2
◆◆◆ J(妹) ◆◆◆
「お兄ちゃん」
トイレの外から兄に呼びかけた。
話し声がしていたのがピタリと止み、扉がキィッと開けられる。
「ジェイ? 待ってなさいって言ったのに」
苦笑して廊下に出てきたのは兄だけで、見える範囲には啓の姿しかなかった。
「ごめんなさい。お兄ちゃんがあいつに嫌味言われてるんじゃないかと思って……」
「こら、先生のことをあいつ呼ばわりするもんじゃないよ。そういうのは心の声だけにしておきなさい」
「それもそうだね、気をつけるよ。……ねえ、怒られたりしなかった? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、僕には何も言われなかった。心配して来てくれたんだね、ありがとう」
兄は僕を安心させるように瞳を柔らかくして微笑んだ。でも、すぐに真面目な顔になって、諭すように言った。
「でもね、怒られるようなことしたって自覚はあるんだよね? 少しは反省したかい?」
――――した。
僕が怒られるのはなんともないし、ディーに謝る気なんか欠片も無い。だけど、兄に被害が及ぶことを考えたら、すっごく反省した。
「うん……ごめんね……」
「ならいいよ、もう二度としないね?」
「はい、しません」
「いい子だ」
兄は微笑んで、また僕の頭を撫でてくれた。
優しい兄の手のひらを感じながら、『反省させるために僕を待たせてたのかな?』、ふとそんなことを考えた。
僕を長い時間一人で待たせておいたのは、兄のことを心配させるよう仕向けてのことだったのかなって。僕が自分自身のことじゃ反省なんかしないってわかってるから――。
だとしたら……。
あーあ、読まれてるなぁー。
僕は頭を兄の胸にすり寄せた。
「どうしたんだい? 甘えん坊さん」
兄の声に笑いがにじんでいる。
「んー……、安心した。お兄ちゃんが僕のせいで嫌な思いしなくてすんだんだってわかって。だって、あいつ――じゃない、先生ってば陰険なんだもん。僕の一番の弱点わかってて、そこを的確に攻撃してくる可能性大なんだから」
「そんなことない、いい先生だよ。ちょっと変わったところはあるけどね」
僕は兄の胸から顔を上げて反論した。
「変人だってとこは認めるけど、だまされてるよ、お兄ちゃん。ディーは絶対性格悪いっ。僕のことが気に入らないからって難癖ばっかつけてくるんだよ?」
知ってるでしょ?
僕は頬を膨らませて兄を見上げた。
「それはジェイの勘違いだと思うな。彼は理不尽なことはしないよ。ところで、悪口ばかり言ってるけど、本当に反省してるの? 今回のことも彼だからお咎め無しだったんだからね。他の先生に見つかったらどうなってたかわかってる?」
「……大丈夫だよ。短時間で解ける程度の縛り方にしておいたもん。もしその間に見つかっちゃってたら……『先生の趣味に付き合わされました』で通す!」
僕は拳を握った。
「ジェイ――お願いだから、妙な誤解を招くような発言は控えてね……」
僕は兄にギュッと抱きしめられた。
どうしてそんなに哀しそうな声で言うの、お兄ちゃん。
「ねえ……二人して僕のこと無視しないでよぅ……」
あれ、まだいたの、啓。
あ、そっか。もともとの目的は啓を迎えに来ることだったんだっけ。
◆◆◆ K(幼なじみ) ◆◆◆
エルのばかああああああ! やっぱり僕のことだましてたんだぁっ!
ジェイは帰ってなかったし先生の悪口言ってるし。ちっとも仲良くなんかないじゃないか。
エルの嘘つきエルの嘘つきエルの嘘つき。もうエルの言うことなんか信じないぃ!
いつもいつもだまされてるから、今回のこともきっと嘘だと思ってたけど……十中八九そうだと思ってたけど! それでもあんなふうに言われたら『もしかして……?』って心配になっちゃうじゃないかぁ。そうやって僕の反応を見て楽しんでるんだ、あの悪魔は!
僕はジト目でエルをにらんだ。だけど、エルはジェイとイチャイチャしてて気づいてもくれない……。
――――いつか、フクシュウしてやる……。
ゴゴゴゴゴ、と、僕の背後に怒りの炎が燃え上がった。
エルの上履きにひらがなで名前書いてやる。
不幸になるおまじないしてやる。
僕が明るい未来について熟考しているとも知らず、エルはジェイと更にベタベタしていた。オノレ、今に見てろ……。
……。ジェイもジェイだよ……。
ねえ、エルの心配ばっかりしてるけど、僕のことは……? 気が付いたら一人でトイレに置いてかれちゃってたし…………僕は怒られててもいいの?
