43場 浮気なんて許しません①
朝日が眩しい。
カーテンの隙間から差し込む光の強さで、メルディは寝坊したと悟った。
「今日、有休でよかった……」
呟いた声は酷く掠れている。体を起こした途端に走る筋肉痛は金槌を振るい過ぎたからか、それとも……追求するのはやめよう。恥ずかしくて死ぬ。
隣のレイはぴくりともしない。深い眠りについているようだ。
暑かったのか、いつの間にか剥き出しになった肩に布団を掛け直し、額にかかった金髪をそっと指で払う。その下から現れた顔はとても満足そうで、こちらの頬も緩む。
最初は照れくさくて触れることも躊躇われたが、今ではだいぶ慣れた。こうやって少しずつ家族になっていくと思うと感慨深い。
「朝ごはん……いや、昼ごはんどうしよ」
何しろ十日も留守にしていたので、冷蔵庫に何が入っているのかも知らない。
とりあえずキッチンに行こうと床に足を下ろしたとき、ヘッドボードとマットレスの隙間に何かが落ちていることに気づいた。
「イヤリング?」
小指の先ぐらいの小ぶりなものだ。涙型の台座にはエメラルドらしき石がついている。どう見ても女性用だ。
知り合いたちを思い浮かべるが、イヤリングをつけるような人間は誰もいない。メルディもレイもつけない。というか持ってもいない。
「……誰の?」
「どうしたの、そんなにじっと見つめて。僕の顔に何かついてる?」
「……格好いいパーツしかついてない」
「照れるなあ。やめてよ、緊張して仕事に支障が出ちゃうから」
ちっとも動じてない顔でレイは笑った。
手には朝刊。カウンターにはホットコーヒー。いつも通りの接客スタイルでくつろぐレイに対して、メルディの心は荒れ狂っていた。はたきを握る手にもいつもより力が入る。
ズボンのポケットにはベッドで見つけた持ち主不明のイヤリング。一言レイに聞けば済むのだろうが、どうしても切り出せなかった。
浮気だったらどうしよう。
離婚されたらどうしよう。
そんな言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
昼食も喉を通ら……いや、しっかり食べた。むしろ、いつもより食べた。アルティと違って、メルディは食欲が増すタイプなのである。
「掃除なんていいから、ゆっくりしてなよ。まだ体辛いでしょ。修羅場明けなのに無理させてごめんね」
言葉少ななメルディを疲れていると解釈したのか、レイが優しい言葉をかけてくれる。
いつもは飛び上がるほど嬉しいのに、今は辛いだけだ。まさか新婚一ヶ月にしてこんな思いをするとは思わなかった。
もし本当に浮気だったとしたら、いつからなのだろうか。仕事に集中しろと言ってくれたのは、浮気相手と共に過ごすためだったのだろうか。メルディに囁いてくれる愛の言葉を、浮気相手にも囁いたのだろうか。
次々に湧いてくる嫌な想像から逃れるために頭を振り、はたきを元の位置に戻す。
くだらないことを考えてないで、さっさと掃除機をかけて他の家事をしよう。悩むより体を動かした方がいい。洗濯だって、風呂掃除だって、まだまだ控えているのだ。
「大丈夫よ。元気なのが私の取り柄だもの。ぱぱっと終わらせちゃうね」
表情筋を駆使してレイに微笑み、掃除機を手に取った瞬間、店のドアが勢いよく開いた。
強い光が目を刺して痛みを覚える。店の中は冷風機のおかげで快適だが、外は残暑厳しそうである。
「レイ、ごめん。ちょっと工房に来てくれねえ? 昨日、魔法紋書いてもらった魔具、組み上げてみたら上手く動作しねえんだよ」
ずかずかと中に入り、カウンターに手をついて捲し立てるのは近所の魔技師だ。
魔法紋師はその職業柄、魔具や魔機を作る魔技師と組んで仕事をすることが多い。特にレイは腕がいいので、こうして急に呼ばれることも日常茶飯事だった。
「わかった。ごめん、メルディ。ちょっと店番しててくれる? もしお客さん来たら、これに連絡先書いてもらって」
手招きされて渡されたのは手のひらサイズの小さなカードだった。名前、種族、属性、連絡先、依頼内容を書く欄がある。シュトライザー&ジャーノ工房でいうアンケート用紙のようなものだろう。
レイを送り出し、カウンターの椅子に座る。本がすっかりなくなってしまったので、かなり広く感じる。
外からは職人たちが金槌を振るう音がひっきりなしに聞こえてくる。アルティも今頃、金槌を振るっているだろうか。
「ごめんくださーい」
店のドアが開き、誰かが中に入ってきた。逆光で見にくいが、たぶん初見のお客さまだ。
失礼にならないよう、にこやかな笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」と応える。
「あれ? レイは? この時間なら、もう起きてると思ったんだけど」
呼び捨ての上、低血圧を知っているところを見ると、ご新規さまではないのだろうか。
子供の頃からずっとそばにいたメルディとて、全ての知り合いを把握しているわけではない。
レイには百年以上かけて積み重ねてきた人間関係があって、メルディはそのほんの一部にしか過ぎない。それが少し寂しいと思うのは内緒だ。
「店主なら先ほど急用で出かけて行きました。お仕事のご依頼でしたら、お手数ですがこのカードにご記載お願いできますか。戻り次第ご連絡差し上げますので」
「やたら客慣れしてそうだけど、バイトの子……なわけないか。君がレイの奥さん?」
カウンターの前に立ち、メルディをしげしげと見つめるのは、思わず見惚れるほど綺麗なエルフだった。
ピンクがかった金髪に、夏の森のような緑色の瞳を縁取る長いまつ毛。濃紺色のゆったりとしたタートルネックの上にレイみたいなショートローブを羽織り、半ズボンをはいている。
髪型は襟足長めのウルフカットで、服で喉仏が隠れている上、全体的に小柄で線が細いので男性なのか女性なのかわからない。声も高く、少年のようでも少女のようでもある。
そして、エルフ特有の長い耳には女性もののイヤリングが揺れていた。
「ふうん。人にはモラルだのなんだの散々言っといて、こんなちっさい子捕まえたんだ。面白くないね」
嘲るような言い方にカチンときたが、ぐっとこらえる。客商売では己を出した方が負けだ。クリフもアルティも気に入らない客とは喧嘩するけど。
「あの……。あなたは? 店主のお知り合いですか」
「僕? 僕はイヴ。レイとは昔馴染み。たぶん君の年齢より付き合いは長い。各地を転々としてて、あんまりグリムバルドにはいないから、君が知らなくても仕方ないね。レイも話してないだろうし」
マウントを取られたのでは、と思うのはただの僻みだ。年数を持ち出されるとメルディに勝ち目はない。ましてや、こんな美形のエルフには。
「あれ? 妬いちゃった? かーわいい」
胸の中に沸いたモヤモヤを必死に押し込めるメルディを一蹴して、イヴは踵を返した。
「いないんならしょうがないや。また、そのうち来るよ。レイに伝えといて。この前は素敵な夜だったって」
ひらひら、と手を振ってイヴは店を去っていった。
メルディの胸に、言いようもない不安を残して。




