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◆◆◆ L(兄) ◆◆◆


 花壇に囲まれた道を抜け、教会の居住部入り口に到着した。そよ風がカスミソウを揺らし、季節の花々の香りを運んでくる。平和で、美しい光景。なのに、目の前に立ちふさがる扉は、そこから先は別世界であると告げるかのように厳めしく、暗く淀んで見えた。

 僕は妹を背後にかばい、扉に手を掛ける。


「……ただいま帰りました」


 できれば、帰りたくなかった。

 間髪入れず、奥からドタドタと騒がしい足音が聞こえてくる。


「お帰り! 僕の天使たち!」


 ガバッ。足音の主は大きく腕を広げ、僕たちに抱きつこうと2.5メートル手前からダイビングしてきやがった。

 くそっ、よけたら妹に当たるっ。

 僕はまず手に持っていた鞄を父めがけて投げつけ、鞄をかわそうとして体勢を崩したヤツのみぞおちに後ろ回し蹴りをくらわせた。


 ふう……。多少の効果はあったらしい。敵は床の上でうずくまり痙攣している。


「ただいまー、父さん」


 妹が後ろからひょっこり顔を覗かせた。


「お帰りなさい、ジェイ君。今日も可愛いね♪」


 床に丸まったまま顔だけ上げているヤツ。大人しく永眠していればいいのに。


「ありがと、父さんも可愛いよ」

「どこがだ!」


 僕は珍しく声を荒げて妹に突っ込んでしまった。妹の審美眼はどうなっているのだろう。お兄ちゃんはおまえの将来が心配だよ。


「どこって、えーと、今のアルマジロみたいなかっことか、かな。攻撃を受けてから丸まったんじゃ遅いけどね」


 『アルマジロ=南米産の小型哺乳類。体は甲で包まれ、危険になると体を巻いて丸まる』


 あはは、と二人は顔を合わせて笑っている。そこに僕は絶対零度の声で割り込んだ。


「廊下は走らないでくださいといつも言っているでしょう、お父さん」

「だって、早くエル君たちの顔見たかったんだもん」

「床が磨り減ります」


 腕を組み、氷点下の眼差しで巨大アルマジロを見下ろす。


「エル君、冷たい……」


 床の上で『の』の字を書くな。


「どいてください、上がれませんから」


 僕は邪魔なアルマジロを蹴り転がして、道を作った。


「今日のおやつはジェイ君の好きなアップルパイだからね〜」


 ころころと転がりながら、ヤツの声が遠ざかっていく。

 アップルパイか……。『魔法使いのお婆さんが毒リンゴを持ってやって来てて、ヤツが食べる分にだけそれが混入してる』、とかないかなぁ。

 そんな僕たちを尻目に、ドラマドラマ、と妹は居間に駆け込んでいった。



 『ドラマ鑑賞中につき立ち入り禁止』の文字に『※アルマジロ限定』と新たに付けたしたプレートをドアにかけ、妹とソファに並んで腰掛ける。

 僕は実を言うとあまりこの手のストーリーは好きではないので、主に笑い転げている妹の姿を眺めて過ごしていた。

 妹は熱しやすく冷めやすいアルミホイルのような性格なので、この韓国ドラマ熱も一過性のものだろう。韓国ドラマにはまる前は、ミステリーものにどっぷり肩まで浸かっていたし。


 一時期流行っていたミステリー小説やドラマ。それは一種独特の世界観で描かれていたので、僕にとっては今のドラマよりよっぽど面白いものだった。

 誰しも一つ以上の能力を持っているという常識を覆し、ミステリーの世界では、人は自力で空を飛ぶことすらできないのだ。過去見も読心も不可能という条件のもとで、何一つ能力を持たない人間が、地道に捜査し、また自分の頭脳だけで見事に事件を解決する。

『謎が解き明かされていく時に感じるこの高揚感! そして最後に来るカタルシス! これがいいんだよ、お兄ちゃん!』

 妹は手に汗握り、画面に喰らいつくようにして見ていたものだ。


「今回もどつき倒したくなるような展開だったね、オッパー」

「そうだね、最初と最後を五分ずつ見ただけで四十分すべての内容を答えてあげられるくらいの展開だった」


 ちなみに、オッパーというのは直訳すると『お兄さん』だが、韓国では女性が年上の男性に対して親しみを込めてそう呼ぶ風習があるそうだ。ドラマを見た後、影響されやすい妹は、しばらくこういったエセ韓国語を使いたがる。


 そこにコンコンとノックの音。


 一分一秒の狂いも無く、毎回ドラマの次回予告が流れ終わると同時に聞こえてくるこの音を、テレビの音声をフルボリュームにしてシャットアウトしてしまいたいという誘惑にかられる。

