62場 最果ての塔の鐘
「うーん……。高い……」
「高いよねえ」
グレイグたちと横並びで見上げたのは、天を貫くように聳え立つ鐘楼だった。生徒の間では、『最果ての塔』と呼ばれているらしい。
ここは本校舎の奥に位置する庭の一角だ。周りは木々で覆われ、背後を横切る小川を渡った先には図書館がある。
小川のそばには、『ソーサラーズ大河』と汚い字で書かれた看板が建てられていた。小川なのに大河。誰かの悪戯だろう。
「まさか不思議がある場所に辿り着けないとは……」
三番目の不思議は、この鐘楼の頂上にあるという。深夜、誰もいないのに、ひとりでに鐘が鳴るらしい。ホラーだ。
「昔は入れたみたいですけどね。今は魔法紋を使って自動で鳴らしてるので、生徒は立ち入り禁止になってるんですよ。飛び降りて度胸試しするやつがいるから」
怖いもの知らずの学生がやりそうなことだ。職人も命綱なしに高所の仕事をする人間がいるので、あまり大きな声では言えないが。
「うーん、どうしよ。工具さえあれば、鍵を開けられるかもしれないけど……」
ウィンストンでも手錠を外したし、南京錠ならいけるかもしれない。
犯罪に手を染めようとする姉に、グレイグが「ロックの魔法かかってるから無理だよ」とすげなく言う。
「もしロックを解除して入れたとしても、中にはループの魔法がかかってます。一歩足を踏み入れたら最後。螺旋階段を永遠にぐるぐる回り続けますよ。迷路蝶のときみたいに」
ニールの言葉に、エレンも続く。
「悔しいけど、ボクたちじゃ、とても先生たちの魔法には太刀打ちできません。鐘楼に登るには、空を飛ぶしかないですね」
空を飛ぶのは上級の風魔法だ。たとえ魔法紋を書いたとしても、風属性持ちでない限り、大量の魔石がいる。そして、この中に風属性持ちの人間はいない。
「フィーとアズロに運んでもらうとか……」
無茶言うな、と抗議するように、アズロが嘴でメルディの頭をつついた。地味に痛い。さすがの魔物でも、自分の体よりも遥かに大きい人間を咥えて飛ぶのは無理みたいである。
「ドラゴニュートだったらよかったんだけどなあ。誰かお友達にいない?」
「先生ならいるけど、生徒はみんな帰省してるよ。悩まなくても、レイさんに頼めばいいじゃん。レイさんなら、魔法紋使えばこれぐらい飛べるでしょ」
グレイグが正論を言う。それができれば苦労はしない。
「レイさんには内緒にしたいのよ。だって、驚かせたいんだもの」
「何が内緒だって?」
背後からかかった声に、グレイグを除く全員の体が飛び上がった。
振り返った先にいたのは、美しい金髪と翡翠色の目を持つエルフ――メルディの最愛の夫、レイだった。
暑いのか、脱いだショートローブを左腕に抱えている。メルディの大好きな筋張った指には、赤いインクが染み込んでいた。
「レ、レイさん。試験の採点は?」
「もう終わったよ。なんだか、楽しそうだね。散歩?」
視線を向けられ、エレンとニールが肩をすくめる。二人からすれば大先輩だ。恐縮するのも無理はない。
「二人はグレイグのお友達だよ。金色の髪の子がニール君。デュラハンの子がエレン君。魔法学校の中を案内してくれてるの」
「ああ、君たちがあの……。ありがとう、助かるよ。僕の奥さんが無茶言ってない?」
無言でぶんぶんと首を振る二人に笑みが漏れる。どんなにしっかりして見えても、こういうところは歳相応だ。可愛い。
「二人とも、そんなに緊張しなくていいよ。そうだ。せっかくだから、レイさんに聞きたいことがあったら聞いてみたら? 二人も論文書いてるんだよね?」
「お姉ちゃん、また勝手に……」
「いいよ。後輩だもんね。僕に答えられることなら、なんでも聞いて。僕がここにいたのは百二十年前だから、役に立つかはわかんないけど」
グレイグを制止して、レイが笑う。さすが懐が深い。
エレンとニールは顔を見合わせていたが、やがて、ごくりと喉を鳴らしたニールが一歩前に進み出た。その顔は真っ赤になっている。恥ずかしい……のだろうか?
