71場 夫婦喧嘩は犬も食わない(むしろ食べてほしい)
翌朝、レイはすでにいなかった。
代わりにいたのは青い鳥たちだ。ベッドの上に遠慮なく羽を撒き散らしながら毛繕いをしている。ちらりと窓を見ると、案の定開いていた。
「あなたたち、また勝手に入ってきたの」
仕方ないだろ、という顔でフィーとアズロが見上げる。まあ、招き入れたのはレイなので強くは言えない。彼らもできることならミルディアのそばにいたいはずだ。
「今日はどうしよっか。グレイグかエレン君と一緒にいろって言われたけど……」
ドニが疑われている事実にショックを受けたエレンは、かなり憔悴していた。とても部屋から出る気にはなれないだろう。エレンを気にしていたグレイグも、きっとそばにいるに違いない。
「まあ、とりあえず行ってみるか。ダメならここに戻ってくればいいんだし。ついでに食堂で何か包んでもらおう」
生徒たちの個室には入れないが、談話室までなら入れる。もし会えなくても寮母に頼めば届けてくれるだろう。
善は急げ。いつものシャツとカーゴパンツに着替えて部屋を出る。ケイトが襲われて厳戒態勢に入っているからか、校内に生徒の姿はなく、ひどく閑散としていた。
フィーとアズロの先導に従って玄関ホールに足を踏み入れる。初めてドニと出会ったときに観察していた柱時計は、相変わらずぽつんとそこにあった。
「あれ?」
柱時計の前で誰かがしゃがみ込んでいる。遠目からでもわかるくすんだ金髪――ニールだ。
そばにヒンギスはいない。レイはニールとは接触してほしくなさそうだったが、この状況で見て見ぬふりできるはずがない。
「ニール君、こんなところで一人でどうしたの? ヒンギス先生は?」
「メルディさん?」
ニールは立ち上がると、膝の埃を払ってにっこりと微笑んだ。それは、ここで兄たちに囲まれていたときに見せた笑顔と全く同じだった。
「先生は職員寮で休んでいますよ。ドニ先生は同期だし、ケイト先生は元教え子ですから、心労が祟ったんでしょうね。僕も夏バテしたのか、立ちくらみしちゃって。少し休んでいたんです」
すらすらと話す姿に不安感が募る。短い付き合いだが、どこか虚勢を張っている気がした。二日前に会ったときよりも顔が青いし。
「ねえ、なんか無理してない?」
「大丈夫ですよ。……そういえば、六つめのプレートは見つかったんですか?」
「うん、見つかったよ。でも、こんな状況だもんね。続きは教授選が終わるまでは中断かなあ」
果たして終わっても続けられるかどうかは別として、今はそう言うしかない。頭を掻くメルディに、ニールが残念そうに眉を下げた。
「そうですか……。さっき、七番目の不思議を回収してきたところなんですけど、余計なお世話だったかな」
ニールの手には色褪せた封筒が握られていた。ローブのポケットに入れていたらしい。
七番目の不思議は大講堂の一番後ろ。学内掲示板に貼られた「呪いの手紙」だ。
中身は何の変哲もない手紙だが、触ったものはことごとく不幸な目に遭うので、いつしか誰も触らなくなり、そのままにされているそうだ。
「調べてみたら、インクに迷路蝶の鱗粉が混ざっていました。ちょっと注意散漫になる程度の効果ですけど、授業でミスしたり、転んだりしたら呪いだって言い出してもおかしくないでしょうね。まあ、面白がって呪いの手紙に手を出すやつは元から粗忽者でしょうし」
キレッキレの毒である。優等生としては、はっちゃけるタイプの生徒は好ましくないのかもしれない。
「ただ、僕じゃプレートのありかはわかりませんでした。手紙自体が暗号になってるみたいです。シュミットなら解けると思いますよ。暗号はシュミットの得意分野ですから」
鱗粉の効果はすでに打ち消し済みらしい。ここまでしてもらった手前、受け取らざるを得ない。
「ありがとう、ニール君」
封筒は思ったより分厚かった。鞄がないのでズボンのポケットにしまう……が、少しはみ出た。
