9場 黒髪の青年
焚き火と魔石カンテラの明かりに包まれ、黒髪の青年が眠っている。
その顔はひどく青ざめ、息をしているか定期的に確かめないと不安になる。水に浸した布で額を拭っても、ぴくりとも動かない。
背丈は百九十センチのグレイグよりも頭一つ分ぐらい低い。耳が長くないので、おそらくヒト種だ。
歳の頃はメルディと同じぐらいだろうか。体はひどく痩せている。森の中を何日も彷徨っていたのかもしれない。
「……全然目を覚まさないね。大丈夫なのかな」
「外傷はないみたいだし、たぶん疲労と空腹だと思うよ。水は飲ませたし、そのうち目を覚ますって」
「何よ。冷たいじゃない、グレイグ。騎士道精神はどうしたの」
「僕、騎士じゃないし。こんな森の中に一人でいるなんて、お姉ちゃんみたいに無謀な旅人か、行商人か、お尋ね者かのどれかでしょ」
ボアシチューを食べながらのんびりと返す弟に頬を膨らませる。
昔からこんな感じだが、魔法学校に行ってより顕著になった。人の情というものをどこに置いてきたのか。あとで説教してやる。
「レイさんはどう思う? ……って、何してるの?」
レイは焚き火の前で荷物の中身を検めていた。どこにでも売っている革製のリュックだが、問題はそれがメルディたちのものではないことである。
「ちょ、ちょっと! それ、この人のでしょ? 勝手に見るなんて……」
「素性の確認は必須だからね。寝首かかれても困るし」
「ええ……。旅って、そんなに殺伐してるものなの?」
「初っ端から盗賊と遭遇したでしょ。もう忘れたの?」
それもそうだった。
濡れた布を青年の額に置き、レイの隣に座る。実はメルディも少し気になっていたのだ。手元を覗き込むついでに、さりげなく肩をくっつけたが、「暑いよ」と距離を取られてしまった。
中から出てきたのは、乾パン、干し肉などの保存食。小鍋。コンパス。地図。固形燃料に着火具。雨具……などなど、旅には必需品のものばかりだった。
怪しそうなものは何もない。商品らしいものもないので、行商人ではなさそうだ。
「やっぱり普通の旅人なんじゃない? 一人でいたのも、仲間とはぐれちゃったのかもしれないよ」
「それなら捜索願いが出されるでしょ。ガラハドさまに確認したけど、そんなの出てないって。この荷物を見ると、人さらいから逃げてきたってわけでもなさそうだね」
いつの間に連絡を取っていたのだろう。メルディが青年の介抱をしているときだろうか。ちっとも気づかなかった。
「ガラハドさまは『危ないからもう帰っておいで』って言ってたけど……」
「やだ!」
「だろうね。グレイグ。手持ちの方も見せて」
「はーい。両手出して」
夜の闇よりも濃い闇の中から、青年が身につけていたものがぽろりとこぼれ出た。
ぼろぼろのマントの他には、短剣と小さなポーチ。それに、財布の中のいくばくかの路銀だけ。
失礼して鞘を抜いてみたが、思わずため息をつくほど綺麗な剣身だった。メルディと同じくらい……いや、少し優っているかもしれない。どんな職人が打ったのだろう。
「……出生証明書がないな」
出生証明書とは全てのラスタ国民が持つ身分証明書である。携帯が義務付けられているわけではないが、ないと街に入るたびに入場料を取られるので、大抵の人間は財布の中に入れて持ち歩いている。メルディもだ。
「他国の人か、落としたかじゃないの? 倒れてたんだし」
「これを見てもそう思う?」
ポーチには闇魔法がかけられていたようだ。ごと、と鈍い音を立てて地面に置かれたのは、鮮やかなコバルトブルーに塗装された鎧だった。
「これっ……!」
飛びつくように鎧を手にし、顔をくっつけて確認する。
隅々まで計算して配置した鋼板が描く、艶やかな曲線。内側にびっしりと刻まれた魔法紋。屋号紋はないが間違いない。メルディがレイと開発した鎧の偽物だ。
「……ここまで精巧なの?」
「腹立つね。僕の魔法紋の癖まで完コピしてる。この作者は相当腕がいいみたいだ。噂通り、ドワーフってのが有力かな」
「屋号紋がないけど、入れる前に市場に流したのかな?」
「メルディの鎧だと喧伝する必要もないほど、市民権を得たってことかもしれないね」
鎧を握る手に力がこもる。いつの間にか自分の作品が偽物に取って代わられているなんて、職人としては最大の屈辱だ。
剣呑な空気を漂わせる二人に、シチューを食べ終えたグレイグが声をかける。
「この人に聞いてみたら? 目を覚ましたみたいだよ」
「……すみません。ご迷惑をお掛けしまして」
長いまつ毛をしばたかせて、青年が頭を下げる。その手には空になった器が握られている。目覚めたと同時に腹の虫が鳴り響いたので、とりあえず先に食べさせたのだ。
エメラルドみたいな瞳の中には、憂いと困惑が浮かんでいる。闇夜の中、見知らぬ人間に囲まれていれば、誰でもそうなるだろう。
「もう一度確認するけど、名前はマルク・ロッソ。十八歳のヒト種。ウィンストン出身のデュラハン防具職人。身寄りはドワーフの師匠だけ。間違いないね?」
レイの問いに青年――マルクはこくりと頷いた。
「それを証明するものはある?」
「……ありません。大きな猪に追われたときに落としてしまったようで」
あの雷大猪だろうか。
口を挟もうとしたが、隣のグレイグに目で制止されたので、大人しく引き下がった。絶対に余計なことを言うなと、レイからも釘を刺されている。
「ウィンストンの職人が、どうしてこんなところにいるの? 普通なら護衛を雇うか、乗合馬車を選ぶよね。余程の手だれじゃない限り、ヒト種が一人で旅に出るなんてお馬鹿さんの所業だよ」
言葉に棘がある。メルディに聞かせようとしているのだろう。黙っているしかないのが辛い。
「人に言えない事情でもあるんじゃないの? 何か悪いことをして逃げてきたとかさ」
「ち、違います……! 俺はただ、首都で会いたい人がいて……! この森を通ったのも、飛竜の群れがいて街道は通れなかったら……。お金がなくて、護衛を雇うことも、群れが去るまで宿に滞在することもできなかったんです」
「会いたい人ねえ……。それは誰? 師匠以外に身寄りがないなら、家族ってわけじゃないんでしょ」
「レ、レイさん、そんなプライベートなこと……」
じろ、と睨まれ、慌てて口をつぐむ。マジな目だ。この状態のレイに逆らってはいけない。姉の愚行に呆れたのか、隣のグレイグが小さくため息をつく。
「言えないの? ……まあ、いいや。じゃあ、質問を変えるよ。この鎧はどうしたの? 買った? それとも、別の方法で手に入れた? 偽物だってわかってるんだろうね?」
「それは……」
マルクが言い淀む。しかし、レイの鋭い目に射抜かれ、恐る恐る口を開いた。
「実は……。それを作ったのは俺の師匠なんです」
声を上げそうになって、横から伸びた手に口を塞がれた。目で訴えるが、グレイグは知らん顔だ。引き剥がそうとしてもびくともしない。なんて憎らしい弟なのか。
レイは微動だにせずマルクを見つめている。その表情には戸惑いも怒りも浮かんでいない。トランプ遊びでいつも見せるポーカーフェイスだ。
マルクは手にした器をぎゅうっと握りしめると、絞り出すような声で事の経緯を語り出した。