81場 120年目の仇討ち②
「百二十年前、魔法学校は大きく揺れていました。モルガン戦争が起こったからです。……モルガン戦争はメルディさんもご存知ですね?」
ヒンギスに問われ、こくりと頷く。レイたちは静かにヒンギスを見つめている。まるで授業みたいな状況に、少しだけ混乱する。
国からの召集要請に対し、教師たちからは「断固拒否するべき」「生徒を連れてルクセンに疎開するべき」「国が滅んでは元も子もない。応じるべき」など様々な意見が出たが、結局は受け入れざるを得なかった。魔物の襲撃によってラスタ中が焦土と化し、議論している余裕がなくなったのだ。
日々襲い来る魔物たちを迎撃し、心労と過労で倒れた校長に代わり、ヒンギスが国から受け取った召集者リストには多くの名前が記載されていた。
戦場で生き抜く体力と魔力を兼ね揃えたもの。残酷な現実を直視しても心が折れないもの。他者を守り、導けるもの――国は魔法学校の戦力を正確に把握していた。
レイは優秀さを買われて元々リスト入りしていたようだが、研究室の仲間の何人かは免れたものもいた。
彼らはレイよりも強かったが、戦場には不利な性格をしていたのだ。優しすぎる、という性格を。
「なのに、実際には全員が大河を渡った。最前線に召集されると知らされたとき、仲間の何人かはひどく怯えてた。それでも国を――大事な人たちを守るために覚悟を決めたんだよ。それが仕組まれたことだとも知らずにね」
レイが皮肉めいた口調で笑う。
「あんたの生徒には魔法学会の有力者の子弟が多かった。彼らに睨まれれば、たとえ生き延びたとしても学校の存続は難しくなる。あんたは魔法学校を――いや、自分の居場所を守るために召集者リストを改竄したんだ」
「その通りです。他の教師たちには改竄したものを渡しました。私に改竄を求めた彼らの大部分はすでにこの世にいませんが……まだ一部は生き残っていますよ。正門にお集まりのあなたたちなら暴き出せるでしょう」
正門の方から怒号に似た記者たちの声が響いた。窓の外では、生徒たちにさらに動揺が広がっているのが見える。隣のエルドラドにも。
「ヒンギス……」
「申し訳ありません。あの頃のあなたは、深い苦悩の中にいた。あれ以上、負担をかけたくなかったのです」
「馬鹿者め……」
そう呟くエルドラドの目尻には透明な雫が光っていた。
「どうして、リストが改竄されていると気づいたのですか? 事実を知っていたのは私だけですし、戦後には散逸していたはずです。戦場ではリストを精査する余裕もなかったでしょう」
「アリア先生だよ。彼女は僕を庇って死んだんだ」
ヒンギスが息を飲んだ。ドニもだ。呆然とした顔を向ける二人に、レイは静かに言葉を続けた。
百二十年前のあの夏の日、レイは戦場で今にも力尽きようとしていた。後ろには倒れて動かなくなった仲間たち。目の前には獰猛な唸り声を上げる魔物。
青々と晴れた空とは正反対に、周りには怒号と悲鳴と血煙が渦巻いていて、行くことも退くことも叶わなかった。体はボロボロ。目も霞む。それでも戦場は容赦しない。
思わず体がふらついたそのとき、目の前の魔物が飛びかかってきた。もうダメだと目を閉じた瞬間、柔らかい何かに包まれて地面に押し倒された。
目を開けると、背中から血を流したアリアが必死な形相でレイを抱きしめ、魔物の猛攻から身を挺して守っていた。
そして、何とか魔力を振り絞って魔物を倒したレイに、アリアはなけなしの生命力で治療魔法を施してくれた。彼女はケイトと同じく、生命魔法が得意だったのだ。
けれど、満身創痍の状態で治療魔法など使えばどうなるかは自明の理。「しっかりしてください!」と叫ぶレイにアリアは言った。譫言のようにヒンギスの名を口にしながら。
「ごめんね……。あいつのこと、許してやって……」
頬を撫でる手が地面に落ちた瞬間、レイは悟った。自分たちを戦場に送ったのは何らかの後ろ暗い力が働いたのだと。
アリアのローブのポケットからは血に塗れたリストの写しが二通見つかった。改竄前のものと、改竄後のものだ。
しかし、戦後いくら探しても、誰がヒンギスに指示したのかはわからなかった。リストもアリアが死ぬと腐り落ちる魔法がかけられていたので、証拠として残せなかった。
「……僕が戦場に送られたのはいいんだ。あのときはラスタが滅ぶか滅ばないかの二択だったからね。理解はできる。でも……本来死ぬはずじゃなかった仲間が、つまらない欺瞞で死んだのは我慢ならなかった」
