君に手を伸ばす
投稿する順番を間違えておりました。
こちらが1話になります。
──魔法少女は、もう必要ない。
そんな言葉が、赫月 緋織の目の前に並んでいた。
スマホの小さな画面。
SNSのトレンド。
「魔法少女って古くない?」
「結局、負けたんでしょ?」
「今はプレイヤーの時代だよ」
スクロールするたび、胸の奥が、じくじくと軋む。
――あのとき、命を懸けた日々も、あの笑顔たちも、全部無かったことみたいに。
そう感じて、胸を締め付けられる。
緋織は小さく息を飲み、そっとスマホを伏せた。
(──わかってる。そんなの、とっくに、わかってる)
指先が震えた。
握りしめたフードの袖越しに、細い指先が爪を立てる音がした。
五年前。
魔法少女たちは、敗北した。
命を燃やして。血を流して。
それでも──世界を守ることはできなかった。
英雄にはなれなかった。
称賛されることもなかった。
ただ、忘れられた。
緋織はそのすべてを、静かに、深く、心に刻んできた。
(でも──それでも)
ふるりと、首を振った。
過去に縛られるのはもう、やめなきゃいけない。
後ろを振り返るたびに、胸に刺さるのはあの日、守れなかった仲間たちの顔だった。
だから。
緋織は震える手で、フードを目深にかぶった。
右目を隠すように伸びた前髪が揺れる。その下からわずかに覗くのは、燃えるような赤い瞳だった。
その髪も、どこか血のように深く濃い赤。鮮やかすぎる色だった。
人混みを避けるように顔を伏せ、細い身体を小さく丸めるようにして、歩き出す。
どこか影を背負ったような。それでいて無理にでも前を向こうとする。そんな歩みだった。
目指す場所は、アーツ訓練施設。
──戦うための、世界。
かつて、魔法少女たちが夢見た「守るための戦い」とは、まるで違う形をしているかもしれない。
それでも。
緋織はもう一度だけ、戦おうと思った。
過去を。仲間を。自分自身を、取り戻すために。
アーツ施設の受付カウンター。
緋織はフードを深くかぶったまま、カウンターの前に立っていた。
家族以外と話すのは、五年ぶりだった。
震える手で、受付端末に触れる。職員らしき女性が、にこやかに問いかける。
「ご利用内容を教えてください」
緋織は喉がこわばるのを感じながら、かすれる声で答えた。
「……訓練、したい、です」
言葉にするだけで、声が微かに震えた。
職員は少し驚いたような顔をした。だがそれも一瞬。すぐに慣れた様子で端末を操作し、カードキーを渡してくれた。
「仮想訓練室、六番。こちらへどうぞ」
緋織はぺこりと小さく頭を下げ、カードを両手で握りしめたまま案内に従った。
仮想訓練室──小さな無機質な部屋。
だが、その中央に立てば。
一歩足を踏み出しただけで、全方向に空間が広がる仮想フィールドが展開される。
フィールドに足を踏み入れた瞬間。
緋織は本当に久しぶりに、心がざわめくのを感じた。
(──ここは、戦うための場所)
手のひらをぎゅっと握りしめる。
黒い光が瞬き、重厚な鎧が身体を包んだ。
漆黒の装甲。鋭い赤のライン。
両眼を隠すようなバイザー。右目を隠す長い前髪が、兜の下でふわりと揺れた。
そして左手に現れたのは巨大な銀色の剣。
目の前に敵が現れる。
訓練用の仮想魔異種。虚ろな瞳を光らせ、じりじりとにじり寄ってくる。
システム音声が、機械的に告げる。
【訓練レベル:標準】
【訓練開始まで──5、4、3……】
緋織は剣を握り直した。
(……大丈夫。私は、まだ──)
心の中で静かに呟く。
0。
──開始。
カウントがゼロになった瞬間。
緋織は躊躇なく走り出した。
黒と赤の鎧が唸り、剣が風を裂く。
一直線に。ただ、まっすぐに。
目の前の魔異種へと向かって──。
敵の動きが妙に早く見えた。
(違う──私の感覚が、衰えているんだ)
戦場で鍛えた勘。あの地獄で磨かれたはずの本能が鈍っている。
それでも、まだ、体の奥にわずかに生きている。
一歩。
もう一歩。
緋織は振りかぶった剣を、一気に振り下ろした。
──轟音。
訓練用の魔異種が、バラバラに弾け飛んだ。
一閃だった。
(──まだ、やれる)
緋織の胸に小さな、小さな火が灯る。
それは、かすかに震える光。
でも確かに、今ここにある希望だった。
(私、まだ──)
次々に湧き出す魔異種たち。
緋織は、無心で斬り伏せた。
一体、また一体。
そのたびに遠い日の面影が、胸をよぎった。
──あの日、共に戦った、仲間たち。
今もどこかで。見ていてくれるだろうか。
