80場 120年目の仇討ち①
「あの日、私はケイトの部屋から自室へ戻ったあと、すぐに戻し液を使いました。紙の裏に透明インクが使われていると気づいていたからです」
「あんたは昔から、生徒たちが授業中に回す手紙の検挙率高かったもんね」
嫌味を言うレイをヒンギスが睨む。罪を認めたからか、その目から怯えの色は消えていた。
「私だけじゃありませんよ。みんなすぐにピンときたはずです。あなたもそうでしょう、ドニ」
「まあな。だから余計に箱を開ける気にならなかったんだよ。いかにもじゃねぇか。まあ、他の奴らは逆に躍起になって開けちまったけどな」
肩をすくめるドニに、メルディは内心舌を巻いた。裏面も触ったはずなのに全然わからなかった。現役学生のエレンだって、駄目元で戻し液を使ってみただけだったのに。教師って怖い。
「先ほど校長先生にお話しした通り、戻し液を垂らした紙と羽ペンは窓の外へ飛んで行きました。けれど、私にはそれを追うことは叶わなかった」
「ケイト先生が倒れた音を聞きつけて、他の教師たちが集まってきたからだね」
ヒンギスが沈鬱な表情で頷く。
「階下から気配が消えて、非常召集がかかるまで息を潜めてやり過ごしました。その頃には羽ペンの行方はわからなくなっていて……。元教え子を傷つけてまで手に入れた結果がこれかと情けなくなりましたよ。でも……」
「教え子が魔法書を手に、あんたの元へやってきた。そうだね?」
ケイトが倒れた時刻、図書館の近くを歩くニールの姿が目撃されている。その直後に、彼は光魔法でヒンギスの姿を借りて図書館に入ったのだ。実技試験以降、図書館は封鎖されていた。生徒の姿では入れないから。
「その通りです。あの子は私のために魔法の制約を外そうとしていたのですよ。私が悩んでいる姿を見ていましたからね。小箱の開け方を伝えたかったのかもしれません」
「……逆です。小箱を開けるなと言いたかったんだと思います」
食堂で聞いたアデリアたちの話をすると、ヒンギスは納得したように頷いた。今にも泣きそうな顔で。
あの日、食堂を出たあと、ニールは飛ぶように寮に戻った。箱を開けてはいけないと、なんとかヒンギスに伝えようと思ったのだろう。
しかし、相手はレイとミルディアたちが連日体を酷使しながら仕上げた複雑な魔法だ。いくら自室の本をひっくり返しても、解く方法は思いつかない。
だから、ニールは図書館に一縷の望みをかけた。調べたところで解けるかどうかは別として、恩師のために少しでも何かしたくて。
本を調べている最中、ニールは最果ての塔の小川を越えて羽ペンと紙が飛んでくるのに気づいた。窓を開けて手にした紙に書かれた文字が、何を意味しているのかにも。
ニールは図書委員だ。禁書庫の開け方も知っている。ナダルが図書室を出たタイミングを見計らって魔法書を手に入れ、ローブのポケットに隠した。
そして、みんなが順番に事情聴取を受けている隙をついて、ヒンギスに魔法書を手渡したのだ。恩師の犯した罪と誤りには目を瞑って。
「……きっと、あの子は思い詰めたのでしょうね。私が罪を犯して、軽率に箱を開けてしまったから」
そこでヒンギスは口を閉じた。
ここまで全て、柱時計の奥の小部屋でニールに聞いていた通りだ。ヒンギスはもう嘘をついていない。
ニールを凶行に駆り立てたのは、ヒト種の自分に対するコンプレックス。しかし、その引き金を引いたのは、ひとえに恩師の役に立ちたいと言う純粋な気持ちだった。
「僕にもっと力があれば、ヒンギス先生を止められたのに」
あの薄暗い小部屋で、そうニールは泣いた。
「……どうして、あの子が魔法書を持ってきた時点で自首しなかったの?」
