6場 エルフの憂い
紺色の鎧兜を脱ぎ、身軽になった体で魔石灯に照らされた庭の中を進む。
頭にはアイスブルーのカツラ。少し先には小さなガゼボ。ガゼボはメルディが生まれたのをきっかけに、ガラハドが作ってくれたものだ。お茶会の練習用にと思ったらしいが、実際はティーカップの代わりに金槌を握っている。
ガゼボの中にはお洒落な猫足テーブルと椅子が四脚。そして、足を組んで書類に目を落としている金髪の男。レイだ。物音がするたびに顔を上げて何かを確認している。
その視線の先には魔石灯の明かりが漏れる窓がある。微かに映る赤茶色の髪も。ガラハドの言いつけ通り、メルディが防具の修理と整備をしているのだ。
そこそこ夜も更けてきたが、まだ金槌を置くつもりはないようだ。仕事に夢中になると寝食を忘れるのはメルディの悪い癖である。お茶を差し入れても、部屋の明かりを点けても、一向に気づかなかったし。
「レイさん、ちょっと休憩しない? 飲みもの持ってきたよ」
「んー? ああ、グレイグか。鎧を着てないから一瞬わかんなかった。ありがとう。いただくよ」
両手に持ったカップのうち、右手のカップを差し出す。レイには赤ワイン、まだ未成年のグレイグは葡萄ジュースだ。
「何かわかった?」
向かいの椅子に座ってカップを傾けるグレイグに、レイは小さく首を横に振った。
「鎧を改造したのは盗賊たちだってさ。ねぐらに残ってた仲間の一人が魔法紋をかじってたみたい。道理で記述がお粗末だったわけだよ。入手経路も闇市だって言うし、やっぱりウィンストンまで行かないとダメだね」
ため息をつき、テーブルに書類を投げ出す。そこには屋敷の傭兵たちが調査してくれた結果が事細かに羅列してある。
盗賊たちの素性や、血を洗い流したあとの鎧兜の状態について……などなど。だが、偽物の製作者に繋がる情報はないようだった。
「昨日はびっくりしたね。盗賊に遭遇したのはともかく、お姉ちゃんがレイさんの魔法を破っちゃうなんて」
「魔法紋の魔法は、魔法紋なしの魔法より効果が落ちるからね。それでも、あれは予想外だったな……」
レイがテーブルを指でとんとんと叩く。
「ここ二十年の研究で、圧倒的な力の差があれば同属性でも破れるってことも、加工の腕が属性効果に影響するってこともわかってたけど、まさかここまでとはね。優秀な娘を持ってアルティも安泰だ。危険に身を晒したから怒ってたけど」
「やっぱり。ママは?」
「呆れて何も言えないってさ」
盗賊との一件は、屋敷に着いたときにレイの口から両親へ報告されていた。きっと帰ったらめちゃくちゃ怒られるだろう。自業自得なので庇う気にもなれない。
「お姉ちゃんさあ、御者に謝るのはいいけど、手を握るのはやりすぎだよね。レイさん以外の男はパパと同じだと思ってるんだよ。見てて危なっかしいったら」
「……それをなんで僕に言うの?」
「気になってるかなって思って」
レイが去り際の御者の様子をじっと見つめていることには気づいていた。
探るようなグレイグの目にも、レイは動じない。
「そういうときのために君がいるんでしょ。ちゃんと姉を教育しなよ」
「僕の言うことなんて聞きやしないよ。それになんて言うの? 男はみんな狼ですって?」
そんなの今時もう古い。それに、血を分けた姉に男の生理的な話をするなんて冗談でも嫌だ。
「それぐらい思っててもらった方がいいよ。いくら家族旅行であちこち行ってるからって、一人でウィンストンまで行こうとするなんて無謀すぎる。何考えてんの、あの子は」
「レイさんと作った鎧だからでしょ? 居酒屋で情報収集してるお姉ちゃんに警戒してたとはいえ、よく気づいたよね。エルフの勘ってやつ?」
「そうかもね。エルフは虫の知らせがよく働くから」
たぶん違うんだろうな、と思いつつ黙って頷く。
メルディが首都を抜け出そうとしていたとき、グレイグと両親はリヒトシュタイン邸の前で調査に旅立つレイを見送っていた。ところが、「メルディには内緒にしといてよね」と馬車に乗り込もうとした瞬間、突然南へ走り出したのだ。