そう考えると、なんだか泣きたくなってきた……。さっきエルに殴られた頭が今になってズキズキと痛む。
僕、なんでこの二人と付き合ってるんだろ?
ああそうか、家がお隣さんだからだっけ。
じゃあしょうがないよね……。
◆◆◆ L(兄) ◆◆◆
「ねえ……二人して僕のこと無視しないでよぅ……」
そう恨みがましい口調で僕達の間に割って入った幼なじみに、妹は一瞬、『あれ、まだ居たの?』という眼差しを向けた。それからようやく当初の目的を思い出したようだ。
「あはは、ごめんごめん。別に無視してたわけじゃないよ、啓。ただ単に存在を忘れてただけだから」
爽やかな笑顔で、ナチュラルにひどいことを言うね、妹よ……。
「ひどいよう、ジェイ……。僕のことなんかどうでもいいんだぁ……」
「そんなことないって。君は僕らの大切な幼なじみじゃないか。自分を卑下するもんじゃないよ」
うっとおしい声で泣き言を言う啓に対し、妹は今度はフォローを入れた。
「じゃあなんで僕を置き去りにしたの?」
「え、と……君、トイレの壁さんと親交を深めてたし、邪魔しちゃ悪いかなって」
「ジェイまでわけわかんないこと言わないでよ……」
「なんか声かけづらかったんだもん。それにこうやってちゃんと迎えに来たんだからいいだろ?」
僕に説得されたから、だけどね。
僕は会話には加わらず、心の中で静かに突っ込みを入れていた。
「僕を迎えに来たのはエルだもん。ジェイはそのエルを迎えに来ただけだもん。それにエルは僕のこと殴ったしイジワルしたし……こんななら放っといてくれたほうがましだったよ」
「すねないでよ、啓。兄さんと君の喧嘩はいつものことじゃん。それに殴り合ってこそ友情は深まるもんだよ」
「え……ジェイはやっぱり殴るのが愛情だって思ってる人なの?」
「愛情って言われるとなんか違う気がするけど……。少なくとも、弱者に対してふるわれる力はただの暴力でしかないね。親が幼い我が子に拳を振るうことが愛情だなんて僕は思わない」
「じゃあエルのはただの暴力だよ。僕、非力だもん」
「確かに身体能力は兄さんの方が上だけど、君には式があるんだからじゅうぶん対抗できるだろ。召喚符さえあればいくらでも式神出して攻撃できるんだから、むしろ君の方が有利だ」
「お札出す暇なんてなかったもん。気が付いたらいきなり殴られてたんだから。見てよ、このタンコブ……」
「あ〜……、ちょっと腫れてるね。君、よっぽど深くトリップしてたんだね。痛い思いするのが嫌なら大型目覚ましでも標準装備しとくことを勧めるよ。治したげるからじっとしてて」
妹が啓の後頭部に手の平を当てる。妹の全身から柔らかく温かい気が放たれる。
癒しの力が近くにいた僕にまで及び、身体に精気がみなぎるのを感じる。
周囲の空間がキラキラと煌めき、その光に包まれた妹の姿は、見る者の心を奪わずにはいられないほどに美しかった。
「はい、終了〜。お礼はタクシーね♪」
「え……うん……」
ぼうっとしている啓の懐からサッと召喚符を抜き取った妹は、彼にそれを握らせて急かした。
「早く! ドラマが始まっちゃう!」
妹に促されるままに僕たち三人は校庭に出て、啓はソラ君を召喚した。
ソラ君というのは啓の操る四体の式神のうちの一匹だ。全身を青い鱗に覆われた、獰猛そうな全長二メートルほどの西洋型ドラゴン。中国の竜と違って細長くは無く、どちらかと言えば寸胴で、足が短い。青竜も和洋混交の時代なのだろう。
僕は先にソラ君に飛び乗り、妹の手を引いた。飛行中に落ちると危ないので、いつも僕の後ろに座らせてしっかり僕にしがみつかせている。
「しゅっぱーつっ」
妹の掛け声に合わせ、ソラ君の体がゆっくりと浮上する。なじんだ浮遊感。
