42場 修羅場到来
鳥の鳴き声と共に目が覚める。
ゆっくりと体を起こし、そっとカーテンをめくるも、外はまだ薄暗い。十年近く毎日この時間に起きているからか、今では目覚まし時計なしでも起きられるようになった。
職人の朝は早いが、低血圧のレイの朝は遅い。隣ですやすやと眠るレイを起こさないように慎重にベッドから下り、簡単な朝食をとったあと、身支度を整える。
寝室の隅にある鏡台には、ささやかな化粧品。工房にいると汗で全部流れるので、ファンデーションはつけずに眉だけ描くのだが、それでもテンションが上がる。「これから働くぞ!」と宣言しているようで。
「レイさん、行ってくるね。サラダ作っておいたから、よかったら食べて」
「んん……」
掛け布団からはみ出た長い耳に囁き、ベッドから離れようとしたところで、伸びてきた手に腕を掴まれた。そのまま引き寄せられて少しよろける。
「どうしたの? レイさ……」
ベッドに両手をついたとき、唇に柔らかい感触がした。目の前には眠そうなレイの顔。その下はパジャマのズボンしか身につけていない。昨夜、全て着る前に力尽きて眠ってしまったからだ。
「行ってらっしゃい……」
力無く手を振り、もぞもぞと布団の中に戻っていくレイの姿にはっと我に返る。呆けている場合ではない。熱い顔を冷ますように頬を叩き、店を抜けて外に出る。口元がにやけているのはご愛嬌だ。
婚姻届を提出し、無事に引っ越しも済んで一ヶ月。メルディは幸せの中にいた。
このあと工房に出勤するまでは。
「やってもやっても終わんないよー!」
「こら! 泣く前に手を動かす! それが職人だろ!」
煌々と燃える炉の炎に照らされた工房の中、メルディとアルティは猛然と金槌を振るっていた。
足元には大量の金属板。手元には作りかけのブリガンダイン。新人への支給品を一新するとかで、探索者組合から大量受注が舞い込んできたのだ。
まあ、それはいい。工房が儲かるのはメルディにとってもありがたい。しかし、問題は短納期すぎて、しばらく家に帰れないのが確定したことだった。
ブリガンダインは革鎧の内側に金属板を隙間なく貼り付けたものだ。つまり、ものすごく手間がかかる。たとえ二ブロックしか離れてないといえども、移動の時間すら惜しい。
「新婚なのに……。パパの馬鹿! 離婚されたらどうしてくれるのよ」
「パパのせいじゃないって! 仕事をとってきたのは師匠なんだから。それに、レイはメルディを手放したりはしないよ。そんなことしたら、パパが金槌でぶん殴ってやる」
父親の愛情に思わずほろりとしながらも、メルディは唇を尖らせた。
「その大師匠はどこ行っちゃったのよ。朝から姿見えないんだけど!」
「いつものことだろ。ほら、喋ってないで金槌振るう! 納期は待っちゃくれないんだよ!」
「もー! この仕事が終わったら有休もらうからね! 絶対だからね!」
それから、どれぐらい金槌を振るっていただろうか。
ふと気づけば窓の外は真っ暗になっていて、いつの間にか点いていた魔石灯が工房の中を照らしていた。
背後の作業台には、黙々と金属板に錆止めを塗るアルティの姿がある。メルディ以上に金槌を振るっていたのに疲れた様子は見えない。仕事となると途端にリミッターが外れるのは、アルティのすごいところだ。
クリフの姿は相変わらずない。きっとまた、どこかに質の良い鉱物かなんかを採りに行っているのだろう。百歳を超えてもフリーダムな老人である。
「十日後までにあと八着……。間に合うかなあ……」
何も着ていないトルソーを見てため息をつく。夏の盛りは過ぎたとはいえ、まだ九月だ。閉め切った工房の中は暑い。
額から流れ落ちる汗を拭ったとき、大きな音を立ててお腹が鳴った。考えたら朝食以降、何も口にしていない。
食事の支度は一番下っ端のメルディの仕事だ。凝り固まった肩や腰をほぐしながら椅子から立ち上がる。
「パパー、今からご飯作るけど、何食べたい?」
しばし待つが、返事はない。集中すると何も聞こえなくなるのはメルディと同じだ。
肩をすくめて店に出ると、何故か明かりがついていた。煌々と光を放つ魔石灯の下、誰もいないはずのカウンターに、誰よりも会いたかった人が新聞を手に座っている。
「ひと段落ついた?」
「レイさん! いつから居たの? ごめんね、気づかなくて。声をかけてくれたらよかったのに」
「二人とも集中してたから、邪魔しちゃ悪いと思って」
いつも通りの笑顔だが、きっと嘘だ。声はかけたがメルディたちの耳に入っていなかったのだろう。明かりを点けてくれたのもレイに違いない。
自分のやらかしに内心落ち込みつつ、「来てくれてありがとう」と心を込めて伝える。
「さっきまでリリアナさんも居たんだけどね。『まさに修羅場だな』って、笑って帰ってった。これ、差し入れだって。君たちの好きなトンカツ弁当」
「やったー! ママ、ありがとう! さすが職人の嫁!」