なら、もう一度戦う。
緋織は小さな祈りを胸に、剣を振るい続けた。
剣が叫び。鎧が吼え。心が泣き叫ぶ。
でも緋織は、一度も後ろを振り返らなかった。
前へ。
ただ、前へ。
やがてフィールドに静寂が訪れる。
足元には、バラバラになった訓練用魔異種たちの仮想データの残骸。
緋織はゆっくりと、剣を下ろした。
息をつく。
汗が顔を伝って落ちた。
システムが淡々と告げる。
【訓練完了。お疲れさまでした】
仮想フィールドに、冷たい声だけが響いた。
だがその声すらも、今の緋織には温かく感じられた。
(──私は、まだ、戦える)
緋織は、胸の奥にふわりと小さな灯を抱いたままゆっくりと顔を上げ、仮想訓練室のドアを押し開けた。
──その瞬間だった。
「──緋織!」
耳慣れた忘れもしない声が、跳ねるように響いた。
思わず立ち止まる。
そして、振り返った途端──。
どん、と。
柔らかな重みが、胸に飛び込んできた。
「きゃ──っ」
小さな悲鳴を上げて、反射的に押し返してしまう。
身体が震えた。
目の前にいたのは──。
桜髪の少女。
白い肌。細くて、華奢で。
肩までの淡いピンク色の髪は柔らかそうに波打ち、左側には丁寧に編まれた三つ編みが揺れている。前髪は長く、瞳にかかるほどに垂れていたが──その隙間から覗く瞳は、ひときわ印象的だった。
澄んだ空のような青。その中に、万華鏡のような淡い光の渦が浮かぶ、不思議な目。
吸い込まれそうなその色に、一瞬だけ呼吸を忘れそうになる。
──けれど。
その微笑みだけが、どこか“完璧すぎる”ように見えた。
柔らかく、優しげで。まるで春風のように人を包み込むような笑顔。
けれど、なぜだろう。ほんの一瞬、背筋にかすかな冷たさが走った。
「……さく、ひ?」
震える声が漏れた。
夢みたいだった。
いや、本当に夢なんじゃないかとすら思った。
五年前。
あの地獄の戦場で。
仲間たちがひとり、またひとりと倒れていったあの日。
──生き別れた、最後の仲間。
絮貫 朔日が、そこにいた。
にこにこと、まるで春の光みたいな笑顔で。
心から嬉しそうに目を細めて、笑っていた。
「ごめんね。そんなにびっくりすると思わなかった」
その声も。
その仕草も。
その瞳も。
──あの日と、何も、変わっていなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
嬉しい。
怖い。
嬉しくて。でも、怖くて。息がうまくできない。
(──ほんとうに? 本当に、朔日なの?)
声をかければ、消えてしまうんじゃないかと思った。
でも。
そこにいる。
たしかに、ここにいる。
緋織は心の奥で、何かが音を立てて崩れるのを感じた。
そのまま、朔日の笑顔を、呆然と見つめ続けた。
「絮貫朔日の、知り合い……?」
「この新人、すごかったよな。魔異種、無双してたし」
「しかも朔日ちゃんと知り合いとか、マジ!? ヤバ!」
ざわめきが、波紋のように広がった。
アーツ施設内。
訓練帰りの選手たち、スタッフたち──そこにいた誰もが、緋織たちに注目していた。
人気アーツ選手・絮貫朔日。
誰もがその名を知っている。
その彼女が──見知らぬ新人に親しげに笑いかけている。
ただそれだけで、場の空気は騒然としていた。
緋織はびくりと肩を震わせた。
無数の視線が、突き刺さる。
好奇心。
羨望。
警戒。
嫉妬。
ごちゃ混ぜになった感情が、空気を重たくしていた。
(……やっぱり、私、場違いだ)
緋織はフードの端をぎゅっと握りしめた。
逃げ出したかった。
でも──。
横にいる朔日が、変わらず穏やかな笑みを浮かべているのを見て、なんとか踏みとどまった。
(でも……このままじゃ、駄目だ)
勇気を振り絞る。
おそるおそる、朔日の袖をそっと引っ張った。
「……朔日、場所、変えよ?」
震えそうな声を、必死に押し殺して。
朔日は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「うん、そうしようか」
そう言ってやわらかな仕草で、手を差し伸べてきた。
戸惑った。
でも、拒めなかった。
緋織はためらいがちに、その手を取った。
指先に触れた瞬間。
ひとつ、ふたつ、鼓動が強くなる。
(──温かい)
忘れかけていた感覚だった。
誰かとこうして繋がること。
指先から、心がじんわりと溶けていく。
緋織は朔日に手を引かれるまま、人々のざわめきの中をそっと歩き出した。
カフェの隅の静かな席。
