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◆◆◆ L(兄) ◆◆◆
またやってしまった……。
もう少し大人になろうと決意したばかりなのに、また妹に気を遣わせる結果になってしまった。何をしているんだ、自分は。
シャワーを冷水に切り替え、頭から浴びてみる。
「冷たい……」
当たり前だ。これで風邪でもひいたらただの馬鹿だよな……。
それでも僕はシャワーの勢いを強くして、しばらくの間冷水に打たれることにした。
風呂から上がった後、お休みの挨拶をしに妹の部屋へ行く。『この年になって』とは思うが、幼い頃からの習慣だ。昔はよく子守唄をねだられたりもしていた。(今も時々……。妹が少し子供っぽいのは、僕が甘やかしているせいだろうか?)
「ジェイ、入るよ」
ノックをし、妹の返事を待ってから扉を開ける。
ゆるいウェーブがかかったハニーブロンドの長い髪を揺らして、アンティークな白いネグリジェを着た少女が出迎えてくれる。寝る時以外は『邪魔になるから』と結んでいる背の中ほどまでもある髪が、今はふわふわと彼女の身を包んでいる。
ネグリジェは父が用意した少女趣味なものだ。あいつが選んだという点は気に入らないが、髪を解いたジェイにはとてもよく似合っていると思う。背中に羽でも生えて、そのまま天へ帰ってしまうのではないかと心配になりそうなほどの可憐さだ。
空色の瞳で僕を見上げ、「お兄ちゃん」と、まるで宝物のように大切に僕を呼んでくれる目の前の天使の笑顔に、僕は力など使われなくても癒されていく。
「ねえ、乾かすのに時間かかるしうっとおしいから、髪、そろそろ切ってもいい? 暑くなってきたし」
「え…………。う、うん、いいよ……。ただし、極端に短くしないでね」
以前『うざいから』と、ほとんど坊主のように刈り上げてしまった妹に、僕は『頼むから長くしておくれ……』と涙ながらに頼んだことがある。
『お兄ちゃん、長い方が好きなの?』
『うん……短いのも可愛いけど、長い方がいいな、僕は……』
という会話があった後、妹はなるべく僕の好みに合わせようとしてくれている。切る前は、律儀にこうやって僕にお伺いを立ててくれる。
切るのは、正直もったいないと思う。こんなに似合っているのに。
僕は名残惜しく、彼女の髪を一房手に取った。クルクルと、僕の手に巻きつけてみる。猫の毛みたいに柔らかい。
「僕よりもお兄ちゃんが伸ばせばいいのに。こんなに綺麗な銀髪なんだから」
妹も、手を伸ばして僕の髪に触れる。「ほんとに綺麗……」と彼女も手に巻きつけようとするが、髪質の違いで僕のはサラッと指の間をすり抜けてしまう。
「あれ? 髪が冷たいよ、お兄ちゃん」
僕の頬に手を伸ばし、その冷たさに驚いて声を上げた。
「なに!? なんでこんなに冷たいの!?」
「えーと……寒垢離?」
僕は目を逸らしながら答えた。ちなみに寒垢離とは、神仏に祈願をこめるため寒中に冷水を浴びて心身を清めることだ。
「何馬鹿なこと言ってんの! ああ、手もこんなに冷えきって! 風邪ひいちゃうよ!」
僕はもう一度風呂に連れ戻され、バスルームの前で待ち構えていた妹にちゃんと温まったことを確認されてから、寝ることを許可された。
風呂の後、父の寝室の前を通った時、中からボソボソと話し声が聞こえてきた。
片方はヤツ、もう片方は……僕?
