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君の痛みも、君の弱さも

 試合を終えて、ふたりはアーツ施設の屋上に出た。

 高い柵に囲まれたその場所は、どこか世界から少しだけ切り離されたみたいに静かだった。

 空は淡いオレンジ色から、少しずつ色を変えていく。

 夜の時間が、静かに始まろうとしていた。


「──ほんとに、やったね。昇級」


 緋織は手に持っていたペットボトルを軽く掲げた。

 炭酸の泡が、静かに弾ける音が聞こえる。

 にこりと笑った緋織の顔には、まだ試合の興奮が少しだけ残っていた。


「おつかれさま、朔日!」


「うん。緋織もがんばった」


 朔日も、柔らかな笑顔で手に持っていたミネラルウォーターを掲げる。


 "カツン──"。


 ペットボトル同士が触れ合って小さな音が響いた。

 二人だけのささやかな乾杯だった。

 緋織は、ふうっと息を吐きながらその場にぺたんと腰を下ろした。

 冷たいコンクリートの感触が、じんわりと背中に伝わってくる。


「ふぁー……疲れたけど、なんとかなったね」


 ペットボトルをくいっと傾けながら、緋織は笑った。


「でしょ?」


 朔日も、すぐ隣に腰を下ろす。ほんの少しだけ、肩が触れた。

 緋織は、その感触に気づきながら──気づかないふりをした。

 そっと、視線を空に向ける。


 夕闇に染まる空。

 一番星が、かすかに瞬き始めていた。


(──なんだろう)


 胸の奥が、ほんのりと温かい。

 だけどその温もりを素直に抱きしめることが、なぜだか怖かった。

 このぬくもりを信じたら、また、壊れる日が来るかもしれないから。

 緋織は、膝の上でそっと拳を握った。

 それでも、隣にいる朔日の存在が静かに、心を支えてくれている気がしていた。

 夜の始まりの静けさの中で、二人は並んでほんの少しだけ寄り添って座っていた。


 朔日が手を伸ばした。

 そっと、緋織の右腕に触れる。

 その動きは、あまりにも自然で優しかった。


「あ──」


 緋織は、小さな声を上げた。

 驚き、ではない。

 痛み、でもない。


「痛かった?」


 朔日が心配そうに問いかける。


「ううん、違うよ」


 緋織は慌てて首を振り、苦笑いを浮かべた。


「右腕、ちょっと感覚が鈍いだけ」


 言いながら、自分でもわかるほど声がわずかに震えた。


「五年前……タナトスにやられたんだ。ぐしゃぐしゃにされて──」


 言葉は笑うように軽かった。

 でも、その奥に滲むものはあまりにも重たかった。


「奇跡的に繋いでもらったけど……前みたいには、動かないんだ」


 自嘲気味に肩をすくめる緋織に、朔日はただ静かに手を添えたままだった。

 優しく。そっと。まるで大切なものに触れるみたいに。

 一拍置いて、緋織は空を見上げるように呟いた。


「タナトスは──魔異種アビスの王だって言われてた」


 その言葉には、わずかな震えが混じっていた。


「今まで見たどの魔異種アビスよりも強くて、残酷で……一体で、たくさんの魔法少女(みんな)を……」


 そこまで言いかけて、緋織は唇を噛んだ。

 言葉にするだけで、あの日の惨劇がまざまざと蘇る気がして。


「──ごめん、ちょっと、昔のこと思い出しちゃった」


 無理に笑ってみせる。

 でも、朔日は何も言わなかった。

 ただ、そっと右腕に添えた手に少しだけ力を込めた。

 朔日の静かな決意が、その仕草から伝わってくるようだった。


 夜の空気は、少し冷たかったけれど。

 ふたりの間に流れる温もりだけは微かに、確かに、存在していた。


 そのときだった。

 朔日のカバンから、ころりと──黒い包みがこぼれ落ちた。


「あ──」


 朔日はすぐにそれに気づいた。

 普段なら、どこまでもゆったりしている朔日が。

 珍しく、焦ったような仕草ですばやく包みを拾い上げた。

 その手の動きは、どこかぎこちなく見えた。


「それ、なに?」


 緋織は、自然に問いかけていた。


 カバンの中に無造作に入れるには、妙に丁寧に包まれたものだったから。

 朔日は、一瞬だけ視線を伏せた。

 そして──ふっと、笑った。何かを隠すみたいに。


「大事なものだよ。──私の宝物」


 穏やかで、柔らかい声だった。

 けれど、その裏に微かな違和感が滲んでいた。

 緋織はそれ以上、追及できなかった。


(──何だろう。この感じ)