押し殺すようなレイの声に、ヒンギスは少しだけ間を置いて、お腹の前あたりで両手を組んだ。まるで懺悔するように。
「……怖かったんです。ここを出るのが。私にはもう、ここにしか居場所がないから」
レイがふーっと重苦しいため息をついた。
「あんたの罪は三つだって言ったけど、訂正するよ。四つめの罪は生徒を守らなかったことだ。……あんたが保身に走らなきゃ、あの子はあんなに傷つかずに済んだんだよ!」
びりびりと空気が震える。それは、純粋な怒りというには激しすぎた。
たとえて言うなら、溶けた鉄のように粘性のある怒りだ。全てを飲み込み、焼き尽くすような。
ヒンギスの言葉で、ずっと心の奥底に沈んでいたものが一気に吹き出した――メルディにはそう感じた。
「あなたのおっしゃる通りです。私は自分の居場所を守るために、生徒を犠牲にした。……百二十年前と変わっていませんね」
レイの長い耳がぴくりと動く。その眉間には渓谷みたいな皺が刻まれている。
「それは今ここでする話じゃない。本筋には関係ないからね」
「そうでしょうか? 教授選のタイミングであなたがやって来たのは、百二十年前の復讐ではないのですか。私はずっとそう思っていましたよ」
「……違うよ。ただ単に、親友に頼まれて義弟の様子を見に来ただけさ。奥さんとの新婚旅行を兼ねてね」
「なら、何故その球体地図を集音器に改造したのですか。メルディさんが回した瞬間から、我々の話は外に筒抜けなのでしょう?」
思わず「えっ」と声を上げて球体地図に目を落とす。次いでレイを、ドニを、エルドラドを見る。
彼らは誰もメルディと目を合わせてくれなかった。三人とも、これが集音器だと最初から知っていたのだ。
メルディは何も聞かされていなかった。ただ、正体を明かすときに回してくれと言われただけだ。それを合図に校長室に飛び込むからと。
どんな魔法なのか、球体地図はまだ回り続けている。何も知らないメルディを嘲笑うかのように。
「レイ、どういうこと? これが集音器って本当なの?」
「それは……」
「本当ですよ。窓の外に生徒たちが集まっているのがその証拠です。彼らはいつも忙しいですからね。いくら教授選の行方が気になっていても、興味を惹かれる話が耳に入らない限り、わざわざ様子を見に来たりしません。正門には記者たちも詰めかけている。今頃、夕刊の差し替え準備に追われているでしょうね」
口ごもるレイの代わりに淡々と話すヒンギスの顔を見てはっと気づいた。そういえば、彼はずっとニールの名を出さなかった。レイもだ。
事情を知る人間にはすぐに誰だかわかるだろうが、最後の一線は守ったのだ。ニールの未来のために。
「ごめん、メルディ。君を騙す形になって」
「……あとでちゃんと説明してよね。もう夫婦喧嘩なんてごめんよ、私」
真剣な顔でレイが頷く。それを見たヒンギスが小さく笑みを漏らす。
「レイ、あなた丸くなりましたね。昔のあなたなら容赦なくこの場で私を責め立てたでしょうに。家庭を持ったからでしょうか。これだから他種族は……ヒト種は苦手ですよ。簡単に相手を変えてしまう。心の壁なんて最初からないようにね」
「……おい、ヒンギス。レイに聞いたが、本当にそうなのか? 本当にお前がこいつらを戦場に送ったのか? 嘘だと否定するなら今だぜ。なあ!」
それは懇願に近い響きだった。まさかの言葉に絶句するメルディをちらりと見て、ヒンギスは穏やかな声で続けた。
「大きな声を出すのはおやめなさい。メルディさんがびっくりしてしまいますよ。……長々と話して申し訳ありませんが、もう少しだけ昔話をしましょうか。安心してください。いくらエルフでも日を跨いだりはしませんから」




