45場 託すものと託されるもの①
「レイ! こっちこっち!」
ざわざわと賑やかな店の一角で、アルティが手を振った。机の上には早くも空になったジョッキと、半分ぐらい減った枝豆。喉が渇いて待ちきれなかったらしい。
四十歳になっても相変わらず童顔だが、その目尻には皺が刻まれていて、着実に歳を重ねているのだと実感する。
初めて会ったときはまだ十二歳だった。クリフに弟子入りしたのでよろしくと頭を下げた子供が大人になり、結婚して子供を授かり、あまつさえ義理の父になったのだから、人生とは不思議なものだ。
「急に呼び出してごめんね。店は大丈夫だった?」
「うん。今日は早めに閉めてたから。アルティの方は大丈夫なの?」
「師匠に任せてきた。ぶうたれてたけど、たまにはいいでしょ」
レイが対面の席に着くと同時に、アルティが追加のビールと料理を頼んだ。ここは二十年以上前から二人で通っている居酒屋だ。メニューなしでもそらで言える。
「びっくりしたよ。二ブロックしか離れてないのに、近所の職人経由でメモが回ってくるんだもん。いつもは直接店に来るでしょ?」
「メルディに知られたくなかったからさ。仕事で急に呼び出されたってことにしとけば、角は立たないかなって」
「仕事でお酒飲むの?」
「呼び出されたお礼に奢ってもらったって言っとけばいいじゃん」
しれっと言われて目を丸くする。レイの知るアルティはいつもまっすぐで、要領の良さとは対極にいる人間だったのに。
「君、いつの間にそんなしたたかになったの?」
「俺も親方になって長いからね。年の功ってやつ」
十八番のセリフを取られ、思わず吹き出すレイの元にビールと料理が運ばれてきた。どちらともなくジョッキをぶつけあい、しばし黙ってビールを喉に流し込む。
酒を飲むのは好きだ。けれど、レイはアルティほど強いわけじゃない。
昔はよく酔い潰れてアルティに運んでもらったものだが、今は家で待っている家族がいる。一気飲みはせず、控えめにしておこう。
アルティはそんなレイを斟酌せず盛大に喉を鳴らすと、鼻の下に泡をつけたまま微笑んだ。
「レイがメルディと暮らし始めて一ヶ月が経ったね。その……新婚生活はどう? 順調?」
「いつになく遠回しに言うね。君らしくない。ストレートに『メルディと何かあったの?』って聞きなよ」
図星を突かれた様子でアルティが息を飲む。そして、すぐに「うん、そう。ごめん」と素直に頷いた。下手に言い訳しないところは変わらなくて安心する。
テーブルにジョッキを置き、レイはエイヴリーとの一件を話した。
とても父親に夫婦生活のことは言えないので、店を早めに閉めた理由は伏せる。案の定、人の良いアルティは、落ち込んでいるメルディを慰めるために店を閉めたと思ったようだった。
「ごめんね、あの子が迷惑かけて。道理でぼんやりしてたわけだ。金槌で自分の指を打つなんて子供のとき以来だし、よっぽどのことがあったんだと思ってたけど」
「そういえば、爪割れちゃってたね。こっちこそ、メルディを動揺させてごめん。君たちの仕事は精密さを要求されるのに」
うーんと唸り、アルティが顎をさする。
「正直なところ、放っておいても仕事に支障はなかったんだけどね。あの子だって一端の職人。私情で製品の出来栄えが左右されるほど馬鹿じゃない。でも、さすがに見過ごせなかった。集中を切らすと大怪我の元だからさ」
そう言ってアルティは自分の手のひらを見た。古傷だらけの手だ。何度かやらかしては病院に駆け込む姿を見ているので説得力がある。
「寝言で『パパ、ごめん』って言ってたよ。金槌を取り上げられたの、かなりこたえてるんじゃない」
「うっ……。俺の胸を抉ってくるのやめて。……明日は優しくしてやろ」
すっかり父親らしくなった姿を見て、自然と目尻が下がる。
「君はいつも優しいよ。甘すぎるぐらい」
「レイに言われたくないなあ」
唇を尖らせたアルティが、残ったビールを一息に飲み干す。いつもよりペースが早い。娘を叱ったことを気に病んでいるのかもしれない。
ちびちびとジョッキを傾けるレイを尻目に、アルティは追加の酒を注文すると、はあ、とため息をついてソーセージに手を伸ばした。
「あの子の気持ちはわかるけど、確証もないのに疑っちゃダメだ。一歩間違えれば、罪もないお客さまに迷惑をかけてたかもしれない。もうちょっと怒ってくれてもよかったんだよ」
「あの子の泣き顔には弱くてね。疑われるような真似をした僕も悪いし、正直エイヴリーはボコボコにされても仕方ないと思ってるから、それはいいんだけどさ」
ソーセージの皿をアルティに寄せ、テーブルに頬杖をつく。
ここは職人街の中にある居酒屋だ。店の中を見渡すと、あちこちで見知った顔がいる。けれど、あと百年経てば、すっかり入れ替わっているだろう。
「近づくのは死んだあとにしてって、結構効いたなあ」
アルティがソーセージを齧る手を止め、そのまま黙ってレイの顔を見つめる。
白髪が混じり始めた赤茶色の髪。熱い炉の炎をたたえた強い眼差し。いつまで見ていられるのか、と考えるのはとうにやめた。とても耐えられそうにないから。
「覚悟はしてたつもりだったけどね。トリスタンさまが異種族婚は大変だって言った意味が改めてよくわかったよ。君もそうだったの?」
ごくん、とソーセージを飲み下し、アルティが首を傾げる。ここ二十年間の記憶を発掘しているらしい。持ったままのフォークが微かに揺れている。
「ヒト種とデュラハンの寿命は同じだからなあ。特に大変だと感じたことはないよ。ただ、俺は平民でデュラハンみたいなパワーも魔力もない。喧嘩したら絶対に負けるし、今でも釣り合ってないんじゃないかって思うときもある。でも……」
そこで言葉を切り、アルティは笑った。初めて顔を合わせたときと同じ、はにかんだ笑みだった。
「それでも俺は、リリアナさんと結婚して本当によかったと思うよ。おかげで、メルディとグレイグっていう子供にも恵まれたしさ」
「その言葉、録音してリリアナさんに聴かせてやりたいね。感動のあまり王城中に言いふらすんじゃない。トリスタンさまみたいに」
「やめてよ! 恥ずかしくて死んじゃうだろ。それに、そういうのは自分の口で伝えるよ」
顔を真っ赤にして食事を再開するアルティに口元が緩む。
自分もこうして、婿にメルディと結婚してよかったと語る日が来るのだろうか。
口をつけたビールは少しぬるくなってしまっていたが、それでも、とても美味しく感じた。
「ありがとう。結婚式の件もだけど、君にはいろいろ世話をかけるね」
「何言ってんの。水くさいなあ。俺たちがやりたくてやってることだからね。披露宴会場も年明けぐらいには完成しそうだってさ。その頃にはドレスも仕上がるし、まとめてメルディにお披露目するってリリアナさんが言ってたよ。何度も呼び出すと、あの子面倒くさがるだろうから」
「三度の飯より金槌を振るっているのが好きな子だからねえ」
「あと、レイと居るのもね」
ジョッキを掲げたアルティがにやっと笑う。
「不束な子だけど、メルディを頼むよ。改めてよろしく、レイ」
「うん、任せて。こちらこそよろしく、アルティ」
ぶつけ合ったジョッキは、いつもと変わらぬ音を立てた。




