フェティシズム
「それじゃあ、いってきまーす」
竜子は居間で父親の分の朝食を用意していた母親に、そう告げて家を出る。
いってらっしゃい、の声を背に扉を開けて外に出る。
マンションの共用廊下をそのまま右へ向かい、5歩。
そこにある隣の家の玄関扉に置き入りのキーホルダーのついた鍵を差込み、ぐるっとまわす。
鍵は何の抵抗も無くくるりとまわり、かちりと錠の外れる音が鳴る。
ドアノブに手を掛け、扉を開けて中に入る。
シン、と静まりかえった家に上がり、リビングへ。
そのまま台所まで直行し、エプロンをつけて手を洗う。
冷蔵庫を開き、中身をチェック。
一応、大体の把握はしているが、もう一度何があるかを確認する。
卵とベーコンがちょうどあるので、今日はトーストにでもしよう。
そうと決まればキッチンの棚から迷い無くフライパンを取り出し、準備にかかる。
幾度となく使用し、橘家の台所を完璧に把握している竜子の朝の日常である。
◇
滞りなく、朝食の下準備をすませたあと、そっと仁の部屋の扉を開ける。
時刻は午前8:30。
平日ならとっくに遅刻確定の時間だが、今日は休日、学校は無いので問題はない。
いまだに寝こける仁の様子を伺う。起きる様子はまったく無い。
幸せそうに眠る仁の寝顔をにへらと緩んだ顔で十分ほど観察。
この無防備な姿がまたたまらない。
こうやって彼のご飯を作って彼を起こしてあげる。
まるでできた若奥様みたいだ。そんな思いがまた竜子を幸せにするのだ。
「ほらほら、そろそろ起きて」
今日の分の寝顔は十分に堪能したので仁を起こす。
むぅ、とむずがんだあと、素直に体を起こす仁。
「……おはようドラ子」
「はい、おはよ。顔洗ってきなさいな。その間にベッドきちんとしておくから」
家族ではない自分が起こしても当然のように挨拶を返してくれる仁にまたうれしさを感じる竜子。
付き合いが長いとはいえ、起き立てのあまりきちんとしていない姿をそのまま見せてくれるのも
仁からの距離感の近さを感じられて、心が温まる。
ふらふらと洗面所へ向かう仁を見送る。
仁が部屋から完全に出て行ったのを確認しああとベッドを整える……前に竜子は
乱れたベッドにいそいそと全身すっぽりともぐりこませた。
そのまま布団を顔までかぶり、枕を顔に押し付けて精一杯深呼吸。
途端にたとえようの無い多幸感が竜子の中を駆け巡る。
「んぅ……」
普段から腕を抱き寄せたり、さりげなくスキンシップをしたりと、その際に彼の匂いを感じることはあるが
やはりこの瞬間には適わない。
愛しい彼の匂いを胸いっぱいに吸い込むと同時に、自分の匂いをつけるようにシーツにも体を擦り付ける。
今日はなんだか特に匂いが強い気がする。幸せ。
仁が洗面所で顔を洗い、歯を磨き、寝癖を整えるまでの10分間。
この10分は竜子にとってもっとも大事な10分であった。これができなかった日は、あまり調子が良くならない。
若干変態的なのはわかってはいるが、わかっていてもやめられないのだ。
仁からは麻薬的な何かが出ているに違いない。仁が悪い。そう竜子は自分に言い訳をする。
これも、竜子の『毎朝の』日常であった。
ちなみに、仁が洗面所から戻ってくる前にいつもどおりベッドを整え、一緒に朝食をとった。
◇
今日は洗濯物を回す日である。
仁は一人暮らしなので、洗濯物はそこまで多くは出ない。一週間に一回で十分なのだ。
竜子は洗濯カゴに放り込まれた衣類を、ぽいぽいと洗濯機に放り込んでいく。もちろん色物を一緒に洗うようなことはしない。
ふと、手に取った洗濯前のある衣類が竜子の目に触れた。
―――仁の下着。というか、トランクスである。
何度も洗濯したことはあるし、普段なら気にも留めないのだが、今日はこんなことを考えてしまった。
(今日のベッド、あれだけ匂いが強かったなら、この下着はどれくらい……)
そこまで考えて頭をぶんぶんと振る。
それはいけない。
シーツに入ってみたり、仁の制服を着てみたりなどは乙女のちょっとした冒険ですまされようが、
いくらなんでも男の下着の匂いを嗅ぐなどアウトである。
ちょっとだけなら、と思いつつもぐっと自制して手に取ったトランクスを洗濯機に入れようとして―――
「ドラ子ー、ドライワイパーの換えってどこにあったっけ?」
「―――っ!」
急に声を掛けられ、思わず手に持ったトランクスを自分のポケットにねじ込んでしまった。
そのまま普通に洗濯機に入れればよかったのに、気が動転した結果といえるだろう。
「……?どうした?」
「あっ、え、あそこの棚の中にない?」
おちつくのよ竜子!
