第13話 距離のある王子
王宮の廊下は広い。
本来ならば、何十人が行き交っても余裕のある幅だった。絨毯は厚く、足音は吸われ、声も柔らかく反射する。
だがその朝、通路は妙に狭く見えた。
ルドルフが歩くたびに、空気が割れる。
侍女たちは会話をやめる。
杯を運んでいた若い従僕は足を止め、壁際へ寄る。
貴族たちは笑顔のまま距離を取る。
誰も露骨に背を向けない。
だが一歩だけ退く。
それが続く。
王子はそれを感じていた。
視線の温度が変わっている。
言葉の端に濁りがある。
礼はされる。
しかし触れられない。
彼は通り過ぎる。
そして背後で、また声が戻る。
それを何度も繰り返す。
まるで自分の通った跡だけが、冷えていくようだった。
アメリアは部屋に籠もっていた。
窓は半分だけ開けてある。
外の声が入る。
噂は空気より軽い。
勝手に流れ込み、勝手に形を作る。
「昨夜も震えていらしたそうよ」
「殿下のお名前を呼びながら……」
「お可哀想に」
囁きが、壁の向こうで花のように咲いていく。
アメリアは寝台の端に座っていた。
手は膝の上。
指先は静かだ。
震えていない。
だが震えていると信じられている。
それでいい。
恐怖は見せるものではない。
信じさせるものだ。
扉が乱暴に開いた。
ルドルフだった。
護衛もつけていない。
顔色は悪い。
だが目だけが苛立っている。
「話がある」
命令の調子。
謝罪の形を借りた圧力。
アメリアは立ち上がらない。
ただ視線を向ける。
布の下で、喉が脈打つ。
「殿下がいらっしゃるとは思いませんでした」
「茶番はよせ」
彼は一歩踏み込む。
絨毯が沈む。
「何を言った」
「何のことでしょう」
「私を陥れるつもりか」
怒鳴り声は出ない。
代わりに、低く噛み殺す。
それが余計に響く。
扉の外に控えていた侍女が、思わず後退する気配がした。
ルドルフはそれを聞いた。
そしてさらに苛立つ。
「謝罪してやろうと言っている」
「……恐ろしいです」
アメリアは言う。
小さく。
だが確実に。
「殿下の近くにいると、息ができません」
それは事実ではない。
だが真実よりも強く作用する。
王子は口を開き、閉じた。
言葉を選べない。
何を言っても自分の立場を削る。
その沈黙が、すでに敗北だった。
その頃、廊下の奥でクリスチーネが立っていた。
白い指で扇を弄ぶ。
目は冷たい。
王子の背中を見ている。
泥舟。
その言葉が脳裏に浮かぶ。
彼女はため息をついた。
慈悲の形をした決断。
助けるためではない。
離れるための。
セドリックは壁際に寄りかかっていた。
彼女が近づくと、視線だけを向ける。
「あなたは知っているでしょう」
クリスチーネは言う。
「あの方は偽物です」
断定。
疑いではない。
事実として投げる。
「今ならまだ間に合う。こちらへ――」
言葉が途切れた。
セドリックが笑ったからだ。
声は出ない。
喉の奥で震えるだけ。
だが明確に嘲笑だった。
「……遅い」
彼は言った。
呼吸が湿っている。
罪の匂いを思い出しているように。
「もう、戻れない」
「あなたまで堕ちるつもり?」
「堕ちている」
即答だった。
その目に安らぎがあった。
怪物の側に立つことでしか得られない、歪んだ安堵。
部屋で独りになると、静寂が戻った。
アメリアは鏡の前に立つ。
布を外す。
喉の傷は乾きかけている。
瘡蓋が薄く張る。
それを指でなぞる。
少しだけ痛い。
爪を立てる。
剥がす。
皮膚が裂ける。
鮮血がにじむ。
滴る。
白い首筋を伝う。
鏡の中の女は笑っていた。
「……まだ、足りない」




