65場 たまに現れる扉
魔法学校の食事は美味しい。今日はふかふかの丸パンに、具沢山のクラムチャウダーとオムレツ、そして敷地内の農園で採れた夏野菜のサラダだった。
何より、自分で作らなくていいのがありがたい。家ではレイと交代で作るが、工房では炊事は全てメルディの仕事だ。正直言って、毎日二食、場合によっては三食分の献立を考えるのは超絶に面倒くさい。
「四番目の不思議って、六番路の先だっけ?」
「はい。職員室から職員寮に向かう途中の渡り廊下に、たまに現れる扉があるそうです。ボクはまだ見てないんですけど、美化委員の先輩が見たって」
膨れたお腹を抱え、エレンと連れ立って廊下を歩く。ドニが街から戻るまで付き合ってくれるそうだ。論文や研究で忙しいだろうに、本当にいい子である。
ちなみに、ニールには声をかけなかった。エレンの言う通り昨日の今日だし、またヒンギスの不興を買って、ニールの立場を悪くしたくはない。
「たまに現れるってどういうこと? 闇魔法みたいに、空中にぽつんと浮いてるの?」
「普段は何もない壁に扉が現れたって言ってました。噂によると、入ると異世界に連れて行かれて二度と戻れないそうです」
「えっ、何それ、怖……」
急にホラーじみてきた。怪談話は平気だが、戻れなくなるのは困る。転送魔法の類だろうか。
窓の外には雲一つない青空が広がっている。耳をつんざく蝉の声と共に、容赦なく夏の日差しが降り注ぎ、汗ばむ体をさらに暑く感じさせた。
「さすがの魔法学校も、廊下にまで冷風機はないんだね……。エレン君、暑くないの?」
半袖のシャツに七分丈のカーゴパンツを穿いているメルディとは対照的に、エレンは喉元までボタンを留めたシャツの上に、薄手のサマーベストを着て、制服のローブまで羽織っていた。
フルプレートのグレイグよりマシだが、見ているだけで暑い。
「このシャツ、氷露蜘蛛の糸製なので、見た目より冷んやりしてるんですよ。頑張ってバイトして買いました」
「偉いねえ、ちゃんとバイトして。グレイグなんて、全部仕送りに頼ってるよ。ママもパパもグレイグには甘いんだから」
「そうですか? ボクはグレイグが羨ましいですけどね。優しい家族がいて」
一瞬、声に氷みたいな冷たさが宿った気がした。はっと隣を見上げるも、デュラハンには顔がないので、平静を装われると表情が読めない。
ニールと同じように、エレンにも複雑な事情があるのかもしれない。あえて気づかないふりをして足を進める。
目的の場所はそう遠くない場所にあった。
渡り廊下の向こうには職員寮の入り口が見える。昼間だからいいものの、明かりは乏しく、人が一人すれ違うのがやっとなぐらい狭い。
エレンによると、中もこんな感じなのだそうだ。魔法学校の教師というと、豪華な部屋を与えられていると思っていただけに、なんだか拍子抜けだった。
「結構質素なんだね。もっとお城みたいなのを想像してた。これなら学生寮の方が豪華なんじゃない?」
「教師は学問の僕であり、遊興のためにいるのではない――というのは建前で、綺麗な家に住みたかったら学校の外で見つけなさいってことらしいですよ。運営費には限りがありますし」
「なるほど」
渡り廊下はそう長くなく、左右に間隔の空いた窓が並んでいた。隅の小棚には萎れた花を活けた花瓶がある。
窓の外は庭だ。職員寮に向かって左手側に木造の倉庫らしきものが見える。
「この辺りに扉が現れたそうです」
エレンが指し示したのは、その倉庫のちょうどこちら側――渡り廊下の左手真ん中辺りの、古びた煉瓦積みの壁だった。触っても特に何も感じない。むしろ薄暗いからか、少し冷んやりとしていた。
「どう見ても、普通の壁よね」
「どう見ても、普通の壁ですよね」
先輩の話によると、ある大雨の日、窓の閉め忘れに気づいて慌てて駆けつけたところ、蜃気楼みたいに揺らぐ扉が見えたそうだ。