エレンに渡すかどうかは別として、持っておくに越したことはない。厳戒態勢が強まって、いつ自由に動けなくなるかもわからないし。
「昨日の今日ですけど、レイ先輩はそばにいないんですか?」
「仕方ないよ。やることいっぱいあるんだもん。お仕事を引き受けた責任もあるし、ミルディアさんを放っとけないでしょ」
「そうですか? 僕ならこの状況で奥さんを一人にしないけどな。……まあ、ミルディア先生は先輩の初恋の人ですからね」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
呆然とするメルディに、ニールがはっと息を飲んで口元に手を当てる。その仕草だけで、ニールの冗談ではないとわかってしまった。
「す、すみません。まさか奥さんが知らないとは思わなくて……。忘れてください。僕もリヒトシュタインとレイ先輩の話を偶然聞いただけなので、勘違いかもしれないし」
誤魔化すように言い、ニールは慌てて去っていった。
しん、と静まり返った玄関ホールに心臓の鼓動が響く。まるで、冷風機に当たったみたいに唇が冷たい。
フィーとアズロが心配そうにメルディの顔を覗き込む。そのとき、六番路の向こうからこちらに駆けてくる足音が聞こえた。
「メルディ」
レイだ。時間がなかったらしく、少し寝癖のついた金髪を後ろで一つ括りにして、いつものショートローブを羽織っている。ただ、警戒中のためか、ズボンのベルトには杖が差さっていた。
「どうして、まだ一人でいるの。よかったよ、様子を見にきて。そろそろ起きる頃だと思ったから――」
「レイさんの初恋の人ってミルディアさんなの?」
「え?」
ストレートに火の玉を突っ込むメルディに、レイが戸惑った声を上げる。しかし、その瞳は微かに揺らいでいて、ニールの勘違いではないことを如実に示していた。
「……誰から聞いたの?」
「誰でもいいじゃない。どうして黙ってたの?」
「どうしてって……。別に話すことじゃないでしょ。確かにミルディア先生は僕の初恋の人だけど、百年以上前の話だし、今はなんとも思ってないよ。君にだってわかるでしょ」
「わかんないよ。私の初恋の人はレイさんだもん」
駄々をこねるような口調。ダメだとわかっているが止められない。そんなメルディを、レイは困惑の目で見ている。
「……もしかして、また浮気を疑ってる?」
ぶんぶんと首を横に振る。
「そんなの疑ってない。でも、隠されてたのが悲しい。結婚する前と同じ、対等に見られてないみたいで」
「あのさあ」
レイがため息をつく。声に怒りが滲んでいる。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。それでも、出したものは今さら戻せないのだ。
「そういう君だって、僕を対等に見てないよね。見下してるって言ってるんじゃないよ。むしろ、その逆。僕のこと、どんな英雄に見えてるの?」
水門の水が決壊するように、レイが捲し立てる。本気で怒っているのだ。こうなったレイに口で敵うわけがない。メルディはただ、レイの言葉を受け止めるしかなかった。
「呼び捨てで呼んでくれないのも、無意識に僕を上に見てるんじゃないの? 憧れてくれるのは嬉しいよ。でも、僕は君と同じ目線に立っていたいんだ。憧れの人じゃなくて、僕を……ただのレイを見てよ、メルディ」
レイの瞳が苦しみに歪んでいる。何も言い返せなかった。その通りだったからだ。
メルディにとって、レイは憧れの人。結婚してもなお、そばにいるだけで天に昇る気持ちになれる大好きな人。しかし、それがいつしかレイを追い詰めていたなんて。
メルディは甘えていたのだ。レイに、ずっと。
謝らなければ。もっとレイと話し合わなければ。震える唇を開いた瞬間、レイを呼び出す校内放送が流れた。
「……ごめん、行かなきゃ。夜には戻るよ。あとで話し合おう、メルディ」
踵を返して、六番路の先へ去って行く。その背中は、蜃気楼のように切なく揺らいでいた。