……。
嫌な予感しかしない。心の平穏を保つために、何も気づかなかったことにしてこのまま部屋に帰ってはだめだろうか。
だが、小さく吐息した後、僕はドアを開けて中を覗いた。その音に気づいたヤツが振り返り、「エ、エル君!」と悲鳴のような声を上げる。
「ナニ? ダディ」
予感、的中。
もちろん、今のは僕の返事ではない。でも、僕の声。
声の発生源は、ヤツの腕に抱きかかえられた、等身大の僕そっくりの人形だった。非常によく出来ている。これが啓なら、十分くらいなら僕本人だと思い込んで会話しているかもしれない精巧さだ。
「ネェ、モットオハナシシヨウヨ、ダディ」
『ダディ』とやらは慌てて、人形の首の後ろに手をやった。『カチリ』とボタンを押したであろう音。
「え、えとね……今のは、僕の腹話術で……」
僕は黙って父を見据えた。
「……ホントはコンピュータ合成なの」
「……………………」
「……会話も一万通りインプットしてあるんだよ」
「……………………」
「……あ、丁寧語バージョンと両方あるんだよ」
「……………………」
「……ゴメンナサ〜イ……だってだって、寂しかったんだもん」
「…………っ」
短く息を吐いた後、僕は踵を返し、叩き付けるようにドアを閉めて、部屋を出た。常に懐に忍ばせているダガー(短剣)に手が伸びそうになるのを、必死で抑えながら。
*
――眠れない――。
雑多な感情が胸に溢れ、気が昂ぶって、なかなか寝付けなかった。
こんな時は、心の間隙をついて、普段はつとめて考えないようにしている母のことを思い出してしまう。
母がいなくなってから、僕たちの間で母についての話題が出ることは一切なくなっていた。それはとても不自然な空白だった。
妹は、時折ぼんやりと遠くを見つめていることがある。そういう時は、母のことを考えているのだろう。
僕の視線に気がつくと、すぐにその表情を消してしまう。そしてかわりに浮かべるのは、笑顔だった。僕はその笑顔が、哀しかった。
他にも、例えば玄関の扉が開く音が聞こえてくると、妹はとっさに振り返ってしまうことがあった。彼女は、父の底抜けに明るい「ただいまー♪」という声が聞こえてくるまで、息をつめて玄関の方向を見つめていた。けれど父の声が聞こえると同時に、「お帰りー、父さん♪」といつものように元気に声をかけるのだ。
僕はそれらを見なかったふりして、なかったことにする。
母が帰って来た時、僕たちは母に対してどんな態度を取ったらいいのだろう。どんな表情を浮かべ、どんなふうに声をかけ、どう答えたらいいのだろう。それが今から、怖い。
僕はこれまでも、母に甘えるということをとても困難なことに感じて来た。正直、息苦しかった。
母への愛情はもちろんあるけれど、それよりも先に来るのは罪悪感だった。母に対して常に『優等生』を演じている自分がいて、そんな自分にしかなれないことにどうしようもない苛立ちを感じることもあった。
母が僕たちを責めることは決してないから、僕たちは自分で自分を責めるしかない。そのことがよけいに母を苦しませるとわかっているから、言葉には出さない、態度には表わさない。それでも、僕は母に対するこの負い目から、母とまともに向き合うことをどうしても避けてしまっていた。
そんな僕が、どう母を迎えればいいというのか。――次に母が帰ってくるのは、母が元婚約者の死を見届けた後だというのに。
幾度か寝返りを打った後、諦めて起き上がった。こっそりと台所に行き、料理用のワインをコップに注いで部屋に戻る。
僕はあまり酒に強い方ではなく、ごく少量のワインでも次第に頭に霞みがかってくる。酔うためではなく眠るための酒だった。
未成年での飲酒という事実に対して、僕は自分自身へ、そう言い訳をしている。そしてそのごまかしへの罰のように、この状態で眠ると、悪夢ばかり見るのだった。
そしてその夜見た夢は、へたな悪夢よりずっとたちの悪い、――ただの、過去のできごとの再現だった。
*
『エル君、僕ね、ちょっと出かけてこなきゃなんないの』
父は泣き出しそうな顔でそう切り出した。対する僕は、満面の笑みを浮かべていた。
『どうぞどうぞ、どこへなりと』
アラスカでもチベットでも。いや、いっそ大気圏外に行ってくれれば言うことなしです。あ、やっぱりどうせなら宇宙服無しで。
『法王に呼ばれてね、ローマへ行かなきゃなんないんだ』
その瞬間、僕の視界は薔薇色に染まった。『ローマ』。なんてすてきな響きだろう。往復だけでもかなりかかる。しかもローマ法王直々のお達しなら重大事に違いない。
「有り難うございます、法王猊下」
まだ見ぬローマ法王へ、僕は心の中で感謝の祈りを捧げた。
父は元神父で、今でも能力を使ってエクソシズム(悪魔祓い)のようなことをしていた。あの魅了の力で悪魔たちを服従させるのだ。
父は母との結婚を機にプロテスタントに改宗し、そして同時にエクソシスト(悪魔祓い師)を引退しようとしたそうだが、父の才を惜しんだ周囲が父を引き止めたらしい。そして他の誰の手にも負えないような大物が出た時のみこうやって呼ばれることになったそうだ。だから今回もその関係なのだろう。
『ごめんね、ごめんね。君達ガッコがあるから連れてけないの。ジェイ君のことお願いね』
『かまいませんよ、お父さん。ジェイのことは任せてください。僕達だけで大丈夫ですから』
僕は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。妹が何も知らずにこの現場を見たならば、父に双子の兄弟でもいたのかと目を疑ったことだろう。
『エル君、寂しいだろうけど我慢してね。僕毎日電話するからね』
『しなくていいです。電話代がもったいない』