先輩は怖い話が大嫌いなので、かろうじて窓だけを閉め、すぐさま逃げ出したという。
「雨か……」
壁にキスするように、顔を近づける。そのとき、ふいに甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。
「……あれ?」
「どうしました、メルディさん」
「この辺、何かいい匂いしない?」
メルディに続いて、エレンも顔の闇を近づける。
「確かに……。なんだろう? お菓子? いえ、誰かの残り香でしょうか」
「この壁の向こうって何があるの? 倉庫っぽいのが見えたけど」
「掃除道具置き場です。でも、庭からしか入れないですし、当番で何度か入りましたけど、特に何もなかったですよ」
エレンはそう言うが、メルディの勘が何かあると囁いている。
隅の花瓶を手に取り、中の花を抜き取ったあと、壁に向かって大きく振りかぶった。
「エレン君、どいて!」
慌てて体を引くエレンの真横に、花瓶の中の水をぶちまける。
すると、水がかかった箇所が蜃気楼みたいに揺らぎ、壁の中にめり込むように設置された引き戸が見えた。ご丁寧にも、表面には薄い煉瓦を貼り付けてある。
「やった、ビンゴ!」
じじじ、と音を立てて元の景色に戻ろうとする引き戸に飛びつき、おもむろにこじ開ける。引き戸の向こうには、真っ暗な空間と地下に続く階段があった。
奥には木造の壁。掃除道具置き場を中で二つに分けているのだろう。外寸を測れば、少し狭くなっているとわかるはずだ。
「光魔法の光学迷彩だ……。これ、かなりの上級魔法ですよ。よっぽどの熟練者じゃないと使いこなせません。一体誰が……」
「なんとなーく、心当たりがあるのよね」
「あらー、道理で上が騒がしいと思ったら。いらっしゃいメルディちゃん、エレン。レイはまだ寝てるの?」
「やっぱりミルディアさんだったか……。レイさんはぐっすりですよ。グレイグはどうしたんですか?」
「馬の世話をしてるわよ。あとでまた合流するわ」
階段を下りた先には、レトロな喫茶店みたいな空間が広がっていた。
床には鮮やかなコバルトブルーのラグ。壁にはお土産屋で買うような三角のペナント。そして、人気の雑誌が並べられた棚。
魔石灯の代わりに、光魔法の明かりがふよふよと漂っているのは、さすがと言うべきか。
その中心で満面の笑みを浮かべたミルディアと、円形のテーブルを囲んでお茶に興じる教師たちが、揃って「ようこそ、バー『穴蔵』へ」と声を上げた。
左から、魔物学科のアルフレッド、魔医術学科のケイト、錬金術学科のアデリアだと紹介される。
魔物学科は魔物の生態や飼育方法について学ぶ学科、魔医術学科は生命魔法に特化した学科、錬金術学科は魔技術学科から派生した学科で、魔鉱石をはじめとした金属原料について学ぶ学科だ。
アルレッドは温和なドラゴニュートの男性で、ケイトはエルフの血を引いた金髪緑目のヒト種の女性。そして、アデリアは恰幅のいいドワーフの女性だった。
三人ともモルガン戦争後の入学組で、アデリアが一番先輩の五十七歳。次いでアルフレッドが三十八歳。一番下のケイトはまだ二十六歳だという。
アデリアとアルフレッドの受け持つ学科は戦後に新設された学科なので、普段、二人は飛地にある新校舎の方にいるそうだ。
「ここが見つかったのは百二十年ぶりね。どうして、わかったの?」
「壁からレモンタルトの匂いがしたんですよ。ミルディアさんなら、魔法紋を書けば属性外の上級魔法も使えるし」
「うふふ。職員室や職員寮じゃ、話しにくいこともあるからね。たまに主任教師たちで集まって、お茶したりお酒を飲んだりするのよ。二人もよかったらいかが? 紅茶も淹れたてよ」
「いただきます!」
右手と共に勢いよく上げた声は、外の蝉時雨を打ち消すように大きく響いた。