差し出された紙袋の底には魔法紋が書かれている。レイが保護魔法をかけてくれたらしい。おかげでまだ温かい。
芳しい香りに、メルディのお腹がまた唸る。頬が熱くなったが、レイは聞こえないふりをしてくれた。
「今から作るの大変だもんね。僕からはこれ。もし足らないものがあったら言って。持ってくるから」
大きなボストンバッグの中にはメルディの服や洗面道具が丁寧に詰め込まれていた。それも、きっちり十日分。
「しばらく帰って来られないんでしょ? 大量受注が入ったって、近所の職人連中から聞いたよ。クリフさんも相変わらずだね」
「っ……! ごめんなさい、レイさん。奥さんなのに、私」
唇に人差し指を当てられて、その続きは言えなかった。
「謝ることじゃないでしょ。君は自分の仕事に集中しな。僕なら大丈夫だから。――ほら、泣かないの」
歌うように囁き、目尻からこぼれた涙を優しく拭ってくれる。疲れていたから余計に心に沁みる。反則だ。我慢し切れずにしゃくりあげる。
「わ、私、レイさんと結婚してよかった」
「嬉しいなあ。でも、あまり無理しないでよ。アルティのことも見張っててやってね。昔っから、君たち親子は自分に無頓着なんだから」
交わした口付けは、少しだけ涙の味がした。
「ああ、疲れた……。もう腕動かない……」
「パパも……。明日は絶対筋肉痛だなあ……」
「お疲れ、二人とも。大変だったな」
修羅場が始まってから十日後。無事に納品が完了し、工房でぐったりと座り込むメルディたちの元にリリアナがやってきた。
どこかで買い物でもしてきたのか、手には紙袋を下げている。妻大好きなアルティが「リリアナさん!」と笑顔を浮かべ、主人を出迎える犬のごとくに駆け寄っていく。
「随分やつれたなあ。ご飯はちゃんと食べろって言っただろ」
「早く片付けて帰りたかったから。ねえ、今日は外で食べましょうよ。久しぶりに一緒に飲みたいです」
「こら、子供の前だぞ」
年甲斐もなくいちゃいちゃする両親に頬を膨らませる。何故、職場で当てられなければいけないのか。ちくしょう。
「相変わらずラブラブなんだから。いいもーん。私も旦那さまのところに帰るもんね。後片付けはよろしくね、パパ!」
「あっ、送っていくよ」
「二ブロック先だもん。大丈夫だよ。一刻も早くママと二人っきりになりたいでしょ。約束通り明日はお休みもらうから、また明後日ね」
「ちょっと待て、メルディ。これ、頑張ったご褒美」
手を振って店を出たところで、追いかけてきたリリアナに紙袋を渡された。中を覗くと、花の形をした入浴剤が入っていた。それもお高いやつ。
「えー、嬉しい! ありがとう、早速使うね。ずっとシャワーだったから、お風呂が恋しかったの」
「だろうなあ。今日はゆっくり湯船に浸かって、少しでも疲れを取るんだぞ。頑張れよ」
「? 何を頑張るの? 仕事終わったのに?」
「すぐにわかるさ」
首を捻りつつ、そのままリリアナと別れ、弾む足取りで家に戻る。
ドアには『アグニス魔法紋専門店』と書かれた看板と共に、『クローズ』の札が吊るされていた。
まだ閉店時間には早いが、メルディが帰ってくるから店を閉じてくれたらしい。レイの愛情に自然と口元が緩む。
「ただいまー!」
「おかえり。大変だったね。ご飯もお風呂も準備できてるよ。どっちがいい?」
店の奥のキッチンから顔を出したレイが微笑む。仕事中ずっと恋しかった姿に胸がきゅんとする。
アップにした金髪も、優しく細められた翡翠色の瞳も、エルフ特有の尖った耳も大好きだ。きっと寿命が尽きるときまで好きなままだろう。
「メルディ? どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない。お風呂から入るよ。さっぱりしてから食べたい!」
「言うと思った。ちょうどいい温度だと思うけど、熱かったら調整してね」
「ありがとう。レイさん、大好き」
お風呂場はキッチンのさらに奥にある。ダイニングテーブルの上に所狭しと並べられた料理を見て、メルディは目を輝かせた。
「すごいご馳走だね。私の好物ばっかり」
「お疲れの奥さんに精をつけてもらわないとね。腕によりをかけました」
嬉しすぎて涙が出そうになる。同時に、何も返せていない自分が情けなくなったが、考えないことにした。明日から少しずつ返していこう。
「後片付けは私がするね。留守の間、家事全部やってもらっちゃったし」
「いいよ。僕がやる。君はゆっくり休んでて。これからもうひと頑張りしてもらうからさ」
「えっ」
目を丸くするメルディに、レイが笑みを漏らす。そしておもむろに近づくと、耳に唇を寄せ、そっと囁いた。
「僕、ずっと我慢してたんだよ? 明日はお休みなんでしょ? 覚悟しといてね」
手から紙袋が落ちる。
リリアナが「頑張れよ」と言った意味に気づき、メルディは顔を赤らめた。