 胸の奥で、きゅうっと小さな痛みが走った。

 不安。

 疑念。

 よくわからない、言葉にならないざらつき。


 けれど──。


 緋織は笑顔を崩さなかった。

 崩したら、この関係が壊れてしまいそうで怖かったから。

 だから何も言わずに、ふっと、いつも通りの笑みを浮かべた。


 遠くで、街の灯りがちらちらと瞬いていた。

 夜は静かに、深くなっていく。




 しばらくの間、ふたりの間には静かな沈黙が落ちた。

 風が、コンクリートの屋上をかすかに撫でていく。

 その中で緋織がぽつりと、呟いた。


「……私たち、魔法少女だったんだよね」


 その言葉は、ひどく遠い場所から響いてきたみたいだった。

 朔日は小さく、静かに頷いた。


「うん。誰にも知られない場所で、ずっと、命を懸けて戦ってた」


 まるで、誰かにそっと語りかけるような声だった。

 緋織は顔を上げた。


「なのに……」


 喉の奥で、言葉が震えた。


「いまじゃ、魔法少女なんて……忘れられてる。バカにする人も、いる」


 その声は静かだった。

 叫びも、怒りも、なかった。

 ただ、どうしようもないくらい。静かな痛みだけが、滲んでいた。


「私たち、あんなに必死だったのにね」


 小さな、小さな声だった。

 けれど、その言葉は重かった。

 まるで、心の底に沈んだ泥をそっとすくい上げるみたいに。


 朔日は、ただ静かに緋織を見つめていた。

 その瞳には、優しさのようなものが静かに揺れていた。

 でもその奥には、もっと別の。言葉にできない熱を孕んだものが、密やかに潜んでいた。


 二人の間を、冷たくて優しい風が通り抜けた。

 夜は、もうすぐそこまで来ていた。


 次の瞬間──朔日が、そっと緋織に抱きついた。


「──えっ」


 緋織はびくりと身体を強張らせた。

 朔日の腕が、やわらかく自分を包み込む。

 あたたかくて、どうしようもなく優しい感触。


「私がいるよ、緋織」


 耳元にそっと落ちた声。

 その一言に、緋織は小さく震えた。


 拒絶しなきゃ、と思った。

 拒絶しなきゃいけない、と思った。


(──また、大事なものができたら、また、失ったときに、私は──)


 壊れてしまうのに。

 怖かった。本当に、怖かった。


 でも──。


(……嬉しい)


 心のどこかが、ちり、と音を立てた。

 こんなふうに、何の見返りもなく無条件に抱きしめられること。

 それが、どれほど自分の心を求めていたものだったのか、思い知らされた。


(本当は──ずっと、誰かにこうしてほしかった)


 だから、緋織はされるがままに朔日の腕に身を預けた。

 そっと、目を閉じて。


「……ありがと、朔日」


 かすれた声で、やっとそれだけ言えた。

 朔日は何も言わなかった。

 ただ、静かに──。

 少しだけ、緋織を強く抱きしめた。

 まるで、何かを、絶対に逃がさないと誓うかのように。


 緋織は、知らなかった。

 その腕の中に、どんな欲望と狂気が潜んでいるのかを。

 ただ、あたたかさだけに縋りつくしかできなかった。


 ──夜は、深く、深く、落ちていった。


 朔日の腕の中で、緋織はそっと目を閉じた。

 あたたかかった。

 柔らかくて、優しくて、全部赦してくれるみたいで──。


 でも、その温もりにどこかで怯えている自分もいた。


(──怖い)


 心の奥で、小さく震える声が聞こえた。


(こんなふうに、誰かに寄りかかって、安心して──また、全部壊れたら、どうするの。今度こそ、もう立ち上がれないかもしれないのに)


 わかっている。

 わかっているのに。

 それでも──朔日の腕の中はあまりにも、心地よかった。


(……私、弱い。こんなに簡単に、誰かに縋って、安心して──怖がってるくせに、甘えてる。なのに、嬉しいなんて──最低だ)


 自分自身への激しい嫌悪が、胸を引き裂いた。

 なのに。それでも。朔日の温もりを振り払うことはできなかった。

 緋織は、何も言えないままぎゅっと指先を握りしめた。

 小さく、誰にも聞こえないくらいの声で心の中だけでつぶやく。


(──ごめん)


 誰に向けた言葉かも、わからなかった。

 ただ、謝らずにはいられなかった。

 何かを裏切ってしまったような、取り返しのつかない感覚にじわりと心が染まっていった。


 しばらく、朔日の腕の中に沈んでいた緋織はそっと体を起こした。


「……へへ。大丈夫だよ、私」


 無理やり明るい声を作る。

 わざとおどけたように笑って、ペットボトルをくるくると回した。


「ちょっと、疲れただけ。でも、ほんと、平気だから」


 ぎこちない笑顔だった。

 自分でもわかるくらい、上手に笑えていなかった。

 それでも、笑っていなきゃいけない気がした。


 泣きたくなるような弱さも。怖くてたまらない気持ちも──全部、見せたらいけないと思ったから。


 でも──。


 朔日は、何も言わずにそっと緋織の頭を撫でた。

 やさしく、やさしく。


「……わかってるよ」


 その一言に、緋織はまた胸を締め付けられた。


(わかってる……? こんなふうに、本当はぜんぜん大丈夫じゃないことも──)