 気づかないふりをしたい。だが、放っておいたら、『コンコン』は『カリカリ』という扉を爪で引っ掻く音に変わり、そのうち『シクシク』という啜り泣きになる。そしてその不快で不気味な雑音は延々と……延々と途切れることなく流れつづける。ジャパニーズホラー映画を観るよりも数段リアルな恐怖を味わえたよ。 


「おやつおやつ♪」


 妹は何の躊躇も無く禁断の扉に手を掛ける。

 ヴァンパイアは、初めて入る場所には中から招き入れられないと入ることができないという言い伝えがある。窓の外から獲物である乙女の目を見、催眠術を掛け、獲物自ら窓を開かせるよう仕向けるらしい。

 妹は、ヴァンパイアが苦手とする魔よけのニンニク――ではなく立ち入り禁止のプレートを外し、ティーセットをギャルソン風に持った魔物を招き入れた。


「お待たせ♪ 冷めないうちに食べてね」


 待ってない。


「アップルティーとアップルパイ。どっちも紅玉を使ってるんだよ。いっぱいあるからどんどんお代わりしてね」


 ああ、そういや食堂の隅にリンゴがぎっしり詰まったダンボール箱が置かれていたっけ。

 また信者さんからいただいたんだろうな。


 嫌々ながらもフォークを突き刺す。

 並んで座る僕たちの向かい側に座ったヤツは、『美味しい? 美味しい?』とニコニコと視線で問うてくる。パタパタと振っている尻尾の幻覚が見える……。

 さっさと食べてこの拷問のような時間を終りにしたいが、早く食べ終えてしまうと「気に入ってくれたんだね、エル君♪」と勝手にヤツが二つ目を皿に追加してしまう。

 のそのそと食べている僕の横で、妹はもう二つ目(しかも大きめに切ったもの)に手を伸ばしていた。


「んー、お腹いっぱい。美味しかったよ、ごちそうさま、アボジ」 


 二切れ目も綺麗に平らげた妹は、満足そうにエセ韓国語で父に笑いかけた。アボジとは『お父さん』という意味だ。


「そう? よかったー♪ 明日はリンゴのタルトにしようかな、まだまだいっぱいリンゴあるからね。――ところでジェイ君」

「ん、なに?」

「アボジもいいけど、どうせなら『ダディ』とか『パパ』とか呼んでくれる方がいいなぁ」

「はいはい、ダディ」

「ワーイ♪」


 金色の髪を揺らしながらピョンピョンと飛び跳ねるヤツ。

 ひとしきり喜んだヤツは、今度はこっちにキラキラとした眼差しを向けてくる。


「……呼びませんよ?」


 呼ぶと思うか? 本気でそんな可能性を考えるか? おまえはミトコンドリア以下の知性の持ち主か?

 そうか、こいつが異様に若作りなのは、精神の幼児性が肉体の老化に歯止めをかけているからなのだろう。


「ええーっ、なんでー!? 『お父さん』より『ダディ』の方が短いよ? 呼びやすいよ? その分いっぱい僕のこと呼べるよ?」


 僕は五百メートルの上空からこいつを『無料バンジージャンプ』させることを想像して、テーブルをひっくり返すことをなんとかこらえた。ジャンプは無論ヤツ一人でだ。さぞきれいに砕けてくれることだろう。


「……僕は僕自身の理論にのっとって行動しているんです。『ダディ』及び『パパ』などといった呼称を用いることはそれから逸脱しています。僕は別に『くそ親父』や『ろくでなし』等の蔑称を使用しているわけではないのですから、非難される筋合いはありません」

「…………エル君、大人になっちゃったんだね。パパ寂しいよ」


 無視だ、無視。これは幻聴だ。アルマジロが人間様の言葉を喋るわけがない。


 ……、……。


 ――ふつっと、頭の中で何かが切れた。僕の右手に握られたままだったフォークが、音を立てずにぐにゃりと曲がっていく。そのフォークを静かに置いて、僕は自己暗示を放棄した。

 この怒りは、明日啓にぶつけることにしよう。今はただ、父の背中をさすって慰めている妹の愛らしい笑顔にだけ神経を集中させ、それ以外の思考は強制終了させよう。


◆◆◆ J(妹) ◆◆◆


「元気出してよパパ、いつものことじゃん。ありえない夢を見ても現実を認識した途端虚しさがつのるだけだよ。そんなことより、パイの残り、啓に持ってったげてもいい?」


 理由はよくわからないんだけど、今日は啓を落ち込ませちゃったみたいだからご機嫌取り。まあ落ち込んでても、だいたいは寝て起きたら忘れてるんだけどね。

(兄は啓のそういうところから、彼を猿呼ばわりしている)

