も無いのだ。『人間』が落ちてきたのだとしたら、まず助からないだろう。
「なるほど、これで天使じゃないなら、他には嵐の中飛び込むバカなスカイダイバーくらいですね」
「そう思いますよね……バカなスカイダイバーさん?」
お互い顔を見合わせると、二人は笑い出し、そのまま暫くの間笑い合っていた。
*
それから一ヶ月ほどが経った。
真理亜は、お得意様である夫婦が経営する花屋に、育てた花を出荷しに来ており、レイは車の中で彼女が納品を終えるのを待っていた。
暫くして、戻ってきた真理亜の表情はとても明るかった。
「レイさん、お待たせしました。ここで今回の出荷分は終わりです」
「お疲れさま……と言うか、本当に手伝わなくてよかったの?」
「いいんです。慣れてますし、そんなに量が多い訳ではないですから」
「でも、ずっとお世話になりっぱなしだし……怪我だって、殆ど治ってるから気を遣わなくてよかったのに」
「花の世話を手伝ってもらってますし、それだけでも充分なんですけど。うーん……それじゃあ、次はお願いしますから。さあ、今日はどこへ行きます?」
真理亜の屋敷から街までは距離が離れており、基本的に花の出荷は業者に頼んでいるのだが、お得意様にはいつも自分で届けているらしい。
そして、怪我が回復してきたレイは、真理亜が街に出るのに付いていき、二人で街を周りながらルシファーの動向を探っていた。
とは言え、今のところルシファーはあの日以来特に目立った動きはなく、居所が掴めずにいた。
真理亜は、車の運転をしながら楽し気に鼻歌を歌っていた。
「嬉しそうだね。何かいいことあった?」
「ええ、さっきおじさんとおばさんに、前よりも綺麗になったって言われたんです。表情が明るくなったって」
確かに、真理亜は出会った当初に比べて明るくなった。と、レイも感じていた。
単にお互いに打ち解けてきたからかと思っていたのだが、付き合いの長い知り合いからもそう言われるという事は、それだけではないのだろう。
彼女はあまり人と関わる機会は多くなかったらしい。レイと過ごした一ヶ月が、真理亜に変化をもたらしたのかもしれない。
その日の夕方。
街を見回った後、レイは公園のベンチで休んでいた。
結局、今日もルシファーの手掛かりは見つからなかった。
「流石に、天界の追跡から数百年逃げおおせていただけの事はある……って所だな。もうこの街には居ないのかもしれないなあ」
深くため息を漏らしたレイは、ベンチに背をもたれさせる。
「そんな大きなため息吐くと、幸せが逃げちゃいますよ?」
飲み物を買いに行っていた真理亜が戻ってきて、右手に持っていた缶ジュースを差し出し、それをレイが受け取ると、彼の隣にすわる。
「足の具合はどうですか? 今日も結構歩きましたけど、大丈夫ですか?」
「まだ痛むけど、これくらいは平気。慣れてるしね」
一ヶ月が経ち、他の怪我は治ったものの、光の矢が掠めた右足の怪我だけは今もまだ治ってはいなかった。
光の矢は法力によって作られている。堕天し、悪魔となったルシファーの法力は、天使のレイには毒なのだ。
掠めた程度だったお蔭で、この毒がレイの全身に回ることはなかったものの、他の怪我に比べて治りは遅かった。
「天界に戻ればすぐに治せるんだけど……」
ポツリと、レイは呟いた。
彼としては、何気なく言ったつもりだった。……ただ、それを耳にした真理亜は表情を曇らせる。
「どうかした?」
「その……帰ってしまうんですか? 天界に」
レイは顎に手を当て、暫く考える。
「まあ帰りたいとは思うけど。でも今は人間界でやらなきゃいけないことがあるから、まだ無理かなあ」
「そう、ですか……」
真理亜は暗い表情のままだったが、レイが「大丈夫?」と問いかけると、静かに頷く。
そして、彼女は笑みを作って「帰りましょう」とレイの手を引いた。