『そんなこと気にしなくていいの。どーせ払うのはあっちなんだから』
「あっち」とは法王庁のことだろう。
『ならば尚更です。他人の金だからいくら使ってもいいという考えは改めてください』
でもやっぱりかけてくるんだろうな、こいつは。
『だってヴァチカンの連中嫌いだもん。ちょっとぐらい使ってやったってかまわないよ』
『……そういう問題じゃないでしょう』
『だってだって、あいつら僕とエル君たち引き離すんだよ!? 自分たちが無能なせいで、あれしきのことで僕を呼びつけてっ。だから、これは復讐だもんっ』
ガキか、おのれは。
『……わかりましたよ、もう好きになさい。ただし、一日一回で一人につき五分以内。これは厳守してください』
それを過ぎれば問答無用で切る。ストップウォッチを買って妹にも持たせておこう。
ヤツは『はーい♪』とお手々をあげて、元気にお返事した。
僕はこいつを幼稚園に放り込むべきか、それとも老人ホームに押し付けるべきか、真剣に検討した。
*
現在午後八時ジャスト。電話をかけて来るならこの時間に、と命じておいたからヤツにまちがいない。
僕は嫌々ながらも仕方なく受話器をとった。その途端、
『エルくーんvv 僕だよーvvvv』
語尾に余計なものを幾つもつけたフルボリュームの奇声が僕の耳朶を打った。
『充分聞こえてますから音量を下げてください』
僕はストップウォッチのボタンを押しながら言った。
『わーいv エル君の声だーvv』
…………。できるなら、もう一言も喋りたくない。
『ねえエル君』
『……なんです?』
『エヘv 呼んでみただけv』
…………。電話回線が繋がってると霊的な磁場も繋がることになるんだよなぁ……。ああ、僕に式が打てたら……。
『そーだ、エル君ちゃんと夕飯食べた? 朝抜いてっちゃダメだよ? お昼はなるべくお弁当作ってくようにね。学食は偏るから』
『はい……』
『戸締りとか大丈夫?』
『……ええ』
しつこい。
『ね、エル君。夜、淋しくなったらいつでもかけてきていいんだよ』
『……その可能性は皆無ですので、御安心を』
『そう? 無理しなくていいんだよ? 君はまだまだ親に甘えていい年齢なんだからね』
『……僕の八才の時の目標が「自立」でしたので』
いつこいつがいなくなってもいいように、僕は九才になるまでに家事全般をこなせるようになっていた。
『エル君……僕に心配かけまいとしてるんだね。なんて健気なんだ』
ヤツは感極まったように言った。
『幸せな人ですね……』
『うんv エル君がいてくれるからv』
『………………』
同じ一つの現象を両者が共有する時、何故それが互いにとって正反対の意味を持ち得るのだろう。
『僕頑張るからね。頑張ってできるだけ早くお仕事終わらせる。んで早くエル君とこ帰るんだっ』
『いえいえ。ゆっくりお仕事なさってください。急いては事を仕損じます』
『ん〜〜そうもいかないんだ。急がなきゃちょっとヤバイことになるから』
『……何が起きてるんです?』
別に聞きたくなどなかったが、責任感と義務感と諦念の三つ巴が僕に質問をさせていた。
『僕が着くの待ってりゃよかったのに、先走ったバカがいてね。急展開。ゴメンね、一応守秘義務があるから詳しいことは言えないんだ。これ盗聴されてるかもしんないし』
『……そういうことでしたら、のんびり電話してる暇なんかありませんね。切りましょう』
もし盗聴しているやつが本当にいたとしても、この馬鹿な会話を聞かされるはめになるその人に、僕は軽く同情を覚えてしまった。
『やだいっ。後二分あるもんっ』
『一分四十七秒です』
『…………エル君のイジワル』
『ほ〜〜う』
僕はせいぜい嫌味ったらしく言ってやった。
『誰が聞いてるかもしれない中で息子の悪口を言うわけですね。そうですか、お父さんはそういう人だったんですか』
『あ、ち、ちがうのっ。さっきの取り消す! ごめんねエル君!』
『別にいいんですよ。お父さんが僕のことをどう思っているかは、よ〜くわかりましたから』
『エルく〜〜〜ん』
勝手に泣いてろと言いたいところだが、あんなのでも一応あちらにとっては貴重な戦力だ。このショックを仕事に引きずられると困るので、僕は「しょうがないな……」ともはや心の口癖になっている台詞を心中で呟いてから、なだめにかかった。
『冗談ですよ。怒ってやしませんから』
『……ホント?』
『ええ』
『ホントにホント?』
『…………ええ』
『よかったあ〜、アッ……』
ガタンッと衝撃。受話器を落としたのだろう。それからゴォォッというすさまじい音。嫌な予感に胃がチクチクする。しばらくあって、
『もしも〜し、エル君?』
『……はい』
『ごめんね、ちょっとゴタゴタしてて』
『……どうしたんです?』
『エヘヘ。さっきのショックで今日封印したのが暴走しかかっちゃってv でもちゃんとおさえたから大丈夫だよ』
『……どのくらいのやつです?』
『ん〜〜と、そうだね。逃がしてたらココら辺一帯無くなっちゃってたかな?』
……ココ=ヴァチカン=カトリックの総本山。世界中の信仰が集まる場所。
『……お仕事、頑張ってください』
『うんv がんばるv』
『もう、五分経つので切りますね……』
『……はァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜イ』
『では』
『オヤスミ、エ……』
ブツ。ジャスト五分。……疲れた。だが、次のターゲットである妹を守りに行かなくては……。
僕は重い体に喝を入れて、妹の部屋へ駆けて行った。
そしてヤツが出張から帰った後も、僕はしばらくの間、原稿の催促に脅える漫画家のように電話恐怖症になっていた。