 だけど、たまにしばらく引きずっちゃうことがあって、そういう時はうっとおしくてしょうがない。今回はどうかわからないけど、念のためのフォローです。

 それに、啓宅に行くともれなく面白いものも見られるし。実はそれを楽しみに隣に行くという部分もあったりする。


「いいよ、じゃあ包んでくるね」


 すんなりと了承を得た。

 父は僕たちの交友関係にうるさく口を出してくるが、お隣の啓とは幼い時から家族同然の付き合いなので、警戒の対象外なのだ。兄とセットでない時の啓は基本的に人畜無害だしね。


 兄を見遣ると、物言いたげだった。父と二人っきりになるのが相当厭なんだろうね……。ごめん、すぐ帰ってくるから。


 啓のご機嫌取りに行く時は僕だけで、というのは暗黙の了解事項。兄と一緒に行った場合、よけい落ち込ませるか、最悪キレさせるか、というパターンになることが多いから。


「はい、お待たせ。あんまり遅くならないようにね」


 常備してあるケーキの箱に入れて持ってきてくれた。

 父の趣味はお菓子作りで、いつも甘い匂いをまとっている。僕は甘い物好きだし、だからこの匂いも好きなんだけど、兄はケーキ屋さんの近くを通るのさえ嫌がるようになった時期があった。


 父は僕たちを溺愛してる。かまって欲しくて付きまとって、だけどその過剰な愛情表現が、ますます兄の苛立ちを募らせていくという悪循環。兄が父に対して敬語を使っているのも、父との距離の表れだ。


「夕飯までには帰ってくるんだよ。今日はシーフードグラタンだからね」


 シーフードグラタンは兄の好物。父はお菓子だけでなく料理も得意。それでもやっぱり嫌々食べられるんだろうけど……。


 しみじみ思う。報われない人だなぁ、父さんって。僕はほんの少し父に同情した。

 母と兄のことがあるから複雑だけど、僕はやっぱりこの人を嫌いになれない。


 思わずジッと見つめていると、父は「ん?」と小首を傾げて、猫のような大きな瞳を瞬かせた。

 僕とも兄とも似ていない若草色の瞳。

 この子供のような仕草のせいもあるんだろうけど、父は異常に若く見える。父さんのこと可愛いって言ったのも、あれ本心からだよ。


「ううん、なんでもない。行ってきまーす」


 父と兄を二人にしておくのも心配だけど、隣家を崩壊させる危険は冒せない。ケーキの箱を携えて、僕は一人で啓のもとに向かった。


◆◆◆ L(兄) ◆◆◆


 さっさと自室に閉じ篭り、予習するためにノートを開いた。……はずだが、気が付いたら白紙だったページにはなぜか完全犯罪の手段がびっしりと書き込まれていた。


 ――ああ、やばいな、僕……。


 窓辺に立ちカーテンを開け、隣家を見遣る。そこにいるであろう妹の姿を思い浮かべ、一刻も早い帰宅を願った。

 依存しているのは僕の方だろうか……。

 妹には申し訳ないと思っている。父と僕との間に立ち仲介者の役割を果たしている彼女には、だいぶストレスをかけさせてしまっているだろう。

 守るつもりが守られている。もう少し大人にならなければ――。

 家の中ではことさら明るく振る舞う妹の、これ以上の負担になるようなことがあってはならない。


 だが、そんな決意は、携帯にかかってきた一本の電話で一瞬で瓦解させられることになる。

 着信拒否にしたくてたまらないが、そうすると直接僕のところにやってこようとするので仕方なくそのままにしてあるナンバー……ヤツだ。


『エルくーん☆』

「勉強中は邪魔しないでくださいと言っているでしょう?」


 『勉強中につき入ったら滅殺、邪魔するな ※怪奇猫目男限定』のプレートが見えないのか?


『お部屋に入ってないからちゃんと言いつけは守ってるよ♪』

「電話をかけてくること自体が邪魔になっているとは考えないのですか?」

『今勉強してないでしょ? エル君椅子に座ってないもん』


 僕はカーテンを引き裂く勢いで閉めた。

 ……どこだ、どこから見ている!? 


 盗聴器・監視カメラを仕掛けたり、遠視能力を持つ信者など第三者を使ってプライベートな空間を見張らせたりした場合、親子の縁を切ると申し渡してある。一度でも見つかれば終りだ。ヤツもその危険は冒さないだろうと思っていたのだが、僕の考えが甘かったのか?


『今ねー、啓君ちの植え込みに隠れてるの。こっからだとエル君の部屋もよく見えるんだよー。年頃の女の子が幼なじみとはいえ男の子の部屋にいるのって心配でしょ? 親としては守ってあげなくっちゃね☆』


 エライでしょ、ほめてほめて? と悪びれずに言う父に、頭痛を覚える。


『二人っきりじゃなくて奥さんも一緒にお茶してるから今は安心だよ』


 だから電話したのー、エル君の声聞きたくって、と更に阿呆な声で僕の頭痛を悪化させる父に、「――今すぐ帰ってきなさい。話があります」とだけ言い、電話を切った。

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