レイの顔が歪む。
「何度も自分に言い聞かせたよ。あれはもう過ぎたこと。今さら騒ぎ立てても仕方ないこと。そのうちに何も感じなくなって、実際ここに来るまではもう平気だと思ってた。だから親友の頼みを聞いたんだ。……でも、ダメだった。懐かしい光景を見るたびに思い出すんだ。どうしても、みんなの顔を。過ぎ去ったあの日々を。たとえアリア先生の最期の頼みだろうと――あんたは、僕たちの仇なんだ!」
絶叫し、くしゃくしゃと髪を掻きむしる。そんなレイを見たのは初めてだった。
今、メルディの目の前にいるのは夫のレイ・アグニスではない。百二十年前にここにいた生徒のレイ・アグニスなのだ。
「レイ……!」
レイに駆け寄り、その体を抱きしめる。夏なのに、まるで氷のように冷たい。レイも震える両腕でメルディを抱きしめ返してくれた。その翡翠色の瞳に涙をたたえて。
そんな二人を前に、ヒンギスは細く長く息を吐くと、大机にもたれかかって天井を仰いだ。空を眺めるように。
「……言い訳のしようもありません。今こそ百二十年前の精算をしましょう。ケイトとあの子を傷つけた償いもね。ドアの外に警備隊も控えているのではないですか」
ヒンギスが告げた途端、校長室のドアが開いた。
揃いの防具に身を包み、腰に剣を佩いた男たちが今にも飛び込まんといった様子でこちらを睨んでいる。その先頭には隊長格らしい男が立ち、細かい字がびっしりと書かれた紙を手にしていた。
「さすが魔法学校の先生だ。察しが良くて助かりますよ。この通り、ケイト女史への傷害容疑であなたに令状が出ています。我々と共に来ていただけますね」
「参りましょう。私も大河を越えるときが来たのです。――いささか、遅過ぎましたがね」
縄を打たれたヒンギスが粛々と校長室を後にする。しかし、唇を噛み締めたドニのそばを通り過ぎる瞬間、その場に立ち止まり、彼の目をまっすぐに見つめた。
「ああ、ドニ。そういえば、質問に答えてもらっていませんでしたね。連れ去られたと聞きましたが、あれは本当ですか?」
「……いや? 俺は夜通し生徒の相談に乗ってただけだよ。校長が早合点して勘違いしたんじゃねぇのか」
窓の外でニールが声を上げようとした……が、エレンに口を塞がれた上、グレイグの肩に担がれてどこかに回収されて行った。チームワークが良くなって何よりである。
「そうですよね。安心しました。あの子のことは、君に託しましたよ。くれぐれも危ない実験に巻き込まないでくださいね」
「いい加減に過保護から卒業しろや。……アリアだって、生きてりゃ今頃はしっかりしてたさ」
「ヒト種はそこまで生きられませんよ。……でも、見たかったですね。おばあちゃんになったアリア」
ふふ、と笑い、今度こそヒンギスは校長室を出て行った。その背中は、まるで大河の向こうを見据えるかのようにまっすぐに伸びていた。
静寂が戻った校長室の中で、鼻を啜ったレイがメルディの腕を解き、球体地図に近付いていく。
その顔は若干赤らんでいたが、美しい翡翠色の瞳にはいつもの冷静で穏やかな輝きを取り戻していた。
「……おい、一つだけいいか」
ヒンギスの背中を見送り、力無く椅子に腰掛けるエルドラドを支えながら、ドニが静かに告げる。
「ヒンギスは確かに大河を越えるのをビビってたけどな。引率の教師を決めるときは、お前たちの盾になるつもりで真っ先に手を挙げたんだぜ。それを阻止したのは……アリアだよ。あいつ、眠りの魔法がうまかったからな。勉強のために睡眠時間を削る馬鹿野郎がそばにいたから――」
それ以上は続けず、ドニはエルドラドを連れて校長室を出て行った。
そのときようやく、ヒンギスとアリアのローブが同じ色だと思い至った。もしレイが戦場に行くとなれば、メルディはどうするだろう?
ひょっとしたら、アリアは百二十年前に想いを遂げ、愛しい人の罪に気付いたのかもしれない。眠るヒンギスの横で。
わあっと、窓の外で大きな声がした。警備隊に囲まれたヒンギスが正門へ向かっていく姿が見える。
生徒たちは彼らの後を追おうとしたが、近くで様子を見守っていたらしいミルディアやアルフレッドたちによって解散させられた。
「……さよなら、先生」
そう呟き、レイが球体地図に指を伸ばす。
からからと回っていた球体地図は、時を止めるようにゆっくりと静止した。その場に残ったものは、レイとメルディの震える吐息だけ。
これでもう、何もかも終わったのだ。教授選も、百二十年目の仇討ちも。