乗り心地が一番いいのはやっぱりソラ君かな。白い虎のミィちゃんは毛並みがよくて気持ちいいんだけど、毛をつかむと痛がるからバランスがとりにくい。赤い鳥のピィちゃんは常に燃え上がっているので、人肌の温度に設定してある時であっても、炎に包まれているのは落ち着かない。黒い亀のハル君は、回転しながら飛ぶので除外。
「急いで帰らないでもいいように早く新しいビデオ買おうね、お兄ちゃん」
「そうだね……ビデオ代、半分出せよ、啓」
「え……僕、あんまりお小遣い残ってないよ」
「うちのビデオを謎の物体に変化させたのは誰か言ってごらん」
「う〜……、わかったよぅ」
単純に破壊しただけなら、パーツさえ揃っていれば買ってから五年間は無料で復元してもらえる。
だが啓が使った失敗符で召喚されたイタズラ好きの小妖精は、ビデオを『誰かの夢を録画する機械』に変えてしまった。
めちゃくちゃなストーリー、白黒が多い画面。視点も定まってなくて、最初は何が映っているのかよくわからなかった。壊れたのだろうかと何度か録画をやり直すと、見知った顔や場所が出てきた。そこでようやく答えに至った僕は、プライバシーの侵害だからという理由でビデオは使用禁止にすることにした。妹は最初は見たがっていたが、僕の決めたことだから、と従ってくれた。
「啓、いつも言ってるだろう。はっきり成功したとわかってる札だけ使えって。君の字は壊滅的に下手くそなんだから」
どうやったら梵字がヘブライ語になるんだ?
「ニッペ○でも習ったら? ディーが採点の時に困ってたよ。『名前すら判読が困難なので、いっそ0点にしてやろうかと思いました』って」
「0点は困るなぁ……。ところで、いつ先生とそんな会話したの、ジェイ?」
「職員室に呼び出された時だよ。ミミズがのたくったような字が書かれたプリントが落ちてたから拾ってやったんだ。君、ほんと真面目に字の練習した方がいいんじゃない? このままじゃ一緒に進級できないかもよ? クラスメイトからさん付けで呼ばれちゃうよ?」
「それは嫌だ……」
嫌だろうね、切実に。
「それに、字が上達して好きなの召喚できるようになったら色々と便利じゃん♪ ありとあらゆる精霊たちを使役し、その頂点に君臨する――な〜んて格好いいじゃん。そんな啓を見てみたいなぁ、僕」
利用する気満々だね、妹よ……。
「そ、そう? ジェイがそういうなら練習しようかな」
啓はまんざらでもなさそうな顔で鼻の下辺りを無意味にこすりながら答えていた。
やる気になったのはけっこうなことだけど、普段の字ならともかく霊力を込めて字を書くのはかなり難しいから、○ッペンくらいじゃあまり効果は期待できないと思うけどね……。
そうこうやってるうちに、僕たちの家でもある教会が見えてきた。やはりソラ君だと早いね。
「啓、ありがと。バイバイ」
妹は、なぜか僕の手を持ち上げて左右に振らせた。
「お兄ちゃん、いつものお願いします」
「はいはい、お姫様」
僕は体の向きを変え、後ろから両手を差し出してくる妹を、落とさないよう慎重に『お姫様だっこ』してあげた。現在、上空30メートル。
「じゃあね、啓」
僕は妹をしっかりかかえ、ヒョイとソラ君から飛び降りた。
耳元で風がうなる。後25m……20……10……5……ゼロ。
着地と同時に膝を曲げ、衝撃を逃す。
息を詰めて体を固くしていた妹が、力を抜いて僕の腕の中で深く息を吐いている。
そんなに怖いならやらなければいいのに、といつも思うのだが、「この声も出せないようなスリルがいいんだよ」と、毎回おねだりしてくる。妹は、この無料バンジージャンプ(命綱は僕)がいたくお気に入りだ。
困った子だね。あまり危険なことはさせたくないんだけどな。
僕は妹の心拍数が平常時に戻ったのを確認してから、ゆっくりと下ろした。
――――さて、平穏な時は終りだ。
僕はいったん目を閉じ、呼吸を整えた。
「行くよ」
「うん」
僕たちは、教会の居住部分の入り口に向けて、足を運んだ。