普通どおりに答えて、仁が居なくなった後ゆっくりと洗濯機に戻せばいいだけよ!
内心冷や汗をかきながらも竜子はそう考えていた。
だが、落ち着きのない言動からは、なにか普段とは違う雰囲気なのはまるわかりであった。
「ドラ子、なんかちょっと体調悪いか?」
「そ、そんなことないわよ?」
「なんかちょっと顔赤いし、洗濯物はあとはやっとくから、居間でちょっと休んでろよ」
そうやって自分を心配してくれるのは嬉しいのだが、竜子としてはここは素直に引いてほしかった。
仁はぱっぱと洗濯機に洗剤を投入してスイッチを入れてしまっているし
もうやることはないのにここにとどまるのはあまりにも不自然だ。
(後でばれないように返すしかないわね・・・・・・)
ポケットにトランクスを忍ばせたまま、一時撤退をせざるを得ない竜子であった。
◇
なんだかんだで昼食をすませて、午後の時間。
リビングでまったりと仁とテレビでも眺めながらお茶の時間。
普段なら心休まる素敵な時間だ。実際仁はリラックスした様子である。
しかし一緒にいる竜子はリラックスするどころの状態ではなかった。
竜子のポケットにはいまだにトランクスがねじ込まれている状態であった。
洗面所の出来事以来、このポケットの中のブツをどうにかしようとチャンスをうかがっていたが
こちらの体調がよろしくないと勘違いした仁が竜子が動く前にさっさと洗濯を済ませ、干してしまった。
ベストは洗濯機の横の隙間あたりにそっと置き、洗濯カゴから洗濯機に移すときに落ちてしまい
気づかずそのままにされてしまったということにしたいところだが。
仁がトイレにいったときにでも仕込みたいが、なかなか仁は動かない。
「お茶、お代わりするけど竜子もいるか?」
先ほどから仁は気遣っていろいろしてくれる。昼食も仁が作ってくれた。
あせっても仕方が無い。ポケットのブツは夜までに戻せばいいのだし、お茶くらいは自分が淹れよう。
「ううん、私が淹れるね。ちょっとまってて―――」
にこやかに微笑み、ソファから立ち上がった瞬間、パサリと何かが落ちる音がした。
落ちたのは何か。例のブツ、仁のトランクスである。
どこから落ちたか。竜子のポケットからである。
にこやかな笑顔のまま、竜子の額からどっと変な汗が吹き出る。
あせるな竜子何が落ちたかはパっと見わからないはずすぐ拾ってうやむやにすれば―――と
実行に移そうとしたが、既に仁は「何か落ちたぞ」とブツを拾い上げた後であった。
ハンドタオルか何かだと思い、はらりと手に広げる仁。そこで気づく。
これは昨日自分がはいてたトランクスだ。洗濯したはずだがなぜここに。
というか、これは竜子のポケットから落ちてこなかったか?なんで竜子のポケットにこんなものが?
混乱する仁を横目に竜子は思考停止状態であった。
まさかしっかりとねじ込んでいたはずの布が落ちるなどとは露とも思わず。
「ドラ子、なんで俺のパンツがお前のポケッ―――」
「ああああああああーッ!」
仁が声をかけたとたん、言い切る前に竜子が大きな声をあげた。
急な大声に仁が驚いた隙に、竜子は仁の手からトランクスを奪い取り、ものすごいスピードで玄関へとかけていった。
バン、と玄関扉が閉められ、ぽつねんと仁は一人リビングに呆然と取り残される形となった。
「えぇぇえー……」
あまりの急なことで仁は思考が追いついていなかった。
あんなに取り乱した幼馴染の姿はあまり見たことが無い。
少々呆けていると、再度バンッと玄関が開け放たれる音が聞こえ、だだだと竜子が居間に戻ってきた。
よほど急いだのか、若干息をぜぇぜぇと切らせながら、仁の手に柔らかい布のような何かを握りこませる。
「これっ!交換!それでおあいこ!」
「いや、何が―――」
「わかった!?」
「あ、アッハイ」
鬼気迫る様子の竜子の様子に、仁はうなずくしかなかった。
「じゃあ今日はもう帰るから!」
仁が答えるや否や、竜子はそういい残し、再び玄関を荒々しくあけて出て行ってしまった。
リビングには嵐の後のような静寂が訪れていた。
「交換っていったい何―――ぶっ!?」
交換と称し、竜子から仁に半ば強引に渡されたものを広げた仁はたじろいだ。
ソレは女性モノのかわいらしいショーツだった。しかもほのかに温かい。
「どうしろってんだよこれは……」
男として興味が無いわけでもないが、まさかこれを『使う』わけにも行かず。
途方にくれる仁だった。
3日後気づいたのだが、あの時渡された竜子のショーツがいつの間にか消えていた。
代わりに、自分のトランクスがタンスから洗濯された状態で出てきた。
竜子にそれとなく聞いても「何のこと?」とまるで何も無かったかのように振舞われるので
仁も一連のことは、何もなかったということにしておいた。
2012/01/07 誤字修正