大きな窓から夕陽のオレンジ色がテーブルに落ちていた。
緋織はホットココアのカップを両手で包みながら、落ち着かない様子でそわそわと指を動かしていた。
向かいに座る綿貫朔日は、変わらずふんわりとした笑顔を浮かべている。
(──本当に、朔日だ)
何度も心の中で繰り返した。
それでも、信じきれないみたいに胸が落ち着かなかった。
でも、嬉しかった。
怖いくらい、嬉しかった。
「……五年ぶり、だね」
朔日が穏やかな声でそう言った。
緋織はカップを握りしめたまま、小さくうなずく。
「うん……。五年、だね」
言葉にしてみるとその重さに胸が少しだけ軋んだ。
「元気だった?」
朔日がテーブル越しに身を乗り出してくる。
緋織はほんの少しだけ、視線を伏せた。
「……元気、かな」
うまく答えられなかった。
「……ずっと、家に引きこもってたから」
苦笑交じりにぽつりと打ち明ける。
朔日は何も言わずに、ふわりと微笑んだ。
「そっか」
ただそれだけだった。
責めもしない。
慰めもしない。
ただ、受け止めるみたいに。
それが緋織には、どうしようもなく救いだった。
「……でも、なんで今日は、アーツの施設に?」
朔日がカップを両手で包みながら尋ねた。
緋織は少しだけ悩んで、ぽつりと答えた。
「……魔法少女が、弱いって……言われてるから」
かすれる声。
「……だから、私が、何か……できるんじゃないかって、思ったの」
ほんの少しだけ、言葉を震わせながら。
朔日は静かに頷いた。
そして──。
テーブルの下、そっと緋織の手を取った。
細い指先が絡まる。
緋織は驚いた。心臓が跳ねる。
でも、それ以上に。
(……温かい)
じんわりと、胸の奥が溶けていくようだった。
逃げる理由なんてどこにもなかった。
「──緋織は、優しいね」
朔日はやわらかく囁いた。
指を絡めたまま、ほどけないようにそっと力を込めて。
その温もりが、緋織にはどうしようもなく愛しかった。
「ねぇ、緋織」
朔日が、テーブルに肘をつきながら穏やかに声をかける。
「一緒に、アーツをやらない?」
柔らかな声。
ふわりとした笑顔。
何の悪意もない。
何の押し付けもない。
だからこそ緋織は痛かった。
カップを抱えたまま俯いて、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……ごめん」
しぼり出すような声。
「私じゃ……足を引っ張っちゃうかもしれないから」
震える指先。
胸の奥がじくじくと疼く。
「それに……」
言葉を飲み込む。
怖かった。
誰かとまた繋がるのが。
絆を作れば、そのぶん失ったときに壊れてしまう。
緋織は、あのときの絶望をまだ乗り越えられていなかった。
「──また、誰かと一緒に戦うのが、ちょっと……怖い、から」
小さな声で、かすかに震えながら。
テーブルの下で、絡めたままだった指先が微かに緋織のものだけ離れた。
朔日はほんの一瞬だけ、笑顔を曇らせた。
でも──。
すぐに、また。
あたたかい、優しい光を灯して微笑む。
「そっか」
責めない。
急かさない。
ただ、受け止めるように。
──けれど。
次の言葉は、まるで甘い毒のように緋織の心に流れ込んだ。
「でも、緋織。タナトスのこと──知りたくない?」
びくり、と身体が跳ねた。
緋織の呼吸が止まる。
──タナトス。
あの地獄の象徴。
あの絶望の化身。
「アーツで、ランクSになれば──タナトスに関する情報、開示されるんだって」
緋織のカップを持つ指が、ぎり、と震える。
胸が痛い。
でも──。
心の奥からどうしようもない熱が溢れてきた。
(──知りたい。どうして、あんなことが起きたのか。どうして、私たちは──)
緋織は顔を上げた。
その瞳に、かすかな、けれど確かな決意を宿して。
「……わかった」
掠れた声で。小さく、でもはっきりと答えた。
「一緒に、やろう」
朔日はふわりと微笑んだ。
そして、今度はためらわずに緋織の手を、ぎゅっと握りしめた。
その温もりに、緋織は目を閉じる。
(──大丈夫。今度は、きっと、壊れない)
そう、信じたかった。
──緋織は知らない。
その希望ごと静かに丁寧に、朔日の掌に閉じ込められていくことを。
朔日は指先にわずかに力を込めた。
震える小動物のような緋織の温もりを逃さないように。
緋織は知らない。
この優しさが、すでに檻の扉だったことを。
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