64場 実技試験の課題
寝起きでぼんやりした耳に、鐘楼の鐘の音が届いた。
鳴ったのは九回。つまり九時。今日はだいぶ寝坊してしまったようだ。
カーテンの隙間から細く伸びる朝日が眩しい。レイはメルディを抱きしめたままぐっすりと眠っている。深夜まで起きていたから、きっと昼まで目を覚まさないだろう。
布団の下のシーツはぐしゃぐしゃだ。昨夜の甘い時間を思い出して顔が熱くなる。
酒の力なのか、それとも結婚記念日という特殊な状況がそうさせたのか、いつもの冷静さが嘘のように、レイはメルディを求め、甘えてきた。
途中で「別人だったらどうしよう」と不安になるほどだ。結婚して一年。ここまで愛されたことはなかったかもしれない。
とはいえ、二日連続は辛い。腰の痛みをこらえつつ、ベッドを下りてリュックを探る。
ハンカチに包まれているのは、昨夜、最果ての塔で見つけたプレート。帰り際に鐘を鳴らす紐にくっついているのを発見し、こっそり持ってきたのだ。
素材はアルミニウムで、コの字を上下対称に分けて、片方を無くした形をしている。いわゆるL字だ。
長辺の部分には、ドーナツを横に三分割して、真ん中の部分だけを押したみたいなへこみがあった。隅にはO・Wと刻印されている。
これで集めたプレートは三つ。試験は四日後には終わる。このペースでいけば、なんとか集まるかもしれない。
「レイさん、私、朝ごはん食べてくるけど」
服を着て声をかけたが、レイは微動だにしない。仕方ないので置き手紙を残して部屋を出る。フィーとアズロはいないが、さすがに食堂の場所は覚えた。
「あ、そうだ。せっかくだからエレン君に声をかけようかな。今日は一日、研究室にいるって言ってたし」
今日から実技試験が始まるため、グレイグはレイの代わりに朝からミルディアの手伝いに駆り出されている。つまり、ご飯のお供がいない。
ドニの研究室を覗くと、見慣れぬ箱と紙を眺めて唸っているエレンがいた。
小箱は長方形で、全面に小さなタイルが付いている。窓や鳥が描かれていたり、幾何学模様が描かれていたり、模様に統一性はない。形も正方形と長方形が不規則に入り混じっていた。
一見すると、温泉街でよくある寄木細工のようだ。
あの小箱も決まった手順を踏めば開くのかもしれない。ただ、ここは魔法学校。誰の作品かはわからないが、お土産レベルの難易度ではないだろう。
「おはよう、エレン君」
「おはようございます。メルディさん」
勝手知ったるなんとやらで、エレンの隣の椅子に腰掛ける。ドニはいないようだ。友人に会いに、一人で街に出ているという。
「ドニ先生って友達いるの?」
「ボクも初めて知りました。先輩によると、毎年夏になると会いに行くそうなんですけど、誰も実物を見たことがなくて。後を尾けても撒かれるそうです」
「へえ。実は友人じゃなくて恋人なのかもしれないね。想像できないけど」
失礼千万なこと口にしつつ、眺めていた小箱と紙について尋ねる。
「これは教授選の実技試験の課題です。謎を解いた答えを持って面接に挑むんですけど、そのための手がかりが箱の中に入ってるみたいです。紙と小箱は全員同じものが配られたって、ドニ先生が言ってました」
「へえ、手が込んでるねえ。っていうか、ドニ先生も教授選に立候補してたんだね。そういうの興味ないタイプかと思ってた」
「ボクもです。だから、みんなびっくりしてますよ。研究しか頭にないドニ先生にも出世欲があったんだって」
笑いながら、エレンが紙をメルディに手渡す。
立候補した教師たちは、論文と筆記試験で容赦無く振るい落とされ、残ったのは各学科の主任教師六人だけだという。
魔法学校の教師が合計で何人いるかはわからないが、助手や非常勤講師を含めると百人は下らないだろう。教授選とは、それほど厳しい戦いなのだ。
「ヒンギス先生も筆記試験通ったみたいですよ。今朝、グレイグが言ってました」
「魔法学の主任教師だもんね。筆記試験なんてお手のものか……」
渡された紙にはこう書かれていた。
『物語の始まりは何もなかった。
与えられたのは一冊のノート、羽ペン、インク壺。
真っ白なページにインクが落ちる。
紙面に綴られた文字は、やがて大河を越え、大空へと羽ばたく。
無数に並ぶ小さな窓。そこから覗くものは?』
さっぱり意味がわからない。まだ手がかりのある賢者の雫探しの方が簡単に思える。
「何これ。暗号? ただのポエムにしか思えないんだけど」
「暗号にしては解く取っ掛かりがなさすぎてお手上げです。試しに透明インクの戻し液を垂らしてみたんですけど、弾かれてしまいました」
紙には何重にも保護魔法がかかってるそうで、手紙を損なう行動は全てNG。破こうとしたら手痛いしっぺ返しが来たそうだ。どんな目に遭ったのかは怖くて聞けない。
「この小箱にも窓のイラストがあるよね。一列に揃えるように動かして開けろってことかなあ?」
「素直に考えるなら。でも、ドニ先生ったら一目見て『こんなもん謎かけでもなんでもねぇ』って言って、触りもしないんです。今頃、他の先生は解いてると思うのに」
「うーん、ますます気になる」
小箱に触ろうとしたが、指を弾かれた。当事者以外は触れないようになっているらしい。
「徹底してるなあ……。さすが魔法学校」
指をさすりつつ、エレンに昨夜ゲットしたプレートを見せる。結局、ひとりでに鳴る鐘の正体はわからなかったが、きっと忍び込んだ生徒が悪戯で鳴らしたのだろう。昔は入れたと言っていたし。
極力恥ずかしいところ――レイとのあれこれは端折って経緯を話すと、エレンは目を輝かせた。
「すごいなあ。ドラゴニュートや鳥人でもないのに、そんなに自在に飛べるなんて。さすがレイ先輩ですね。エステル君がファンになるはずです」
「ニール君、すごい勢いだったね。私に熱い想いを語ってくれたエレン君みたいに」
「うっ、それは……。し、仕方ありませんよ! 推しを前にすれば誰でもそうなります!」
最近の子は憧れの人を推しと言うらしい。昨日のニールの様子を思い出すと、妻として誇らしく思う反面、申し訳なくなる。メルディが連れ回さなかったら、ヒンギスの不興は買わなかっただろう。
レイとの会話も中途半端だった。できれば、また話す機会を作ってあげたい。昨日は勢いに押されていたが、レイは生粋の魔法紋オタク。ニールとは話が合うはずだ。
「あれからニール君と会った?」
「いえ、昨日の今日ですし、あまり邪魔しない方がいいかと思って。それに……ヒンギス先生の研究室って、ちょっと行きにくいんですよね」
気持ちはわかる。もしメルディが生徒でも、極力近寄りたくない。
そういえば、レイも苦手そうだった。ミルディアの家から帰る途中の馬車での様子といい、昨日の様子といい、やっぱり何かあったのだろうか。
首を捻るメルディを不思議そうに見つめ、エレンが「あの……」と言葉を続ける。
「ところで、朝からどうしたんですか? レイ先輩は?」
「まだ寝てる……ああ、そうだ。朝ごはんもう食べた? よかったら、一緒に食べない?」
待ちぼうけを食らったお腹がぐうと鳴った。




