SS17 「ある幽霊」
幽霊話です。
怖くはないと思います。
ただ、笑うに笑えない状況、というのは怖いものではないかとは思います。
悠然たる秘境に死霊の姿を見た。
霧深く、現地の者がその生涯のうちで日の光を見ることは少ないだろう。山脈は切り立った壁の如し、その間を流れる渓流の水は盛夏の時期でさえ骨へと染み入る冷たさを持つ。
案内人の制止を振り切り、私は川をボートで下ることとした。
水面は厚い霧が覆い、その切れ目から見えるのは牙のように尖った岩。かって幾人もの旅人がこの川で命を落としたことを考えれば、川下りは無謀と言えた。
だが、そんなことはどうでも良かった。人の間に渦巻く欲望のぶつかり合いに疲れ果て、誰も信じることができなくなった私はどこにいても流れを漂う小船のごときもの。岩に砕かれ、波間に消えようとどうでもいいことだった。
私は案内人であった老人の言葉を思い出した。
「暗いことを考えていると、死霊に好かれますよ」
死霊か……いるなら会って見たいものだな。
水中に指を差し入れる。霧の立ち込めた川面にボートの起こす波が広がっていく。黒い水面に生気のない私の顔が映った。化粧も施さず、髪も乱れている。どうせ死ぬなら、もう少し綺麗にしておくんだったか。不思議なもので、今から死のうという時になっても俗世の見栄が心にこびりついていた。
その時、霧の隙間から別の小船が見えた。それは鮮やかなオレンジ色のゴムボートで、その上にはやはりオレンジ色のライフジャケットをまとった人影があった。
私はその乗員の顔を見た時、思わず悲鳴を上げた。その者の青ざめた顔は明らかに生の世界に属するものではなかったからだ。
再び霧が視界を覆い、死霊の乗ったゴムボートは見えなくなった。
……なんだ、あれは。
私は小船の上で震えた。現実に死の世界を覗いた後では死への憧れなど吹き飛んだ。震える私を嘲笑うかのように、死霊の乗ったゴムボートは再び姿を現した。ぞっとするほど細い指で私を指差す……かと思ったが、死霊は自分の左手首を掲げ、それを指差した。
……手首がどうかしたのか?
私は自分の左手首を見たが、何も起こってはいなかった。死霊はブンブンと手を振って、再び左手首を指差した。……よく見るとそこには光り輝く腕時計があった。
男性の時計には疎いが、恐らくはブランド物の高級品だ。文字盤に施されたダイヤも本物であろう。
「素敵な……時計ですね」
私は懸命に言葉を発した。声はうまく出ず、妙に軽薄な声が出た。
死霊は肉の切れ目にしか見えない唇を曲げ笑った。そして霧の間に消えていった。
私は呆然と、案内人の言葉を私は思い返していた。
霧が一気に晴れ、そこに大型のゴムボートが見えた。
ボートにはすし詰めに死霊が乗っていた。彼らが手に持っているものは様々だったが、全て高級品だとわかった。全員がそれをしきりと指で指している。
私は覚悟を決めた。長年培った営業スマイルを浮かべ、大げさな身振りで死霊たちに手を伸ばす。
「皆様、とっても素敵ですわ!」
死霊達が一斉に笑った。