 ぎゅっと、ペットボトルを握る手に力が入った。


「だいじょうぶ、だもん」


 もう一度、強がるように言った。

 けれど、震える声は隠せなかった。

 そして、そんな自分に気づいてしまった瞬間。

 また、どうしようもなく自分が嫌いになった。


(──弱い。最低だ。なのに、こんなふうに、甘えてる……)


 胸の奥にまた一つ、暗い染みが増えた気がした。


 それでも──。


 緋織は、目をそらすように空を仰いだ。

 遠い夜空に、一つだけ滲むような星が光っていた。

 まるで、手を伸ばしても決して届かない場所にあるみたいに。



 ふたりで屋上から降りて、アーツ施設の売店を通りかかったときだった。


「──あ」


 朔日がふと足を止めた。

 緋織もつられるように立ち止まる。

 視線の先。

 ディスプレイに並んでいたのは、アーツ選手向けのアクセサリー類だった。


 中でも、一際目を引いたのは──黒いレザーの細身のチョーカー。

 小さな、銀のリングがあしらわれているだけのシンプルなデザイン。

 朔日はそれをじっと見つめた。

 そして、振り返る。


 ふわりと笑って──。


「緋織。これ、つけてほしいな」


 何気ない、軽い声だった。

 けれど、その瞳はどこか真剣だった。


「えっ、これ……?」


 緋織は戸惑いながら、チョーカーを見つめた。

 シンプルで。でもどこか、大切なもののように見えた。


「似合うと思うんだ。すごく」


 朔日は、優しく静かに言った。

 緋織は一瞬だけ迷った。


(──どうしよう……でも、友達だもんね。仲良い子同士でアクセサリー贈り合うとか、普通だよね)


 自分に言い聞かせる。

 こんなふうに、誰かに選んでもらえるなんて嬉しかったから。


「……うん。じゃあ、つけてみる」


 緋織が、頷くと──朔日は、嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、私がつけてあげる」


 軽やかな声で言って、朔日はチョーカーを手に取り、そっと緋織の首元に手を伸ばした。

 ひんやりとした革が、肌に触れる。

 朔日の指先が、かすかに震えていた。

 緋織のものに触れることが、嬉しくてたまらないみたいに。


「はい、できた」


 朔日は、満足そうに言った。

 緋織は照れくさそうに首元に手を当てる。


「……へへ、どう? 似合ってる?」


「うん、すごく」


 朔日は少しだけ目を細めた。

 その瞳には何かを手に入れたような、深い深い満足の色が浮かんでいた。


(──これで、君はもう、私のものだ)


 そんな、誰にも聞こえない言葉が夜の空気に溶けた。

 緋織はそれに気づくこともなく。

 ただ、無邪気に微笑んでいた。


 チョーカーをつけたまま、緋織はそっと首元に手をやった。

 指先に、ひんやりとした革の感触が伝わる。


「……へへ。なんか、ちょっと、照れるかも」


 そう言って、はにかむように笑った。

 本当は、少しだけ──どきどきしていた。

 まるで、自分だけの秘密を身につけたみたいで。


「すごく、似合ってるよ」


 朔日はふんわりと笑った。

 その瞳はどこまでもやさしかった。あたたかくて、包み込むような光を宿していた。

 緋織は、その視線に照れて思わず目をそらす。


「そ、そうかな……? あんまり、こういうの慣れてないから」


「大丈夫。 緋織は、すごく可愛いよ」


 さらりと。あっけらかんとした声で言われて。

 緋織は、耳まで真っ赤になった。


「──もう、からかわないでよっ」


 頬をぷくっと膨らませると、朔日は嬉しそうに笑った。


「からかってないよ。本当に、そう思ってるだけ」


 その言葉に、緋織はどうしていいかわからなくなって、ぎゅっとチョーカーを押さえた。


(……でも、嬉しい。私なんかに、こんなふうに言ってくれる人いままで、いなかったのに)


 胸の奥にそっと、あたたかい火が灯る。

 怖いことも。不安なことも。全部、今だけは忘れたくて。

 緋織は、小さく息を吐いてぎこちない笑顔を向けた。


「──ありがと、朔日」


「うん」


 朔日も、やわらかく微笑んだ。

 その笑顔は、どこまでも優しくて。


 ──そして、ほんの少しだけ、なにか、底知れないものを孕んでいた。


 緋織には、まだ、それが何なのかわからなかった。

 ただ、胸にじんわり広がるあたたかさにそっと身を委ねるしかできなかった。

 夜は静かに、深く。ふたりを包み込んでいった。





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