グリムバルドには大小様々な門が至る所にある。ただの虫の知らせで、ピンポイントに南の大門だとわかるはずもない。
「ねえ、お姉ちゃんってそんなに魅力ない? ちょっと頑固だけど、胸も大きいし、僕から見てもイケてると思うんだけどな。男たちの群れに放り込んだら、パクって食べられちゃうぐらいには」
「突然何を言ってんの? 弟のセリフとは思えないんだけど」
「ひょっとして好きな人がいるの? まだ初恋の人を想ってるとか」
レイの初恋の人は、学生時代の元担任だったらしい。綺麗な同族の先生に恋する生徒。よくある話だ。絶対に荒れるから口が裂けてもメルディには言うなと、アルティからは釘を刺されている。
「百年以上前の話だよ。もう終わった恋だって。そもそも相手は既婚者だったから、告白すらしなかったし」
「それなら、なんでお姉ちゃんに線を引くの?」
レイは頬杖をついてそっぽを向いている。聞こえないふりをしているのだろう。大人はこういうことをするからずるい。ならば、こっちは子供らしく空気を読まずにいこう。
「レイさんはパパの親友だもんね。親友の娘に手を出すのは気が引ける?」
あえて声を張り上げると、レイは嫌そうな顔をした。この会話をメルディに聞かれたくないのだ。
「夜なんだから静かにしな」と釘を刺したあと、ため息をつく。
「そりゃそうでしょ。それに、あの子は恋に恋してるだけなんだよ。こんな年寄り相手にしなくてもさ……。子供の頃に一回おぶっただけで好きになったなんて、どんな恋愛小説にだって書いてないよ」
「ダメなの?」
エルフ特有の長い耳がぴくりと動いた。
「僕はまだ恋したことないからわかんないけどさ。恋って、命を助けられたとか、人生を変えてもらったとか、そんな大層な理由がないとしちゃダメなの? よく『落ちる』っていうじゃん。突然やって来るものなんじゃないの?」
「……君のそういうところ、アルティとそっくり。姉弟揃ってなんなの」
「なら、わかるでしょ。お姉ちゃんが本気だってことも、絶対に諦めないってこともさ」
言い募るグレイグに、レイはついに頬杖を解いてこちらに向き直った。
「僕にどうしろって? メルディを受け入れて、一瞬で老いていくのを見守れっていうの? 自分がどんなに残酷なことを言ってるのかわかってる?」
「それでも、レイさんはパパのそばにいることを選んだんでしょ。ママも僕もそうじゃん。いつかレイさんのことを置いて行く。でも、線は引かないよね。なのに、なんでお姉ちゃんだけダメなの?」
「君が学校でどう過ごしてるのか、手に取るようにわかるよ。質問好きの生徒がいて、先生は苦労するだろうね」
吐き捨てるような言い方だ。だいぶご機嫌を損ねている。いつものレイなら決して見せない姿だろう。
それだけ心の深い部分に触れたのだ。これ以上踏み込めば、本気で怒らせるかもしれない。けれど、あんなのでも姉は姉。家族が泣く姿なんて見たくはない。
「僕はさあ。お姉ちゃんに幸せになってもらいたいんだよね。このままじゃ、一生、金槌振るって終わっちゃうよ。だから正直、レイさんには重荷背負ってもらいたいなって。大人ってそういうもんじゃないの?」
「大したシスコンだね。親の顔が見たいよ」
「いつも見てるじゃん。ママに顔はないけどさ。僕だって、本当にその気がない人には言わないよ。お姉ちゃんが他の男の横に立つのを許せるの?」
レイは答えなかった。グレイグから目を逸らし、ただ闇の中を見つめている。
夏の生ぬるい風がグレイグの顔の闇を撫でていく。どれだけ待っても、レイは口を閉ざしたままだ。
今日はもうこれまでだろう。内心ため息をつき、椅子から腰を上げる。
「好き勝手言ってごめん。僕、そろそろ寝るね。レイさんもほどほどにしときなよ。朝、弱いんだから」
「……お子さまに心配されなくても大丈夫だよ。おやすみ」
グレイグには長命種の苦しみはわからない。暗闇の中に一人取り残されたその背中は、とても寂しそうに見えた。