震える手でローブを握りしめる姿に、何故か既視感を覚える。
「あ、あの、僕……」
「うん。何?」
「僕、あなたのファンなんですっ!」
その場にいる全員がニールに注目した。メルディのそばを飛んでいたフィーとアズロも、羽ばたきを忘れてニールに見入っている。
ニールは顔を真っ赤にしたまま、さらにレイに一歩近づき、堰を切ったように話し出した。
「レイさんが書いた論文、全部読みました! どうやったら、そんなに多彩な魔法の使い方が思いつくんですか? 魔法紋も全部手書きですよね? なのに、どうしてブレずに綺麗に書けるんですか? 道具? それとも経験ですか?」
言葉が濁流の如く迸っている。レイはただ、その勢いに圧倒されている。メルディたちもだ。
「……あんた、知ってた? ニール君がレイさんのファンってこと」
「……ううん。エレンは?」
「し、知らないよ。こんなエステル君、初めて見た」
考えてみれば、一日目に迷子になったときに「あのレイ・アグニス?」と言っていたし、レイのことを気にしていた。ファンだったからなのか。
「ごめん。ちょっと落ち着いてくれる? 君の気持ちは十分わかったから」
「あ、す、すみません。つい興奮してしまって……」
ニールがはっと我に返って口元に手を当てる。そのとき、小川の向こうからニールの名を呼ぶ声がした。
白いローブのエルフ――ヒンギスだ。その姿を見た途端、レイとニールの肩が強張った気がした。
ヒンギスは小川を渡ると、メルディたちを一瞥することなく、ニールの両肩に手のひらを乗せた。まるで親が迷子の子供を見つけたときのように。
「探しましたよ、ニール。図書館にも研究室にもいないものですから」
「……すみません、先生。すぐに戻ります」
「ニール君をお借りしてごめんなさい! 私がニール君に案内を――」
会話に割り込んだメルディに、ヒンギスが顔を向ける。その目を見た瞬間、心臓が跳ねて息ができなくなった。
彼は怒っているわけでも、困惑しているわけでもない。そこに宿っているのは無だ。一切の温度を感じない、氷のように冷たい目。
黙り込んだメルディの前にレイが立つ。その背筋は、ヒンギスからメルディを守るようにまっすぐ伸びていた。
「失礼しました、ヒンギス先生。ニール君は妻のために校内を案内してくれていたようです」
「ああ、そうだったのですか。そうとは知らず、こちらこそ失礼しました」
にこやかな笑みを浮かべ、胸に手を当ててレイに頭を下げる。その姿は思わず見惚れるほど優雅だ。雰囲気も穏やかなものに戻っている。
さっきの目は気のせいだったのだろうか?
「あなたも立派になりましたね。そんなに畏まらずにいてください。エルフの世界には上下関係はありませんからね」
やたら「エルフ」を強調して、ヒンギスはニールを連れて去って行った。その入れ替わりに、よれた灰色のローブを着たドニが校舎から顔を出す。
「おーい、エレン! 実験すんぞ! そろそろ戻ってこいや!」
「あ、はい! すみません、メルディさん。また!」
慌てて小川を渡り、エレンがドニの元へ駆けて行く。それを見て、グレイグも「僕もミルディア先生のところに行かなきゃ」と後に続いた。
フィーとアズロもだ。もうお役御免だと思ったらしい。
「レイさん、また論文の相談に乗ってね」
手を振りながら去って行くグレイグに頷き、レイが肩を回す。疲れたときにする仕草だ。声をかけようと口を開いたが、それよりも早くレイがこちらに向き直った。
「で? 本当は何をしようとしてたの?」
目が笑ってない。エルフの血を引いたニールがいたからだろうか。咄嗟に「あの塔に上ってみたくて見てた!」と誤魔化す。
レイは顎に手を当てて何かを逡巡していたが、やがて顔を上げると、魅惑の微笑みを浮かべて言った。
「今夜、デートしようか」




